聖フランシスコに会いにいく

三澤洋史 

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聖フランシスコに会いにいく
 バイロイトに行かなくなって久しい。昨年の暮れにも、例年のごとく祝祭劇場から今年の音楽祭参加の依頼が届いたが、またもや断ってしまった。うー、残念!
 バイロイトのように全然環境の違うところにある期間行って、リフレッシュする機会は必要だ。そうしないと、なにか一年中のべつまくなし働いている内に、消耗して自分の中がからっぽになってしまいそうだ。

 そんなに長く行かなくても、たとえば一昨年の秋、娘の住むパリに一週間ほど行っただけでも全然違った。パリの街角を歩いているだけでも僕の心の中に新しい風が吹き込んでくるのを感じるし、モン・サンミッシェルなど特別な地の気を持つ場所に行くと、精神が急に研ぎ澄まされる。日本に帰ってきてから猛烈に労働意欲が出たのが自分でも不思議だ。

 でも昨年は日本から一歩も出なかった。前半は「ドイツ・レクィエム」に追われ、夏は鑑賞教室の「蝶々夫人」や「ジークフリートの冒険」を立て続けに指揮したかと思うと、すぐ次の日から休みなく「マイスタージンガー」の稽古が始まったりして、とにかく休みがなかった。今年もまた似たような状態になりそうだ。これではいけない!

 今の僕には充電が必要だ。このままいったら、代わり映えしない同じ自分の周りをグルグルまわるだけの「つまらない僕」になってしまう。
 で、決心した。夫婦で娘達の住むパリに行くことにした。ちょうど新国立劇場では、4月中旬から5月中旬まで約一ヶ月間、二期会と藤原歌劇団に劇場を貸すため、何の練習も入れられない。だからその一ヶ月間は全くフリーだ。
 僕は5月13日と14日にミュージカル「おにころ」群馬公演をすることに決めて、その前二週間を集中練習期間にあてたが、さらにその前、すなわち4月後半からの約二週間は空いている。その期間を旅行にあてた。
 するとその時期にどんどん仕事が舞い込んできた。
「ああ、残念ですが、その時期は日本にいないので・・・・。」
と言うと敵はすごすごと引き下がるが、同時にもったいないなという気持ちも働く。でも、ダメダメ!心を鬼にしないと、気がついたらまた一年中仕事で埋まってしまう。もう歳なんだから自分のペースは自分で築かなくちゃ。

 最初は勿論パリに行く。でも一日くらい落ち着いたら、家族四人でローマに飛ぶ予定だ。行く先はアシジ。ローマ空港から直行だ。アシジは、言うまでもなくフランツと呼ばれる僕の洗礼名である“アシジの聖フランシスコ”の出身地。ここでまず全てを忘れて三泊くらい滞在し、世の垢を落とすのさ。
 アシジには、ベルリン留学時代に妻と一度行ったことがある。もう20年以上も前。あの頃は列車ではるばるベルリンからミュンヘンを通り、アルプスを抜け、ミラノ、ジェノヴァ、ローマ、ナポリと回ってアシジに着いた。その後ヴェネチアに寄ってまたドイツまで帰っていったんだ。信じられない強行軍。若くなければ出来ない旅だった。ほとんど電車に乗りっぱなし。今はそんな旅の仕方はしない。焦点を絞ってのんびり行くのだ。

 アシジの町はのどかなウンブリア地方の山の中腹にあって、城壁に囲まれた中世の街並みをそのまま残している。まるで時間が止まっているかのようなそのたたずまいは、そこを訪れた旅人を確実にとりこにする。
 聖フランシスコは鳥と語り、魚に説教したと言われるが、アシジの山肌をかすめて飛ぶ鳥たちを見ていると、のどかでなんだか特別に神様に愛されているかのような錯覚にとらわれる。

 僕は、音楽のインスピレーションを、他の音楽家や楽譜から得る以上に、音楽以外の要素から得ることが多い。つまり読書や宗教や思索など・・・。その中でも最も多く得るのが「自然」からである。
 大自然は素晴らしい。あらゆるところに神の創造の息吹が感じられ、あらゆるところに読み解くべき神の暗号が隠されている。そうした自然の中にいくことは、僕が精神活動をしていくためには不可欠なのである。
 僕の音楽活動は、僕の精神活動のうちの一要素で、僕は音楽だけが全てとは全然思ってないんだ。けれど、僕が自分の精神を表現するのに最も適した媒体は音楽だから、最終的には音楽に関わるというわけだ。

 アシジに行くのだ!聖フランシスコに会いに行くのだ!とにかく、良い音楽を奏でるためにもアシジには行かねばならぬ。

 僕達が出発しようとしている週は、ちょうど復活祭の週だ。復活祭はクリスマスとは違って毎年変わる。春分の後に来る最初の満月の次の日曜日。春分はいつも一緒だが、次の満月の時期は常に変わる。だから3月中頃から4月中頃まで、その年によって約一ヶ月近く差がある。今年は一番遅くて4月16日が復活祭。僕達の出発は17日で、アシジに滞在するのは20日前後だが、週末にはローマに戻ってきてバチカンでミサを受ける予定。

 そういうプランを練り始めただけで、生活に張りが出てきたよ。僕はイタめしが大好きだから、そういう意味でも楽しみ楽しみ。レストランでテーブルに着くとパンが食べ放題だったり、ハウス・ワインを四分の一リットル頼んだり、パスタにピッツァに・・・・うー、考えただけで嬉しくなるなあ。って、ゆーか、考えただけでもう血糖値が上がってきたような気がする。

ちなみにタンタンはどうするかというと、妻のおかあさんが群馬から出てきてくれて、国立の僕の家に住んで、僕の郵便物や電話連絡を受けてくれながらタンタンの面倒を見てくれるのでご心配なく。またその折りには当地からフレッシュな紀行文が届くと思います。楽しみにしていてね。

