タンタン

三澤洋史 

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タンタン
 タンタンと散歩していると、どうしてもっと他の犬と自然に仲良くなれないのかと思う。僕の家にもらわれてきたばかりの頃はそんなことなかったのに、成犬になるにつれて他の犬が気になり始めた。散歩中、他の犬が向こうから来ると、お腹を道路にくっつけて警戒態勢をとる。ひたいには縦にしわがより、今にも牙をむいて向かっていくばかりとなる。自分より大きい犬ほど攻撃的になる。絶対負けるに違いないのに・・・・。
「みんな仲良くしようよ。ねえ、タンタン!」
といいながら、僕はタンタンを抱っこして通り過ぎる。通り過ぎる瞬間、彼は僕の腕の中であばれまくる。他の犬も同じように飼い主のリードを引っ張りながらあばれている。

 電信柱の匂いをクンクンかいだ後、片足を上げておしっこする。このマーキングというのは、自分の縄張り(と自分が勝手に決めている)の中に誰が進入したのかをチェックし、その上に自分のおしっこをかけて、自分がこのテリトリーの主であることを主張する行為だという。その時、おしっこの位置が高ければ高いほど「偉い犬」と認識されるそうなので、胴長短足のタンタンも必死で足を上げる。もう涙ぐましいほど足を上げるが、肝心のおしっこの方は、なんとも情けない放物線しか描けない。トホホ・・・。

 犬は、何層にもかかっているおしっこの匂いを全て嗅ぎ分けるという。つまり散歩しながらこう思っているに違いない。
「あいつとあいつが今日も通ったな。全く俺の土地なのにけしからん奴だ。ヤヤッ!見慣れない奴が通った。無断の侵入者だ。けしからん!許せん!」
 お散歩コースはみんなのものだし、テリトリーなんて実はどこにもないのに・・・・。だからもっと天真爛漫にお散歩すればいいのに、馬鹿だなあ、犬って。

 でも、よく考えてみると、人間も同じだ。地球上の土地なんて本来誰のものでもないのに、高いお金で売ったり買ったり、境界を侵害したといって訴訟を起こしたりしている。いくさや国と国との間の戦争が起きるのだってそうだ。歴史をひもといてみると、最初はみんなそれぞれの村社会の中で静かに暮らしていたのに、やがてその中からボスが生まれ、そのボスが他の村と勢力争いを始める。こうしてどんどん誰が一番強いかという無益な争いに発展していき、領地を広げていく。
どうしてそうなるのかよく分からなかったけれど、犬を飼ってみると分かるな。こうしたことは全てオスの動物的習性ゆえなんだ。オスはどうしてそう作られているかというと、やっぱり家族や自分の「群れ」を守るという本能が与えられているからなんだろう。メンツや体裁にこだわり、他を征服したいという欲望を強く持つ人間は、それだけオス的と言えるのかも知れない。腕ずくで天下を取っていった者達はみんな男だもの。要するに動物的なんだ。もしかしたら政治は女性がやった方が平和なんじゃないか?

 タンタンが家に来るようになってから、僕は随分人間の事が分かるようになってきた。たとえばマウンティング。つまりメスを求めて腰を激しく振る行為であるが、これも犬がすると嫌らしい感じがしない。宗教的観点から物事を考えようとすればするほど、性的行為を罪悪視する傾向があるが、元来それは別に嫌らしくないんだ。勿論崇高なる行為というつもりもないが、つまりそれはご飯を食べたり、おしっこしたりするのと同じ「動物的行為」であるということだ。
 ただ人間というのはもうちょっとややこしくて、犬と同じように動物的にのみ生きようとすると、どうやら問題があるのだ。動物は、動物的生き方をしていてもなんら恥ずべき点はないのだが、人間が、他の誰かに、
「あの人の生き方は動物的。」
と言われたら、あまり名誉なことではない。それって一体何なんだろうな?

