New MDRへのご挨拶

三澤洋史 

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New MDRへのご挨拶
 みなさーん!お久しぶりです。三澤です。このホームページも再び「復活なされたイエス様」になりました。その名も新たにMDR・・・あれれ?またかい?と思われる方もあるかも知れません。しかし今度のMDRはMisawa Deutsches Requiemなんかじゃありません。もう全然違います。
 月日はどんどん過ぎ去っていき、世は諸行無常。ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらずです。だからMDRも絶えずして、しかも元のMDRにあらずです。
 では今度のMDRは何かというと、驚かないでください。みなさん!新しいMDRとは、Misawa Dokodemo Runrun なのです。最後はランランと読まないで下さい。ルンルンです。「三澤・どこでも・ルンルン」。何と哲学的な響きでしょう!

 あの演奏会からもう随分立ちました。僕の方は、演奏会の余韻に浸る間もなく、5月2日にはもう「蝶々夫人」の合唱音楽稽古が始まったのですが、大きな演奏会の後は、僕の脳はいつもほとんど壊れていて、様々なドジをかまします。5月2日もかなりイッちゃってました。
「さあ、みなさーん!ここでリタルダンドしますから気をつけてね。」
と言いながら、次に振る時にはボーッとしていてインテンポでいっちゃって、しばらくしてから、
「あれっ、僕今リタルダンドしたっけ?」
「しませーん!!」
「あ、ごめんごめん・・・。」
てな調子で、新国立劇場合唱団のみなさん・・・す・・・済みませんでしたあああ!!

 その後、数日間は興奮していて元気だったのですが、週末当たりにかけて疲れがどっと押し寄せてきて、肩が張ったり、ピアノ弾くと手が痛くなったり、労働意欲が失せたり、かなり心身共に不調になりました。
 週末は、東京バッハ・アンサンブルの合宿が鹿島でありました。練習はなんとかやりましたが、懇親会に夜中まで付き合って、「いざ立て戦人」をみんなと歌ったり、「大地讃頌」を振ったりしていたら、相当酔っぱらってしまいました。
「おお、やべえ、これくらいで酔ってしまって、やっぱり疲れているんだね。」
朝起きてみたら自分の口がまだワイン臭くて気持ちが悪かったです。それでも練習はバッチシ厳しくやったから偉かった!

 そんな風に疲れていたので(どんな風だね)、思い切って合宿が明けた次の日は、家内の車で四万温泉に行ってきました。一泊だけだし、遠出するだけでもかえって疲れるかなと心配もしたのですが、どうしてどうして、みなさん!温泉を馬鹿にしてはいけませんぜ。かなり効きました。僕は貧乏性なので、家にいると何もしないではいられず、ついスコアを開けたり、勉強を始めたりしてしまうのですが、今回は何も持たないで出発し、途中、家内のお母さんのところに愛犬タンタンをあずけ、温泉に何度も入って本当にボーッとしました。
 一泊しただけで、手の痛みも肩の凝りもまるで嘘のようにすっかりなくなって、また頑張ろうという気持ちになったのですから素晴らしいもんです。環境が変わるだけでも違うんだろうし、何よりも山や森林の“気”に触れることで内側からリフレッシュしたようです。
 ということでホームページも更新したくてウズウズしてきたのです。週末になるとなんだかソワソワするし、あまりもったいぶるのも何なので、こうしてまた登場したわけです。
 今度は期限があるプロジェクトというわけでもないので、落ち着いていろんなコーナーも開設したりして、みなさんの意見を聞き入れながら進めていこうと思います。このホームページは、三澤洋史公式ホームページとなります。では、この辺で「ですます調」を止めて内容に入っていきましょう。 Incominciamo!

 

最後にもう一度だけドイツ・レクィエム
 5月1日の演奏会の録音を入手した。ドキドキしながら聴いた。録音はまあまあ。オルガンも含めてもっと低音が出ていたと思うが、あの体感する超低音は録音には入りきらないなあ。
 かなりテンポを動かしたつもりだけれど、その割に不自然だというそしりがあまり僕の耳に入ってこなかったので不思議に思っていたが、録音を聴いてそのわけが分かった。東響コーラスのみんなが僕の音楽をしっかり理解してくれていたお陰で、自然に音楽が流れていたのである。
 第四楽章などは、ブラームスがシンプルなタッチで仕上げているので、インテンポで演奏した場合、ただのきれいな曲で終わってしまうが、実は作曲には相当凝っていて、ちょっと工夫すると様々な表情が次々と現れる。それを合唱団は見事に描き切っていた。かなり感動しながら聴いた。
「あ、こんな風景がこの曲に隠されていたのか。」
と聴衆の立場になって聴いていた僕は、今更ながらに思った。

