雪国

三澤洋史 

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雪国
 22日の晩、東響コーラスの練習が終わると、いつもは途中まで一緒に帰るピアニストの松井啓子さんと別れて、ひとりで山手線の新大久保駅に早足で向かった。行く先は群馬。 明日の十時半に前橋市の上毛新聞社を訪ね、ドイツ・レクィエムの取材を受けることになっている。無理しても今日中に群馬の実家に行って泊まれば、次の朝が少しは楽になる。

 夜の高崎線は、大宮あたりまでは混み合っていたが、熊谷を過ぎるとずっと乗客の数が少なくなった。街の明かりも急に暗くなってきて、昼間であればのどかな田園風景が広がっているであろう駅と駅の間では、ただ深い闇の中を電車だけが弾丸のように駆け抜けていく。それは漆黒の宇宙空間に浮かぶ光の帯のようでもある。
 ふと僕は「銀河鉄道の夜」を思い出した。電車がこのまま静かに線路を離れ、異次元の世界に向けて飛び立っていっても、何も不自然に感じることなくそれを受け入れることが出来るような非現実的な空間が支配していた。

 実家に着いて風呂に入り、お袋の用意してくれていたモツ煮をつまみながらビールを飲んで寝床に向かった。そのまま寝るのは淋しいので、なにか読むものがないかなと古い書棚の中を目で追った。ここには、狭い東京宅に持ってこない僕の少年時代からの様々な書物がある。

 たとえば小学校の時買ってもらった百科事典。お袋に、
「これを全部覚えたら偉い人になれるよ。」
と言われて「あ」行から一生懸命覚えようとしたっけ。
 それからレコード付きの音楽全集。ベートーヴェンもバッハもワーグナーもこの全集で出逢った。中学校の頃は本当にどの作曲家もレコードがすり切れるまで聴いた。特にアンネリーゼ・ローテンベルガーの歌うシューベルトの「鱒」と「春の信仰」にはしびれたんだ。レッジェーロ・ソプラノ好きの嗜好はこの頃に芽生えたのだと思う。

 そうした僕の知的宝物とも言えるなつかしい書物の並ぶ本棚の隅に、ふと川端康成の「雪国」があるのが目に止まった。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
冒頭の文章に先ほどの夜の電車の体験が重なった。トンネルを抜けた雪国とは、異次元空間であり彼岸なのかも知れないと思い、手にとって布団の中で読み始めた。すぐに本が顔の上に落ちてきたので、ひとりで笑いながら電気を消し、そのまま僕は睡魔に引き込まれていった。

 「雪国」を読んだのは高校時代だ。この頃僕は随分日本文学を読んだ。気むずかしい思春期の僕の心に潜り込んで悩める者の友となったのが、「人間失格」の太宰治だったり「青春の蹉跌」の石川達郎だったりした。あの頃かなり若者達の心をつかんでいた五木寛之も好んで読んだ。川端康成は、ストーリーにメリハリがないのでそんなに惹かれていなかったが、本棚を見ると主要作品がほとんど揃っているのには軽い驚きを覚えた。
 僕が日本文学をきっぱりと読まなくなったのと、キリスト教に興味を持ち、教会に行き始めた時期とはほぼ同時だ。当時意識はしていなかったが、きっと僕の心の中でこの二つは連動している。浪人時代から大学時代にかけて僕が読んだものといえば、ドストエフスキー、トルストイ、ロマン・ローラン、ヘルマン・ヘッセ、トーマス・マン。西洋文学には論理があり、宗教的葛藤や罪や罰に対する問いかけ、人間存在の根本を探る精神的深さが感じられる。そうしたことの希薄な日本文学に興味を失ったのだろう。

 「雪国」は、いつの間にか僕のカバンの中に入っていた。今はるかに時が過ぎ、あらためて川端康成の文学に向き合う。まず文章の巧みさに舌を巻いた。巧い!しかし巧過ぎる!
遥かの山の空はまだ夕焼けの名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿が尚更平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。
なんじゃ、これは?素晴らしすぎて訳わからん。なにかリヒャルト・シュトラウスの交響詩を聴いているような気持ち。人工的だなあ。技巧的だなあ。だからいけないというつもりはないけれど・・・・。

 読み進んでいく内にしだいに腹が立ってきた。冒頭に登場する葉子といい、主人公でもある駒子といい、読者がその言葉を読んで、あるいは見て、自分の心の中で一番きれいな女性を描けるように細心の配慮が払われている。
「なにか涼しく刺すような娘の美しさ」
「島村は彼女のうちになにか澄んだ冷たさを新しく見つけて」
「美人というよりもなによりも、清潔だった」
「杉林の陰で彼を呼んでからの女は、なにかすっと抜けたように涼しい姿だった」
「悲しいほど美しい声であった・・・・純潔な愛情の木魂が返って来そうだった」
 川端氏には分かっているんだ。男は、女の艶っぽい媚びた姿が見たいくせに、同時に清らかさや清潔感といったイメージを求める。だからこうして文章のテクニックを持ってそれが表現されると男は喜ぶのだ。色気と爽やかさとは交互に表現され、そのバランスは絶妙。読者は、川端氏の文章に翻弄され、女性主人公達に自らの理想女性の姿を合わせ、つかの間の疑似恋愛をしていく。畜生、その手は桑名の焼き蛤!