 動物は、動物的行為で完結しているが、人間は、自分のしている行為を外側から客観的に見る、動物にはない「もうひとつの目」を持っている。その目が行為している自分に対し、
「お前は、一体何やってるんだ。そんな生き方でいいのか?」
と自分に問う。だから人間には素晴らしい生き方とそうでない生き方が存在するし、いかに生きるべきかという悩みが存在する。こうしたことが人間と動物を分ける決定的な要素だ。

 人間は人生において、動物よりもはるかに多くの「失敗するリスク」を背負っているし、過ちやすく出来ている。人間は、他人を悪意を持って意図的に傷つけたり、傷つけられて深く悩んだり、自分可愛さに他人を見棄てたり、後悔したり、落ち込んだり、自殺したりということが存在する。実にややこしい。宗教では、良い生き方をすると天国に行き、悪に染まった生き方をした者は地獄に行くと教えているが、生き方に問題があって地獄に行く犬というのは、おそらく存在しない。タンタンが悪さをすると主人である僕や妻に怒られるけれど、基本的に罪悪感とか反省とかは彼の中にはないように見える。ただ「こうしたら痛い目に遭う」という経験による学習が存在するだけのようだ。

 それは逆に言うと、人間が、動物的な本能や欲望を持ちながらも、動物よりもひとつ上の価値観に沿って生きることを問われている存在であるという証でもあるのだ。つまり人間には、その個別性においてより大きな可能性が与えられていると言ってもいい。犬には、武器を使って大量殺戮をする知恵もないけれど、同時にマザー・テレサのように、他人のために自らの命を与えきるという考えも生まれようもない。人間の危うさは、そのまま神様の人間への期待度の強さということになるのかも知れない。一体神様は我々に何をどこまで期待しているのか?考えるとそれは果てしない道だなあ・・・・。

 そんなわけで、人間よりひとつだけ神様の期待度と生きることの悩みの少ないお気楽タンタンを見ていると、うらやましくなることも少なくない。まあ、タンタンもお気楽だけでもないな。お散歩だって、彼にとっては毎回テリトリー争いの静かなる戦いの時かも知れないのだから。
 犬はあまり視力は発達していないが、その代わり匂いに対する鋭さは凄い。先ほどのおしっこの話もそうだが、なんでも自分から一キロ四方内に発情した雌犬がいると、それを嗅ぎ分けるというんだから、恐れ入る。近所に仲の良いジミーちゃんというオスのプードルがいるが、ジミーちゃんとの挨拶も、お互いのお尻の匂いを嗅ぎ合うことだ。嗅いでどうするんだと思うんだけどな。
「おはよう。今日も元気なお尻の匂いだね。」
「あんたもね。」
なんてやってるのかね。とにかく匂いというものは、かなり彼等の世界観の中心らしい。
「お前か、あの電柱にしょんべんを引っかけたふとどきな侵入者は。」
なんて、新しい犬に対しても相手の匂いを嗅ぎながら互いを紹介し合うんだろう。不思議だな。人間はなんでも動物よりも勝っていると奢っているが、人間に感知出来ていないものって沢山あるんだ。僕は、出来ることなら一度犬になって犬の視点から全てを眺めてみたいと強く思うんだけど・・・・無理だな・・・やっぱり・・・。

 朝食の後、タンタンとの散歩はいつも30分くらいかける。帰ってくると体は軽く汗ばんでいる。犬と一緒でもないと、自分だけではよっぽど意志が強くないと毎日こんなに歩けないから、僕の健康の為にはタンタンの存在は欠かせない。それと僕は、なにかを可愛がっていないと自分の心が荒廃してきてしまう人間だから、娘達が大人になって離れていってしまった今、タンタンは僕の癒しグッズでもある。バイロイトに夏の間住んでいて、タンタンと二ヶ月半離れていた時などは、部屋にタンタンの写真を貼りまくって、朝に夕に挨拶していたよ。