 僕は昔から思っていた。どうしてみんなテンポというものを表現の武器にしないのだろう?どうしてインテンポでやることばかり考えているんだろう?
 テンポ感のない指揮者ほど困るものはないが、テンポ感があったら、それをインテンポにだけ奉仕するのはもったいないというものである。
 フルトヴェングラーのような指揮者は、現代では生まれにくいと言われるが、彼が偉大なのは、アインザッツをずらしたりテンポを動かしたりするからではなくて、大事なものを表現するために、テンポも含めたところで、全ての要素を武器にしているところだ。
アッチェレランドをすることが良いとか悪いとかいうことではなく、問題はそれだけテンポを動かしても不自然に感じない音楽を構築できるかだ。すなわち立体的な構築性がそこにあるか否かなのである。
 その勝負を放棄している現代の演奏家達に、僕はこの演奏会で一石を投じたつもりだ。まあそんな風に気負っていたわけでもないんだけれどね。
 そういえば僕の演奏を知的だと評価してくれた人が多かったのには驚いた。しかし様々な解釈は、別に頭で考えた結果ではなかった。僕はただ自分の感性を頼りに自分の内面を見つめて、このスコアから何を感じる?どう表現したい?と突き詰めていっただけだ。

 残念なことがひとつある。CDでは第六楽章で「降りていたもの」は降りていなかった。音楽をデジタルな信号に変換した場合、どうしても「何か」がそぎ落とされてしまう。デジタルでは、ダビングなどによるその後の音質の劣化は防げるけれど、最初の時点で1と2との間にある無限な香りを切り落とし、1と2だけにしてしまう。一枚のCDに入るファイルの容量はせいぜい700MBくらいなので、ハイとロウの不可聴音を初めとして、「聞こえないであろう」音はカットされる。本当は物理的にはその音自身は聞こえていなくても、トータルでは聞こえているんだけどな。広がりとか音の厚みとかという印象を伴ってね。少なくとも僕には聞こえる、というか感じられるんだ。
 昔のレコードに最初に針を落とした瞬間に聞こえてきた音と、それがCD化された音とを聞き比べてみると明らかに違うでしょう。CDの方が音が良いと思っている人がいたら、そう洗脳されていて、思いこんでいるだけだ。

 音楽の中の霊性はきれいに消えていた。つまりこれは音響としての資料であって、5月1日の演奏会とは、ある意味別物と思っていた方が良い。会場全体を包んでいたあの暖かい雰囲気も感じられない。
 僕は聴衆の立場になって第六楽章で泣きたかったが、泣くどころか魂の中を音だけがすり抜けていってしまった。残念!
 でも、だからといってこの録音が価値がないとは言わない。自分で言うのもなんだけど、この演奏は「良い演奏」である。これまでに存在したいろいろな「ドイツ・レクィエム」の録音と比べてもけっしてひけをとらない「価値ある録音」である。「挑戦的な演奏」と言ってもいいかも知れない。ソリストも優秀。オケもほとんどミスはない。勿論合唱は素晴らしいの一言だ。
 これを市販のCDにして欲しいという声があちらこちらから聞こえている。僕が聴いた限りにおいては、ソース的には問題ない。しかし、CDを市販にして店頭に並べるようにするのは不可能ではないが、いくつかのハードルを越えなければならない。現在、様々な角度から検討中とだけ言っておこう。また経過は報告する。

iPod
 ドイツ・レクィエムの練習が佳境に入ってきた頃、念願のiPodを買った。その中に何種類ものドイツ・レクィエムの演奏を入れて電車の中や街角で聴いた。今はドイツ・レクィエムはハードディスクからは消え、変わりに「蝶々夫人」だのグールドのバッハだの、小野リサだの、マイルス・ディビスだの、バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏するブクステフーデ作曲Membra Jesu Nostriだのがごちゃごちゃに入っている。
 しかし、このiPodは音質的にかなり問題がある。iPodに音楽ファイルを入れる為にはiTunesというソフトをパソコンから立ち上げ、そこにまずCDなどからファイルを取り込まなければならない。そのiTunesのライブラリーから、今度はiPodのハードディスクに同期させる形で取り込む。その際、iTunesの初期設定では、AACフォーマットで取り込むことになっている。この音が劣悪なのだ。勿論、気に入らなければ設定を変えることは出来る。
 初期設定ではビットレート128Mbpsだが、これを192Mbps以上にすると、まあ聴けるかなという程度にはなる。しかし元のCDの音からはほど遠い。奥行きがなく平べったくつぶれたような音なのだ。みんなよく文句ひとつ言わずに聴いているなと不思議に思うよ。いっぱい曲が入りますというふれ込みだけれど、こんな音じゃあしょうがないよ。
 そこで僕は、CDのまんまのWaveファイルで取り込んで聴いている。でもね、そうすると圧縮していないから容量が大きくて、4GBのハード・ディスクはすぐ一杯になってしまうんだ。さらにiPodのヘッドフォンでは気にくわないので、折りたたみ式のヘッド・フォンを買って聴いている。またまたオーディオ・テクニカのATH-FC7\4680。これだけし努力してやっとなんとか使用可能になった。って、ゆーか、僕が音質に対してうるさ過ぎるのかも知れません。
 確かにiPodはCDウォークマンよりも小さいから持って歩きながら聴くのは便利だけれど、CDウォークマンの方が便利なことも多い。買ったばかりのCDを今聴こうと思っても絶対に聴けないんだもの。しかも一般の人は、CDを買っておきながら家で聴かずに、わざわざ悪い音にして街で聴いているんだものな。みんな、だまされているぞ!  

