女はみんなこうしたものだなんて!

三澤洋史 

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女はみんなこうしたものだなんて!
 なんという時間と才能の浪費!3時間もかかるオペラを作って、その労力たるや中途半端なものではないというのに、それが全て、いかに女というものが不貞なものかを証明する為に費やされるなんて!
 “コシ・ファン・トゥッテ”を見ているといつも思う。Cosi fan tutteとはイタリア語で「女はみんなこうしたもの」。副題を「恋人達の学校」という。どうして分からないカタカナのタイトルを設定したのかはさだかではないが、多分題名の内容が非道徳的で、日本語に訳したら教育上よろしくないと誰かが判断したんだろうな。

 ドン・アルフォンソは、自分の恋人こそ貞節なんだと主張し合う二人の若者をあざ笑い、女に貞節を求めるなんてどうかしていると言う。その言葉に怒り狂う二人に対し、彼は、それなら賭をしようかと持ちかける。
 計画はこうだ。まず彼等は、自分の彼女達に兵役で戦地に行ってしまうことを告げる。それから誰だか分からないように変装して恋人達の前に再び現れる。しかし、今度は相手を取り替えて口説き始めるのだ。そしてもし相手の恋人を落とせたら、ドン・アルフォンソの勝ちである。
 そして結果は・・・・二人の恋人達はまんまと落ちてしまうのだ。それで、「やっぱり女とはみんなこんなものさ」で終わるんだから、なんともしまらない。

 モーツァルトが音楽史上稀に見る大天才であった事を疑う人は誰もいないが、僕は個人的には同時代に生きていなくて本当に良かったと思う。だって側にいたら作曲家としては尊敬するけれど人間的には・・・・という狭間に常に悩むことになったと思うから。
 あのベートーヴェン先生もこのオペラには激しく怒っているなあ。
「こうしたものには嫌悪感を感じるのです。軽薄すぎます!」
だって。

 しかしこの作品の中には人間存在を冷徹に見据える眼がある。愛する恋人同士は永遠の愛を誓う。しかしそれは最も永遠とは遠いシチュエーションの元でなのだ。
 考えても見よう。永遠の愛を誓いたいような自分の彼女は、美しく愛らしいだろう。ということは、それを他の男達も見ているだろうし、なによりも彼女本人が、「あたしってまんざらでもないわね。」と思っているに違いないのである。
 たとえば、もうこいつは絶対に他の男からも誘惑されないだろうなと確信できるような「おばさん」には、わざわざ永遠の愛を誓う必要はないだろう。本当はその時こそ永遠がそばにあるのに・・・・。
 そんな危なっかしい瀬戸際で、我々人間は貞節を誓い合っている。そしてそれが崩れそうになると嫉妬に狂い、怒り、苦悩し、絶望し、果ては自殺したりストーカーになったり無言電話をかけたり、ありとあらゆる地獄的状況に陥っていく。人間とはかくも不幸な存在か!

 “コシ”の中では、人間の心の裏側がこれでもかとさらけ出される。悪魔的と言えるほどだ。たとえば第一幕の最後であれほど怒っていた女性達は、第二幕の冒頭ではもう、
「あたしはこっちの人の方がいいわ。」
なんて品定めをしている。怒りは心変わりのすぐ隣にいるのだ。
 すぐ陥落してしまった次女タイプのドラベラに対し、身持ちの堅い長女タイプのフィオルディリージがフェルランドに最後の誘惑を受け、陥落していく様を見るのは痛ましい。
ちょうど高村光太郎の智恵子抄の冒頭の詩“人に”のような気分になる。
    ちやうどあなたの下すつた
    あのグロキシニヤの
    大きな花の腐つてゆくのを見る様な
いたたまれない気分になる。
 これが第一幕で「岩のような」を歌った、あの優雅で優しく毅然としていたフィオルディリージちゃんなの?どーして?どーして、そんなに早く心変わりして しまうの?ひどいじゃないの!!
 あ!し、失礼。つい気持ちが入ってしまいました。ええと、そんな気にさせるほど、こうした心理描写がリアルなので、とっても困るんだ。