 一番嫌悪したのは、主人公島村の生き方。無為徒食の彼は、東京に妻子がある身でありながら、こうしてぶらりと温泉地に来てはしばらく逗留する。駒子にしだいに惚れていきながらもあっさりと東京に帰っていく。そしてまた思い出したように戻ってくる。つまり彼は駒子に対してゆきずりの愛以上のつながりを決して持とうとしないのだ。
「あんた、なんしに来た。こんなところへなんしに来た。」
「君に会いに来た。」
「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌い。」
こういうことをさあ、女性に言わせてはいかんよ。しかも、それだけでは飽きたらず、葉子という女性にも惹かれていくんだから話にならない。もっと腹立つのは次の文章。
蛾が卵を産みつける時期だから、洋服を衣桁や壁にかけて出しっぱなしにしておかぬようにと、東京の家を出がけに細君が言った。
こうやってだらしない夫の無為な長期外泊を許す妻の寂しさに対して全く無頓着な主人公。妻が、
「行った先に、あたしよりいいひとがいるかも知れないわ。」
と思いながら彼を送り出さないとでも思っているのか。そこまで妻に無関心なのか。妻は単なる家庭を守る妻であって、もうこれっぽっちも彼にとっては女ではないのか。フェミニストの僕としては、こうした男の無神経が許せないのだ。

 勿論、それが作者のねらいであることも分かっている。川端氏の主人公はみな行為者ではなく傍観者なのだ。だから女の美しさが引き立ち、存在感が増す。駒子の率直な生の息吹は、島村の静に対する動として、実に躍動感を持って描かれていてまぶしいほどだ。
「君はいい女だね。」
「どういいの?」
「いい女だよ。」
「おかしなひと。」と、肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと片肘立てて首を上げると、
「それどういう意味?ねえ、なんのこと?」
島村は驚いて駒子を見た。
「言って頂戴。それで通ってらしたの?あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね。」
 でもさあ、こういうのって行くあてのない暴走列車みたいなものというか、袋小路にはまり込んでにっちもさっちもいかなくなった大型トレーラーっていうか、先の見えない刹那的な耽美主義にしか過ぎないよ。

 だから川端文学には常に死の匂いがある。
秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日毎にあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であったけれども、近づ いて見ると脚や触覚を顫わせて悶えているのだ。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののように眺められた。
 これは素晴らしい文章だ。両手を挙げて降参というか、脱帽するよ。しかしすぐその後の文がいけない。
島村は死骸を捨てようとして指で拾いながら、家に残してきた子供達をふと思い出すこともあった。
そう思ったらすぐ家に帰れよお前!何やってんだよ、こんなところで!

 50歳になった僕だから、昔は全てのものに敬意を払って言えなかった言葉を言ってしまうんだ。僕はこういう小説は嫌いだね!おお、言った。ざまあ見ろ!

 「私は、そこから離れてまるで放蕩息子のようにさまようことによってカトリシズムの中を生きている。」
というようなことを言ったのは、確かヴェルレーヌだったと記憶している。探してみたが見つからないので確かではないが、僕は、このような考え方にむしろ強く共感する人間だ。
 どっちみち罪深い生き方をしているんだったら、罪の意識があろうがなかろうが大差ないと思う人もいるが、僕はそうは思わない。満員電車のリュックサックのように、無意識のうちに人を傷つけていることは、意識的行為よりももっとたちが悪い。何よりも自分自身の生を傷つけている罪は最も重い。前にも書いたけれど、命はね、自分のものではないんだよ。

 駒子の心が後戻りできないところにきているのを感じている島村は、また東京に戻って、今度は別の場所でまた駒子とのようなことを繰り返すだろう。何の罪の意識もなく、自分がどこに向かっているのかも分からず、光りも闇も感ずることなく人生を渡っていくであろう。
 僕にはね、こんな生き方は耐えられないんだよ。僕は勿論自分のことを神の前に特別な人間だと思っているわけではない。聖人はおろか、善人と思っているわけでもない。むしろひとりの罪人である。でも、罪人であることによって、あるいは自分の神からの遠さを感じることによって、僕は自分の“宇宙における座標軸”を確認し、どこに自分の人生が向かうべきかを把握したい。自分の生がたまゆらのようなものではなく、まぎれもなく厳然と存在しているんだという確かさを手にしていたい。
 そして僕は、どんなに回り道をしても、最後の最後には神の住む光りの世界に到達したいと強く願っている。僕の人生はそのためにあり、僕の芸術もそのためにある。それ以外にはない。仮に光りの世界に到達出来なくても、僕は、自分の人生において最後に倒れる時には、前向きで倒れたい。求め続けたそのままの姿勢で人生を終えたい。

さらば、退廃と死の匂いに満ちた川端文学よ!



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