ん?荒川で鳥のオリンピック?

三澤洋史 

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ん?荒川で鳥のオリンピック?
 どうしても鳥のオリンピックと聞こえてしまう。TORINOは、最後から二つめの母音にアクセントがくるイタリア語ではトリーノと読むべきなんだろうが、日本語ではミラノもミラーノとは書かないでミレドみたいに後が下がっていくイントネーションで話される。しかし不思議なのは、その言葉の次に別の言葉が来て合体すると、今度はミラノサンドのようにドミミという感じに後の二つのシラブルが上がるのだ。
 だからトリノ・オリンピックも鳥のオリンピックに聞こえてしまうのだ。ニュースが始まってアナウンサーが、
「とりの・・・」
と始めると、どうしても鳥インフルエンザかなと思ってしまう。

 ここのところ僕は忙しくて、オリンピックもまともに見られる状況ではなかった。まあ、丁度良いことに、なんていうと怒られるけれど、これまで日本勢は全然振るわなかったから、あまり残念でもなかった。
 でも荒川静香さんのフィギュア・スケートには感動したね。見ていて涙が出そうになったよ。でも不思議だね。なんだろうね、この気持ちって。
 だって考えてみれば、同じ日本人だというだけで、別に知り合いでもないし、関係ないといえば関係ないでしょう。それなのにこの時ばかりは、金メダルを取ったのが日本人であるということが妙に誇らしいんだ。ざまあ見ろってね。何がざまあ見ろなんだかちっとも分かんないけど・・・・。

 それよりも、オリンピックがもたらしてくれる感動には別の原因があるように思う。先週号で僕は音楽のはかなさを書いたけれど、まさにそれと一緒のことだ。

 どんなに練習を積んだって、どんなに普段うまく出来ていたって、あの場所であの時に、まさに一回こっきりのあの瞬間に結果を出さなければ勝てないんだ。 そのためにアスリート達は全てを犠牲にし、全てをこの時だけに賭ける。
 4回転ジャンプが成功するかしりもちを着くかなんて、最後には運だろう。しかしその瞬間の成功の可能性を限りなく100パーセントに近づけるために、どれだけの労力が払われることか!その時に備えて、揺るぎないテクニックと揺るぎない精神力が養われる。
 でもそれは一瞬で終わる。で、その一瞬が終わると、もう過去のものとなってしまう。荒川選手の映像は繰り返し放映されるけれど、もうあの瞬間は永遠に戻らない。
 まさに諸行無常、色即是空!しかしその過ぎゆく瞬間のなんと美しいことか!その各々のかけがえのない瞬間にかける想いのなんと熱いことか!

 人間は次々と生まれ出てくる瞬間瞬間に生きている。怠惰に過ごす瞬間。熱く燃える瞬間。正直でいる瞬間。人をだます瞬間。自らを高める瞬間。自暴自棄な瞬間。すべての瞬間に対して、人間は自由意志を持っている。でも瞬間が過ぎ去って消滅するからといって、全ての行為が無意味なわけではない。いや、瞬間瞬間に選び抜かれ産み出された全ての行為に対応して、次の瞬間は新たに創り出されていく。宇宙はその瞬間瞬間に新たに生まれていくのである。

 アスリート達は誰よりも瞬間と向かい合っている。そしてその瞬間と向かい合うために、どれほど自らの内面と向かい合い、自らの弱さを赤裸々に見つめてきたことか。その、これまでの人生の全てを背負っている瞬間が、他の選手の同じような瞬間とぶつかりあい、互いの限界点で火花を散らすから美しいのだ。それが見ている者の胸を激しく動かすのは、その火花がいのちのきらめきだからだ。

 世界は色即是空であるけれど、こうしたかけがえのない瞬間は空即是色となるのだ。これは、僕のミュージカル「ナディーヌ」のテーマでもある。宇宙に刻まれた「かけがえのない瞬間」は、たとえ全ての人がそれを忘れ去ろうとも、永遠に残るのである。

 たとえばゲームをしていると、突然ノルマ達成して次のステージに進むだろう。あるいは突然ゲーム・オーバーとなるだろう。僕は人生はこのようなものではないかと思っている。
 僕達は朝目覚めた時、昨日までと全く同じ自分がいて、全く同じ人達に囲まれていて、全く同じ人生が連続的に続いていると思っているが、これはもしかしたら錯覚かも知れない。
 実は我々が絶え間ない二者択一をしている内に、世界も絶え間なく変化していて、自分の精神性に応じた異なったステージが自分の前に現れているのかも知れない。
 お釈迦様が説いた縁起の法も、そうした世界観を別の言葉で顕したものではないかと僕は思っている。
 煩悩の中をぐるぐる回っている人は、ずっと低いステージの中をぐるぐる回っている。その渦から抜け出て、より高いステージへの扉を開くためには、かけがえのない瞬間を創り出していかなければならないと思う。
 人は自分の前に広がっている世界をみんなで共有していると信じているが、「自分が観る」世界というのは、同じに見ていながらそれぞれ違うのだ。

