最近の日本人、なんか変だぞ!

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真  音楽家をやっている僕が、いつも子供っぽい夢ばっかり追っているような仕事をしていて、「実質的に」人の役に立っていない自分に後ろめたさを感じているのは、小さい時から親父のやっている仕事を見ていたからだ。

 僕の親父は大工だ。昔の義務教育は小学校までだったので、小学校を卒業した後は中学校に行かずに親方の所に住み込みで丁稚奉公に行き、年季が明けてからはずっと大工職人として働いていた。まるでマイスタージンガーの世界だ。
 その後、僕が中学の時に親父は独立して「三澤建設」という個人企業の建設屋を営み始めた。社長になっても職人根性は抜けなくて、12年前に心臓の手術するまでずっとノミやカンナを持って他の大工さんと一緒に、というか率先して仕事をしていた。

 親父が家を建てると、その家は残る。その家に住む人は雨風をしのぎ、その家を根拠に生活をする。人の世のしあわせもその家と共にあるのだ。そういう仕事って、僕みたいに役に立っているんだかいないんだかよく分からない仕事と違って、確実に人のためになっている素晴らしい仕事のように思えるのだ。

 家の注文を受けると、まず親父は施主と打ち合わせして、どんな家を建てるか相談し、設計し、材木を注文する。届いた材木を自宅の庭の向こうの作業場で削り始める。
 僕の家には、現在でも7時40分頃になると大工さん達がやって来る。お茶を一杯飲んで8時から作業開始。10時までみっちり働く。
 10時にお茶。15分ほど休んで、お昼まで働く。ここから1時まで休憩。大工さん達はお弁当を持ってきて、お袋はちょっとしたおかずや漬け物や果物、お茶などを出す。食事後、大抵大工さん達はお昼寝をする。
 1時から仕事再開。3時にお茶。5時に終了。もう判で押したように毎日規則正しい生活が続く。
 材料を作り終わって実際に家を建てる時になると、大工さん達は家から材木をトラックに積んで出て行くが、行った先でも当然同じように規則正しく働くのである。家が建ち始めると、建具屋さんや瓦屋さん、電気屋さんなどがどんどん来て、見る見る立派な家が出来上がっていく。それはもうほれぼれするほどだ。

 僕は、浪人時代に親父の仕事を手伝った事があるが、初めての日は、仕事が終わった後、体のあちこちが痛くて大変だった。一週間ほどすると慣れてきたが、もうこの生活だけで精一杯で、とてもとてもその後に音楽の勉強などやる気がおきない。現場に出て材木を担いだり運んだりした時には、指がバリバリになってしまって、ピアノを弾くどころではなかった。だから、大工と音楽家の両立は出来ないと思った。

 僕にとって労働とはこういうものだ。僕はこうした環境の中で育った。朝ご飯は7時半。お昼は何があっても12時。晩ご飯は6時だ。親父はお酒を飲まないので、夜はほとんど家に居てテレビを見ていた。
 これだけの生活か、つまんねえ人生だな、と思わないでもなかったけど、僕の性格の中に、多少の事では動揺しない落ち着きがあるとすれば、それは幼年時代のこうした超規則正しい生活が作ってくれたのだと確信している。それと僕の仕事に対する職人気質みたいなものも、大工という仕事をずっと見ていた幼児体験の成せる業だ。

 ところが、こうした地道ではあるが確実な仕事であるはずの建設業という業界で、今とんでもないことが起きている。というより、もしかしたら僕の知っている個人企業の建設屋と大企業のあり方というのは、そもそも同じ建設業と言いながら似て非なるものだったのかも知れない。

 家を建てるとは、医者と同じで人の命を預かる行為だと思う。もし脆弱な家を建ててしまったら、その家は倒れるのだ。倒れるとその中にいる人は“死ぬ”の である。そんなことは子供でも分かる。親父は自分の家を建てる時、手抜きをして倒れるかもしれない家を建てようなんてことは、これまで考えもしなかっただろうし、これからも考え得ないだろう。それは検査だとか査察だとか基準を満たすとか満たさないとかいう事以前の問題である。あるいは、それで材料費が節約 できるとか以前の問題である。
 そもそも家を建てる専門家が“倒れる家”を建ててどうする。巷では大地震が来るかもしれないとみんなが怯えている時に、地震が来たら倒れる家をどんどん建てている者は一体どんな神経しているのだ?

