空飛ぶ聖座

三澤洋史 

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空飛ぶ聖座
 僕は、ローマ法王を神のごとく扱うようなファンダメンタルなカトリック信者ではない。司祭や司教や枢機卿、そして教皇といえども、神の前にはひとりのか弱き人間であり、我々一般市民の同胞である。すなわち罪を犯し得る、あやまち得る存在であって、過度に敬うべきではないと思っている。だから教皇の死の知らせを受け取ったときでも、悲しみに我を忘れたりするようなことはなかった。ひとりのキリスト者の死を厳粛に受け止めたのみである。
 しかし、ヨハネ・パウロ二世の人間性とその業績を振り返った時、僕は彼に深い尊敬の念を覚える。彼が第264代教皇として即位した1978年から今日まで、僕は彼の行動をいつも驚きを持って見守ってきた。彼は「空飛ぶ聖座」と呼ばれているように、その座に甘んじることなく世界中を飛び回り、実に信じられないほどの沢山の働きをした。
 まさに激動の時代。冷戦終結に伴って世界はこれで平和になるかと思いきや、むしろ冷戦構造の陰に隠れていた民族と宗教の対立が表面化してきた。湾岸戦争が勃発し、民族紛争が激化した。9.11同時多発テロが起き、それはやがてイラク戦争へと発展していった。こうした流れをつぶさに見届けていた教皇は、ゴルバチョフを初めとして沢山の政治家、宗教家達と接触し、一見無謀とも思えるほど積極的に対話を求めていったのだ。

 神を信じる者は共に祈ることが出来るという確信を持つ教皇は、1986年にイタリアのアシジで、「世界平和を祈る集い」を開いた。これは前代未聞の試みだった。カトリックでないキリスト教各派が招かれただけでも画期的なのに、なんとユダヤ教、仏教、イスラム教、ゾロアスター教、ヒンズー教、アフリカや北米先住民の伝統宗教の指導者達など、あらゆる宗教指導者が一堂に会した。日本からも神道の指導者が招かれた。
 しかしこうした彼の熱心さは裏目に出ることもあった。ロシアでは、社会主義によって宗教が抑圧されていた冷戦時代の終結に伴って、元来のロシア正教が復興するのみならず、新たに小さなカトリック共同体が生まれつつあった。ロシア正教会首脳部にとってみると、それは愉快なことではなかった。一方、かつては東側陣営に組み込まれ、ロシアと親近感のあったポーランド出身のヨハネ・パウロ二世は、モスクワ訪問を何より望んでいた。彼は、ロシア正教会総主教アレクシー二世との会見を求めたが、その情熱は逆に正教会首脳部を極度の不安に陥れた。
 彼等は教皇の純粋な想いなど知るよしもなく、教皇などが来たら、カトリック教会の宣教に一気に火がついてしまうであろうと恐れた。
「伝統的な正教会でのカトリック宣教は攻撃的である。」
という内容の声明を出した正教会首脳部は、特に2002年にロシアでカトリックの4教区が設立されると、教皇のロシア訪問への扉を堅く閉ざしてしまったのである。

 こうした教皇の行動は、自らをカトリックという一宗教の立場に置きながら、他の宗教と対話していくことの難しさを露呈することともなったが、一方では、世界がもはやひとつのセクトの興隆にとらわれている場合ではないことを示すきっかけともなった。
 通信、交通の発達により、世界がグローバル化してきている現代、自分と違う価値観を持つ人々と、争いという形でしかコミュニケーションを取れなかった前世紀的状態はもはや繰り返すべきではない。他人の価値観を自分の価値観とすることは出来なくとも、少なくとも他人がその価値観を持つ権利を守り、そのままでその人達と“共生”していくことは、これからの時代には不可欠である。だとすれば、それは対話という形から始めるしかすべがない。しかし、それぞれみんなプライドがある。では誰が一体対話の口火を切るか?その時、最もプライドがあり、いわゆるお高くとまっていたカトリック教会が、その口火を切ったのだ。
「人の子は、仕えられるために来たのではなく、仕えるために世に来たのである。」
とはキリストの言葉だ。ヨハネ・パウロ二世はキリストに習い、どこにでも腰を低くして世界中へ対話を求めて出掛けていった。
 今自分は、カトリック新聞最新号を参照しながらこの記事を書いているが、紙面は教皇の業績で埋め尽くされている。彼のしたことはもっともっと沢山あって、とてもここには書ききれない。とにかくカトリック教会史上でも本当に希有な教皇であったことは間違いないのである。
 僕は、ここのところの彼の健康状態を見ていて、こんな状態になってもまだ働いているとはなんて気の毒な・・・と思っていた。死のわずか一週間前の復活祭のミサでは、人々の前に姿を現したものの、声が出ず、あわててまわりの人が取り繕った。亡くなった日の朝刊では、延命治療を施すか否かの議論がまだ行われていたのである。
 今、彼にはやっとやすらぎが戻ってきた。信念や喜びもあったろうが、行動する分だけ敵も作り、批判も受け、決して楽な人生ではなかったろう。本当に本当にご苦労様でした。合掌。