フィデリオ
 序曲が始まると、ああ、ベートヴェンの音だと思って不思議な感動に包まれる。音楽はモーツァルトのオペラのように自在ではないし、ストーリー展開も重くぎこちない。しかしベートーヴェンの想いは、彼のお気に入りのホルンやクラリネットやティンパニーの響きに乗ってズンズン胸に響いてくる。
 第一幕四重唱は、今度僕の演奏会「僕はただ僕の愛について語りたい」でもやる僕の大好きな曲だ。四人の登場人物の様々な思いがカノンに乗せて歌われる。マルツェリーネは、フィデリオと名乗っているレオノーレを男性と勘違いしていて想いを寄せているし、レオノーレはそれに困惑している。マルツェリーネの父親であるロッコは、良い婿を迎えられそうで喜んでいるし、モトカレのヤッキーノはヤッキーもちを焼いている。
 低弦のピツィカートを伴った弦楽器が静かに始まると、いつも僕は身震いを覚える。悲しいわけでもないし、嬉しいわけでもない何とも言えないあこがれに満ちた音楽。こんな音楽はベートーヴェンにしか書けない。
 第二幕の冒頭、フロレスタンのアリアの前奏曲は、ワーグナーの「神々の黄昏」の序幕への前奏曲及び第二幕への前奏曲の雰囲気を持っている。まだギャラントな音楽が横行している時代に、こんなにも深い悲劇の音楽が奏でられたことに驚きを覚える。こうした暗い音楽が次に聴かれるためには、「さまよえるオランダ人」の「オランダ人のアリア」や「ローエングリン」の第二幕の出現を待たなければならない。

 今回の新国立劇場のマレッリ氏の演出では、舞台美術が音響的にとても響くように作られているので、終幕で百人の合唱がHeil,heil!と歌い出すところは壮観だ。ノヴォラツスキー芸術監督なんかは、
「こんなに響くんだったら百人もいらなかったなあ。うるさいくらいだよ。」
とそろばんをはじいて後悔している。いいじゃん、たまにはドカーンといこうよ。
 静かな4分の3拍子になりみんなが「おお、神よ」と祈る場面があるが、その崇高美に胸を打たれる。これが果たしてオペラかと思えるほど、宗教的な法悦の世界に酔いしれてしまう。多くの演出家が、終幕をオラトリオのように扱うのも分かるような気がする。今回の演出ではびっくりするような舞台が見られるが、何が起こるかというと・・・・それはまだ企業秘密。

 ベートーヴェンは素晴らしいなあ!学生時代、ベートーヴェンばかり聴いていた日々が蘇ってくる。山田一雄先生のところに指揮のレッスンに行った時だって、ベートーヴェンの交響曲を一番から順番に持って行ったんだ。当時は、バッハよりも何よりも僕はベートーヴェンを崇拝していたんだ。

 しかし、こんな素晴らしいフィデリオなのにチケットがあまり売れていなくてみんな驚いている。まあ、サイモン・ラトル、ベルリン・フィルとくれば即満杯になるんだろうけどね。なんでも、一般のオペラファンは、ヴェルディは行くけどフィデリオには行かないし、ベートーヴェンの好きな人はコンサートには行くけどオペラ劇場には足を運ばないらしい。そこでMDRのみなさんには、これから行きたいと思う人に特別チケットを二割引で手に入れる方法を教えます(注)。ドイツ・レクィエムの時のソリスト河野克典さんも出るし、なんといってもロッコのチャマーの声が素晴らしいです。
どうか、みなさん新国立劇場に足を運んでくださいね。

事務局(注):右のPDFファイルに記入の上、新国立劇場営業部宛FAXしてください。  (公演終了につきPDFは削除しました)



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