 荒川選手からだいぶ脱線してしまったが、僕は自分の感動の正体を解明しないではいられないのだ。音楽が空しいならば、オリンピックの競技の瞬間はもっと空しい。でもだからこそそれは強烈なのだ。それを見ている我々は、他人の輝くかけがえのない瞬間を共に味わうことで、自分が今ここに「生きている」ことを確認したいのではないだろうか。

 それにしても、今回のオリンピックの開会式ではパバロッティーがトゥーランドットの「誰も寝てはならぬ」を歌ったし、荒川選手もトゥーランドットの音楽で金メダルを取った。これは実は僕にとってなにより嬉しいことなのだ。これで日本全国にトゥーランドットの音楽が響き渡って、子供達もこの音楽を“知った”。う~ん!こいつぁ、春から縁起がいいぜ!え?なんのことか分からないって?いいの、いいのこっちのこと。もう少し経ったら分かるからね。

 エキシビションを見たけど、男子シングル金メダルのエフゲニー・プルシェンコは、圧倒的だった。女子はエレガントだけど、技はなんといっても男子だ。スピード、演技のキレが違う。
 荒川選手は、ここではあんまりジャンプは出さなかった。その代わり、出ました優雅なイナバウアー!

 ペアを見ていて、こんなに接近していては、どんな相手だって愛し合わないでは済まなくなるだろうなあ、とポツンと言ったら、横で妻が、
「馬鹿なこと言ってんじゃないの!」
と言った。でもその後で、
「もし本人達が夫婦とか恋人同士ではなくて、両方にご主人とか奥さんとかいたら、本人達はよくても周りの人達が気が気ではないわね。」
と言うので、
「なんだ、結局同じ事考えてるんじゃん。」
と言った。相手は反論している。確かに僕が心配しているのは本人達だし、彼女は周りを心配している。
 きっと毎日何時間も一緒に練習するだろう。そもそも気が合わなかったら出来ないよね。しかもいつも触っているよ。それでムラムラ来ない方がおかしいのではないか。って、ゆーか、ムラムラ来られなかったら、相手も淋しいよね・・・・なんて書いていくと、どんどん女性の読者を失ってしまいそうなので、このへんで止めておきましょう。

 あ、そうそう、あの穴の開いたCDのような金メダル、なんとかなんねーかなあ。重みがないったらありゃしない。

芥川賞
 先週あるプロジェクトの編曲が完成したと書いた。その時、ビールやくさやと一緒に買ってきたものがあった。それは文藝春秋だった。
 パソコンを使って譜面を書いていると目がとても疲れる。だけど無理をしてでも先に進まなければならない為、僕はなるべく無駄な読み物を避けていた。疲労をパソコンのディスプレイを見るためにとっておかねばならなかったのだ。しかし一方では、読書魔の僕はとても活字に飢えていた。そこで、編曲完成と共に活字を求めて本屋に行ったのだ。
「なにを買おうかな?」
と思って本屋をぶらぶらしていたら、「芥川賞発表」の文が目についた。そのまま文藝春秋を手に取ってレジーに持って行った。

 芥川賞を受賞したのは、絲山秋子(いとやま あきこ)さんの「沖で待つ」という小説。住宅設備機器メーカーに就職した“私”と、太っちゃんと呼ばれる同僚との“恋愛ではない”関係の物語。
 ですます体でひらがなの多めな文章は、最初の一行こそなんだか古い感じで嫌だなあと思ったけれど、文章は思ったよりずっとすっきりとしていて、話の運びにも全く無駄がない。読者を惹きつけたまま一気に読ませてしまう文章力、構成力を作者は持っている。
 凄いな、やっぱり賞を取るような人の文は違うな、と思う反面、小説を読み終わった僕は、いつもの通りの軽い失望感を味わった。「いつもの通りの」というのは、これは小説だけに限ったことではないのだけれど、若い頃から芸術に多大なものを期待しては失望してきたから、もう失望するのにも慣れっこになってしまい、それでもまた何かを期待しては失望する自分自身を半ば自嘲的に眺めている状態なのである。

 そうしたら選考委員の選評の中に我が意を得たりと思わせる文章があった。その文章を書いたのは、なんと石原慎太郎氏であった。
 石原氏は、普段よく不用心な言葉や美しくない言葉を乱用していたので、この人本当に物書きだったのかいな、と不信感を持っていただけに、その驚きは大きかった。