科学と音楽の夕べ
 1月20日(金)は新国立劇場合唱団と一緒に演奏会をやる。くわしくはこのホーム・ページの演奏会案内を見てもらえば分かるが、最初に永山さんという方の講演があり、その後半に「華麗なるオペラの世界」と題し、釜洞祐子さんをソプラノ・ソロに迎えて、新国立劇場の今年度のレパートリーを中心に組んだプログラムを演奏する。
 釜洞さんは「こうもり」のアデーレのアリア、「セヴィリアの理髪師」から有名な「今の歌声は」、瀬戸内寂聴さんの台本に三木稔さんが作曲した新作「愛怨(あいえん)」からアリアを歌う。
 合唱団は「こうもり」の舞踏会開幕の合唱に始まって、今シーズンのレパートリー満載。昨日(14日土曜日)も練習したけれど、なかなかいい感じだよ。当日は、僕が指揮だけでなくお話もしながら曲目を案内していきます。入場は無料だけれど、要予約。 


比類なき高み「魔笛」
 今週末には、もうひとつの作品の幕も開く。再演だけれど、ミヒャエル・ハンペ氏演出の「魔笛」だ。「魔笛」は、もしかしたらモーツァルトの全ての作品の中でも僕の最も好きな曲かも知れない。この作品はオペラではなくジングシュピール(Singspiel~歌芝居)で、曲の作りもオペラとは随分違う。いわゆるアカデミックよりは庶民的で、上演もウィーンの大劇場ではなく、場末の芝居小屋で行われた。
 オペラでは、パパゲーノのアリアのような有節アリアはほとんどない。「おいらは鳥刺し」や「恋人か女房が」の有節アリアは親しみやすく、歌謡曲ヒットソングをめざして作られたと思われるが、一方でこんなにシンプルかつ気の利いた曲はなかなか作れるものではない。
 またドイツ語のジングシュピールは、音楽的にもドイツの遺産を受け継いでいて、序曲のアレグロをフーガで始めたり、鎧をつけた男の場面では、バッハ風コラール幻想曲で曲が作られている。
そんなシンプルさと対位法などの重厚さが不思議と混じり合って、軽くて重い音楽、あるいは庶民的かつ崇高な音楽が「魔笛」の魅力である。この二つの要素の融合は、モーツァルトの天才なくしては実現しなかっただろうな。

 若いときからこの作品は好きだったけれど、年を取るにつれて、僕は「魔笛」の音楽に隠された様々な意味が分かってきた。
 モーツァルトは晩年フリーメーソンに傾倒していって、「魔笛」には、そうした教義やイニシエーションが表されているのは有名だ。中には、この作品でフリーメーソンの内部の秘密をバラしたことが原因で、モーツァルトは毒殺されたのだという説まであって、それだけでも興味は尽きない。
 「魔笛」では3という数はとても大きな意味を持つ。基本調性はフラット三つ。すなわち変ホ長調。三人の童子達の音楽はシャープ三つのイ長調で、三拍子系の六拍子や三拍子という風に、至る所3ないしは3の倍数で彩られている。

 でも僕が気づいてきたのは、そういった理屈の上でのことではない。そうではなくて、「魔笛」の持つ響きなのだ。この作品の中にずっと流れ続けているトーンなのである。この曲の中には作曲家最晩年の“命に対する諦念”ともとれる澄み切った境地が描かれていると同時に、僕には、モーツァルトをまもなく捉える“死”の匂いが感じられるのである。 その“死の匂い”には、クラリネットあるいはバセット・ホルンの響きが分かち難く関わっているように思われる。それと晩年の作風を支える対位法。
最近は「魔笛」を聴くと、
「なんて恐ろしい音楽!」
と思ってしまう。

 モーツァルトの音楽は、それを演奏する者、聴く者の感性を映し出す。この単純な譜面を前にして何を感じるかは、感受する者の感性に委ねられている。何も感じない者はどう努力しても何も感じない。でも“分かる者”には、同じように“分かる者”が理解出来る。だから演奏者が“分かって”演奏した場合、それを感受出来るのは“分かる聴衆”のみだ。 だからといって、演奏者はなにか特別なことをしてはいけない。この辺がモーツァルトの音楽の難しさである。演奏者は、ただ分かっていればいいのである。変な話、演奏者が分かっていなくとも、モーツァルトの音楽は譜面通りに弾けばそのように響く。
 分かる秘密はモーツァルトの音楽の“響き”にある。じっと耳を澄ませて響きを味わうのだ。ちょうどソムリエが、全ての偏見を捨ててワインの味を自分の舌だけを頼りに味わうようにね。頼りになるのは耳だけ。アナリーゼなんかしたって駄目だよ。モーツァルトの天才性は、まさに“アナリーゼ出来ない領域”で発揮されているんだ。

 僕は、歳を取るにつれて、モーツァルトの音楽からいろいろなものを感じるようになってきた。
「え?もしかしてここまで考えて作っていたんだ!」
という驚きを常に新たに感じる。わずか35歳で世を去ったモーツァルトだが、もの凄い高み、あるいは深みにまで到達していたのだ。そんなところまで人の見えないものを見、人の聞こえないものを聴いていたモーツァルトだもの、性格があのように破綻していたって仕方がないかなと思えるな。人間社会にひとりだけ高度な知能を持った宇宙人が迷い込んだようなものなんだ。誰も彼のことを理解出来なかったに違いない。

 「魔笛」には、宇宙人モーツァルトの辿り着いた前人未踏の世界があります。みなさんも感性を研ぎ澄ませて、この比類なき作品に対峙して下さい。



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