 モーツァルトは、こうした誘惑のシーンを描くとき、必ずイ長調という調性を使う。“ドン・ジョヴァンニ”のツェルリーナの誘惑シーンはあまりに有名。 “フィガロの結婚”の第三幕では、スザンナが伯爵を誘惑するが、最初はイ短調。それが、伯爵が、
「本当か?いいのか?」
と言って喜び始めるところからイ長調に転調するのは見事だ。オペラ以外でも、ピアノ協奏曲第23番とかクラリネット協奏曲や5重奏曲など、イ長調の曲はみなエロチックだ。
 イ長調でフェルランドが、
「あわれみをもって振り向いてください。」
と甘いバラードを歌うと、耐えきれなくなったフィオルディリージは、
「あたしを好きなようにして。」
といってフェルランドの腕の中に倒れ込む。くーっ!たまんねえね。そう言われてみたい。
いやいや、そういうことではなくて、痛ましすぎるのです。

 演出家のコルネリア・レップシュレーガー女史は、長年ジャン・ピエール・ポネルの演出助手をやっていたこともあって、いくつかのアイデアをポネルからパクっている。
 一番驚くのは、終幕で本当は二組のカップルは元の鞘に収まるんだけれど、これがなんと取り替えたまま新しい恋人同士として再出発する演出に変えられてしまっている。こうなるとモーツァルトのリアリズムは、さらに先を行って、とてもニヒルな色合いを帯びてくる。その伏線として、序曲で合唱団が登場して、男女が互いに恋人を見つけたかと思うと、再び離れて別のカップルが生まれるという演技をする。
 “フィガロの結婚”でも“ドン・ジョヴァンニ”でも、終幕は確かに取って付けたような「無理矢理ハッピーエンド」なのが不自然と言えば不自然だが、こうリアリスティックに「過ぎた時は戻らない」とやられてしまうとちょっと抵抗感があるな。歌詞との整合性もあるし、アイデアとしては面白いけどね。

 それより、女性演出家ならではの細やかな配慮が随所に見られます。たとえば恋人達が兵隊に行ってしまって絶望する二人の女性。長女は何も手につかないけ れど、次女はデスピーナが持ってきた朝食のパンをひたすら食べ続ける。端で見ていても大丈夫かいなというほどムシャムシャ食べることを彼女はドラベラに要 求する。例を挙げるときりがないけれど、全編そんな感じ。

 このホームページの「今日この頃」の最初の原稿でも紹介した若きマエストロ、ダン・エッティンガーは、また一回り大きくなって帰ってきた。前回の“ファルスタッフ”も良かったけれど、今回は素晴らしいモーツァルトだ。それに答えて東京交響楽団もすごく良い。
 とにかく演奏面では近年にないモーツァルトが聴けます。兵隊の合唱が終わった後の三重唱を聴いていると、まるで夢を見ているようなあまりの美しさに我を忘れる。
“コシ・ファン・トゥッテ”は、新国立劇場で明日21日がいよいよ初日。

健康診断
 健康診断に行ってきた。「癌でした。」と言われたらどうしようかと思っていたが、全身くまなく極めて健康体。万歳!
 しかし・・・・・最近気がゆるんでいて、あまりカロリーに気をつけていなかったので、血糖値が上がっていた。ヤバイ!
 お医者さんは、レントゲン写真を見ながら、
「ここの心臓の横の薄い影は脂肪です。血糖値のこともあるからやっぱりダイエットした方がいいですなあ。」
とニヤニヤ笑いながら言う。

 僕が練習に行く合唱団の皆さん!どうかお願いですから僕にあまり甘いものを奨めないでくださいね。あまり奨めなければいいです。ちょっと奨める分には構いませんからね。特にモーツァルト200や志木第九の会などは、いつもとてもおいしいものを出してくれるので、あえて断りはしませんからね。少し砂糖を減らすとか、いろいろ方法はありますからね。分かりましたか?では、よろしくお願いします。




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