 さて、そうなると次はコンクラーベ(教皇選挙)だ。ヨハネ・パウロ二世が455年ぶりにイタリア以外の教皇であったことから、次の教皇は再びイタリア人から選出される可能性が高いなどと報道されているが、ナンセンス!
 いやイタリア人が悪いわけではないが、どうしてイタリア人にこだわるかが理解できない。だってキリストも初代教皇のペテロもイタリア人だったわけではないだろう。キリスト教は、確かにローマ帝国のお陰で世界布教への足がかりをつかんだ。でも、それは昔のこと。今ではバチカン市国がたまたまローマ市の中にあるに過ぎないのだから、イタリア人という血筋は信仰にとって何の意味もなさない。
 血筋にこだわるならば、まだユダヤ人から選ぶとか、例のキリストとマグダラのマリアの間の、いわゆる王家の末裔から選んだ方が正当である。
 でもそれも駄目だね。聖書にはこう書いてある。
しかし、言(ことば-神のこと)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
この人々は、血(血筋)によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
                    (ヨハネによる福音書第1章-12,13)  
 つまり血筋に全く関係なく、ただ神の前に霊的に高い人から選ばれるべきである。これからの時代は、ヨハネ・パウロ二世の時代よりももっと大変だ。すなわちカトリック教会、あるいはキリスト教自体の存在が根底から問われる時代になると思う。世界がグローバル化していく中で、既成宗教はしだいにその役目を終えつつあるのだ。かりに新教皇がヨハネ・パウロ二世と同じように対話を求めたところで、同じように報われない状態に世界はなっている。だから本当は、もっとカトリックの殻を破るような若くてエネルギッシュな人が教皇になるべきなのだ。そうしないとカトリック教会には未来はないぞ。

反体制オペラ「フィガロの結婚」
 「フィガロの結婚」第三幕終わりの方、伯爵から詰問されたフィガロが、
Perche no ?(他に理由がありますか?)
と答えるところがある。
 ここを演出家アンドレアス・ホモキは、足を踏みならして大声で威嚇的に答えるようにフィガロ役に要求した。それに驚く人々。思わずこぶしを挙げる伯爵。その時遠くから結婚行進曲が聞こえてくる。ホモキはこの瞬間にフランス革命前夜の民衆の爆発寸前の有様を描写しようとしたのだ。
 
 「フィガロの結婚」の中に潜む反体制のエネルギーはもの凄い。領主の家系に生まれついただけで、どんなボンクラでも人の上に立ち人を支配できるという封建制度の不条理に、自分の才能を持ってここまで上り詰めてきたフィガロは果敢に立ち向かうのだ。彼は奸計を使って伯爵をしだいに追いつめていく。表向きは、浮気性の伯爵が最後に伯爵夫人の前であやまるまでのプロセスをおもしろ可笑しく描いているが、その背後のモーツァルトの反骨精神に気がついた瞬間、背筋に冷たいものが走る。

 モーツァルトはチャップリンに似ていると思う。ユーモアと反骨精神とは表裏一体だ。人々は、面と向かっては角が立つことをユーモアにし、笑い飛ばすことでエネルギーを逃がす。しかしその分だけ、その笑いには毒が混じっているのだ。
 威張りくさっている伯爵は、面と向かってはとても怖い人間だ。彼が望めば人一人の命くらいどうでもなってしまう。しかし激怒する人間というものは端で見ている限り滑稽でもある。その滑稽さを滑稽なものとして描写するのが、「独裁者」のチャップリンでもあり「フィガロの結婚」のモーツァルトでもある。
 一番言ってはいけない時期に、一番言ってはいけない危ない事を言う。チャップリンもモーツァルトも命を賭けていたに違いない。
 モーツァルトという作曲家。胎教などにも使われるやさしくてきれいな曲を書く作曲家とだけ認識していてはいけませんぜ。
「あいつをあなどってはいけない。出来れば、抹殺したい。」
これは、おそらく彼の時代に彼の上に立つ人みんなが思っていた事だと思う。

「ドイツ・レクィエム」ラストスパートへのアイドリング中
 東響コーラスは、「ドイツ・レクィエム」オーディションの真っ只中。みんな頑張っている。さあ、だんだん本番が近づいてきたぞう。でも僕が本領を発揮するのは、オーディションが終わった後から。
 これからどこまで登り詰めるか、僕にも分からないが、間違いなく我が国の合唱作品演奏史に残るレベルのものに仕上がる確信はあります。5月1日、サントーリー・ホールで以外どこにも聴けない「ドイツ・レクィエム」が生まれつつあります。みなさん、楽しみにしていてください。



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