 石原氏の選評のタイトルは「本質的主題の喪失」。その書き出しはこうである。
  私が新人の作品に期待するいわれは、私にとって未知の新しい戦慄に見舞われることへの期待以外の何ものでもない。
それは正直いって選者として有名な文学賞を未知の可能性に与えるという社会的な責務なんぞよりも、むしろ物書きである私自身の人生の拡幅、深度化のよすがを、選考という機会のもたらす偶然にすがって得るという期待が先なのだが。しかし最近その期待がかなえられることが希有となってきた。
その後バルザック、ユーゴォ、トルストイ、ドストエフスキーに触れたりしながら、次の文章に辿り着く。
  小説は小説である限り何もことさら大きな主題を取り上げ描く必要などありはしないが、それにしても多くの候補作の印象は小器用だがいかにもマイナーという気がしてならない。これらの作品を読んで何か未曾有の新しいものの到来を予感させられるということは一向にないし、時代がいかに変わろうと人間にとって不変で根源的なものの存在を、新しい手法の内であらためて歴然と知らされるという感動もない。
そして最後はこう結んであった。
  私にとって今回も、どの候補作も期待した未知の戦慄からはほど遠いものでしかなかった。
 まあ、石原氏ったら、あの歳で随分青い意見を言うね。小説にまだ夢を追っているんだね。ここまで言うだけのことを自分の小説でしているのかいなというと、「う~ん・・・。」という感じがしないでもないし、ある意味、選考委員としての責任問題から言ったら、そんな放棄したような態度でいいんかいなと思わせる面もなきにしもあらずだが、それでも僕は、
「ああ、選考委員の中にもこういう意見を投げかけてくれる人がいるんだ。」
と思って嬉しくなった。それを言ってくれたのが石原都知事でなかったらもっとよかったけれど・・・・。

 やっぱりさあ、現代って心ある人がみんなどこかで少しずつ失望していないかい?僕なんかしょっちゅうあるよ。
 たとえば、その曲がとても好きで好きで、今度の指揮者は一体この曲をどう解釈するんだろうと胸をワクワクさせて演奏会に出掛けてみたら、指揮者は譜面を音にするだけでなんのこだわりも思い入れも曲に投影しようとしなかった場合とか・・・・。
「別になんの曲だって関係ねえよ。決まった時間に決まった場所に楽器持って行って、目の前にある譜面を弾いて帰ってくるだけよ。」
というオーケストラの楽員に会った時とか・・・・。

 なんだろうな、別に期待もしていなかったけどさ、せっかく小説書くんだろう。神とか理想とか語れと言うのでもないけど、読み終わって、
「で、なんなの?」
って思うのって悲し過ぎるよね。

 まあ、コンクールやオーディションもそうだけれど、順位がつけられるのは、厳密に言ったらテクニックのみなんだ。だからテクニックの高い人が賞を取る。 当然と言えば当然だ。荒川選手だってテクニックが高かったから金メダルを取れたんだから。
 でも問題はその先だな。その先は・・・・人には教われないものなんだ。ひとつあるとすれば、問い続けることを学ぶこと。そもそも小説とはなんなのか?人は小説に何を求めるのか?

 なんてね。別の分野だから言いたい放題言えるね。でも僕が本気で思っているのは、文学の世界にはもっともっと頑張って欲しいということだ。小説はもう終わったなんて言っている人もいるけれど、何も終わる芸術というものはないんだよ。音楽だってそうだ。現代音楽が行くところまで行って、
「もう音楽は終わった。」
なんて言っているけれど、それはただの傲慢な意見だ。自分たちが発展の頂点にいて、あとには終焉があるだけなんて幻想だよ。第一発展していたかどうかだって分からないぜ。
 人間の内面は決して変わりはしない。真理も変わりはしない。変わるのは服装だけだ。外側のファッションだけだ。だから文学も音楽も本質は昔のまんま。人は芸術にテクニックを超える“何か”を求め続けるし、そうした人々の期待から“遊離した”芸術はどんなに自己満足したって袋小路にはまりこむだけだ。

 僕達はもっともっと芸術に期待していいと思うし、失望したならその失望を声にして出すべきだと思う。コンクールの「一位なし」のように、「芥川賞該当者なし」でいいではないか。そのくらいのプライドが我々社会に欲しいな。

あれ、音楽の友に・・・
 「運命の力」の稽古場に音楽の友が置いてあった。今月号に新国立劇場の記事が出ているというので、みんなで回し読みした。
 プロンプターの紹介記事では、城谷正博(じょうや まさひろ)君がプロンプター・ボックスから顔を出している写真が載っている。稽古場の写真では、僕はいないのだが、音楽ヘッド・コーチの岡本和之(おかもと かずゆき)君やピアニストの小埜寺美樹(おのでら みき)ちゃんなどが練習をしている風景が載っている。

 一通り読み終わって放置してあった雑誌を、副指揮者の矢澤定明(やざわ さだあき)君が何気なく見ていたが、やがて、
「あ、三澤さん、知ってますか?モーツァルト200の記事が載ってますよ。」
と言う。
「なに?」
見ると、12月上旬にやったモーツァルト200合唱団のモーツァルト版メサイアの批評が今頃載っている。しかも結構誉めてある。
 
あらま、どこで誰に見られているか分からないね。



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