 言うまでもなく、今ニュースで話題になっている耐震設計偽装工作事件の事を僕は言っている。この事件の報道を見ていて、僕は自分が子供の時から見てきた親父の世界、すなわち職人の世界とは全く違う論理で世の中が動いているということを思い知らされた。
 親父が家を作る時は、施主も顔見知りが多い中、自分で設計して、自分の手で柱を削り、金槌で釘を打ち付けていく。こうして全ての行程を最初から最後まで責任持って行う親父みたいな者にとっては、自分の建てる家は自分の子供みたいな感覚なのだろう。

 話はそれるが、浜松バッハ研究会が本番で使っている河野周平氏所有のポジティブ・オルガンは、2000年暮れのドイツ演奏旅行で使用するオルガンを借りに、その年の夏、僕もバイロイトから河野氏の車に同乗してアルンシュタット郊外のオルガン工房に行ったのだが、河野氏がその工房で作っているオルガンを気に入って注文したものだ。
 それから“一年もかかって!”オルガン制作者は注文のオルガンを作った。次の年の夏、河野氏が出来上がった製品を取りに行った時、オルガン製作者はこう言ったのだ。
「このオルガン、時間かけて良く出来たので、別れるの淋しいなあ・・・。大事につかってね。」
 これはね、ものを作る人なら誰でも知ってる感覚なのだ。こういう思い入れというか熱意というか情熱が職人を支えているのである。

 ところが今回の事件で、姉歯一級建築士をはじめ、誰もこの感覚を全く持っていないのにびっくりした。みんな自分のやっている事にプライドも持っていない し、良心も感じていないんだ!そしてとがめられると恥も外聞もなくお互い人のせいにしている。これは驚くべきことではないだろうか?じゃあ、何のためにこの仕事をやってるんだ?お金のためか?でも、結局巡り巡って建設会社だって不渡り手形出したろう。最終的には自分に降りかかってきてお金だって儲からないのだろう。そんなことすら分からないほど日本人の思考は短絡的になってしまっているのだろうか?

 最近の日本人、おかしいよ!どうしてこうなっちゃったんだろうな。こう考えていてハッと気がついたのだ。いつしか日本全体のシステム自体が変わってしまっているのである。
 たとえば電気製品を買うのも、昔だったら近所の家電屋で買った。でも今はヨドバシ・カメラとかの大きい店にお客は集中する。何でもあるから選択肢が広いし、安い。
 洋服買うのも、昔だったら近所の洋品屋に行ったが、今はデパートで買う。町を歩くと、昔ながらのアーケード街や駅前通商店街といったものはどんどんさびれていく一方で、駅ビルや駅前デパートがどんどん勢力を伸ばしている。

 僕が今住んでいる家は建て売り住宅だ。建て売り住宅とは、お客にとっては、すでに建てられた家の実物を見て自由に選ぶことが出来る。しかしそれは裏を返せば、建てて売る者にとっては大変なリスクを負うことになる。建ててしまったのに売れるか売れないか分からないのだから。だからそのリスクを負いきれない少ない資本金の会社では出来ないことなのだ。

 世の中が、知らず知らずのうちにどんどん大企業指向になってきている。顧客の便利さを第一に考えると、先ほどの河野氏のオルガンのように、先に注文して一年も待って製品を手に入れるというやり方は時代遅れのように見える。今の日本なら、製品を見て選び、即手に入れて、後からカードで返済したりローンを組むのだろう。
 でもそれではオルガン工房の歓びというものはないなあ。売れるのか売れないのか分からないし、誰が弾くのかも分からないオルガンをただ作らされるのは、あまり楽しいことではない。でも“歓び”なんて呑気な事は言ってられないのかも知れない。それどころか、オルガン工房だって大企業になったら、きっと一人が最初の行程から最後の仕上げまで全部自分の手でなんて発想はされない。ある者は一年中パイプだけ作るし、ある者は鍵盤だけひたすら作る。ある者は、これがどこの部分になるのか分からないまま、与えられた労働時間の中で与えられたパーツだけ作る。おお、つまんない!

 違いは何かというと、エンジョイ度だ。生き甲斐と言ってもいいかも知れない。これは実は何より大切な事なんだ。組織が大きくなって、自分が全体を把握できなくなって一歯車と化したとき、一体何が起こるのだろう。それは歓びの欠如となって現れる。つまり仕事が楽しくなくなる。楽しくないから“お仕事”になり、無責任になる。自分のやっている仕事に誇りが持てず歓びが感じられないから、自分の作った製品が誰の手に渡るかなどということにも全く関心がなくなるし、自分が作り出した商品をお客が喜んでくれるかなどという事に関心がないどころか、自分の商品で人に迷惑がかろうが、一度売ってしまえば知ったことではないと思っている人達が街に溢れ始める。つまり社会全体が無責任集団と化すのである。

 自分だけは食べたくない人体に有害な物質満載の食べ物を作る者。そして自分だけは住みたくない家を建てる者達はこうして生まれてきた。
 世の中全体がこうなってしまっている以上、これを嘆いてみても始まらないのかも知れない。しかし、このままでいると、こうした現象はもっともっとエスカレートするだろう。

 自然淘汰という言葉がある。今の僕にとってとても恐ろしい言葉だ。つまりある種が増え過ぎた時、それを自然は丁度良い数に減らしていく・・・・。
 先ほどの人達は皆、ささやかな殺人を犯している。そうした人達が地上に溢れたとき、それは人類全体として見ると、“人類が自らの種の緩慢な自殺に向かって動いている”ということなのだ。その序奏はすでに始まっている。
 考えるとあまりに恐ろしいことなのでこの辺でこの話はやめるが、この状態を止める唯一のキーワードは、月並みだけれどやっぱり「愛」なのである。うーん、でもこの言葉も、もはや時代遅れか・・・・。



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