演奏会近し
 「僕はただ僕の愛について語りたい」の演奏会が近づいてきている。これはドイツ・レクィエム・ゼミナールの副産物でもある。ブラームスに関して調べている内に、クララ・シューマンにたどり着き、クララ・シューマンについて調べているうちに、彼女の生き方に共感し、その人間的に魅力に惹かれ、クララについて話をしながらシューマン、ブラームスの曲を演奏していくコンサートを考えついたのである。演奏会は群馬県新町文化ホールが6月26日(日)。くにたち市民芸術小ホールが約一ヶ月遅れて7月17日(日)だ。

 話に合わせて、シューマンやクララ、ブラームスなどの写真を、聴衆に見せたいと思うようになった。最初はパネルを三つ作って上から吊ろうかとも思ったが、いろいろ考えたり人にも相談を持ちかけた結果、プロジェクターで映像を出そうということになった。
 でもそれを作ってくれる人がいないし、人に頼むお金もない。そこで、僕はかねてから使ってみたいと思っていた、マイクロソフトから出ているPower Pointというソフトを勉強して、自分で映像資料を作ってみようと思い立った。

 思い立ったが百年目。善は急げ。「できるPower Point」というガイドブックを早速買ってきた。僕は、パソコン関係のソフトの使い方などはほとんど独学である。というか、作曲に始まって、スコア・リーディングや、指揮法、さらにフランス語など、大事なことはほとんど独学から出発する人なので、パソコンもたったひとりで悩みながらここまできたというわけだ。そんな時、この「できるシリーズ」にはどれほどお世話になったことか。ソフトに付属の説明書が不親切過ぎるというのもあるんだけどね。皆さん、経験しているでしょう。
 パワー・ポイントは使ってみると結構楽しい。操作も簡単だ。映すのが写真だけではつまらないので、歌曲や重唱、アリアなどの歌詞を字幕として流すことにした。

 17歳の頃のういういしいクララの絵姿。シューマンと結婚した時のクララの写真。そうした写真に挟まれて、「女の愛と生涯」の第一曲目のテキストが映し出されていく。これまで歌曲などの演奏会で字幕が出たことなんてあまりなかったから、これは画期的かも知れないぞ、と嬉しくなってきた。
 そこで買ったばかりのエプソンのノートを新国立劇場に持って行って、みんなにさりげなく見せびらかしながら、バリトンの柴田さんをつかまえて制作中のものをスライド・ショーにして見せた。
「これ、とってもいいよ。内容にすんなり入っていって、分かりやすい。きっとお客さんの心をつかむよ。」
と言ってくれたので、ヤッター!と思った。

 新町文化ホールの照明、音響を担当している高田さんは、
「テーブルの上にパソコンを置いて、三澤さんが座り、くつろいだ感じで物語を話しながら、自分でボタンを押して画面を変えればいいじゃない。」
と言った。パソコンでやっているのを隠す代わりに堂々と出すのか。まあ、それもアイデアとしては悪くないなと思った。しかし、よく考えてみると、重唱では自分が指揮しなければならないし、ピアニストと一緒に連弾で弾いたりする曲もある。その時は字幕を自分では変えられない。
「うーん!なんで僕は指揮者なんだ?」
と変な自問自答したあげく、結局ボタンを押すのは陰から妻にお願いすることとした。
「えー、やってもいいけど、きっかけが分かんない。」
「きっかけかあ・・・。」
 今度はきっかけを書き込んだ譜面入り台本作りをしなければならなくなったよ。うー、やることまた増えちゃった。まだ物語を語る原稿も出来ていないのに。まあ、いつもどうせギリギリにならないと出来ないから、通常通りか。頭の中ではもうほとんど出来ているので本人は心配していないが、どうやらまわりはめちゃめちゃ心配しているようなのだ。
 そんなわけで、家内工業によるサービス満点の演奏会になること請け合いです。でも今のところまだ安っぽいプレゼン資料って感じ。もう一工夫して洗練されてから皆さんにはお見せしますね。




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