子どもオペラ記者発表と「おにころ」公演

三澤洋史 

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TOKYOの美
 7日の日曜日に東京に帰ってきた僕は、8日月曜日と9日火曜日、渋谷のヤマハ・エレクトーン・シティで「おにころ」オーケストラ練習を行った。これまで東京は、ヨーロッパの大都市のように景観に配慮しておらず美的ではないと思っていたが、イタリア、パリと訪問した後あらためて見ると、街はきわめて清潔で、現代建築には味わいや風情こそないが、その代わり機能美といったものがあるのだなと再発見した。
 パソコンを自作する時、マザー・ボードというものに様々なパーツを取り付けていくが、東京の景観はそのマザー・ボードの機能美に似ている。機能を最優先して作り上げた結果生まれたある種無機質な美しさと言ったらいいのであろうか。

 

スペース・トゥーランドット記者会見
 10日水曜日。11時半より新国立劇場において、今年の夏の新作子どもオペラの制作記者発表があった。やっとこの事がこのホームページでも言える時期が来た。昨年はじめより準備を始め、年末から忙しい仕事の合間を縫って具体的な音楽アレンジにかかっていたのだ。タイトルは「スペース・トゥーランドット」。
 ノヴォラツスキー芸術監督を中心に、演出家田尾下哲君と僕との三人でストーリーを組み立て、それに沿って音楽を再構築し、ブリッジの部分は作曲もして1時間の作品に作り上げた。そうしてようやくヴォーカル・スコアが出来上がったところに、トリノ・オリンピックからトゥーランドットの音楽を使った荒川選手金メダルのニュースが飛び込んできた。
「なんてタイムリー!」
と思ったが、同時に夏までもってくれるかな、という心配もした。

 スペースという言葉の通り、舞台は宇宙。トゥーランドットは氷の女王。カラフはキャプテン・レオ。リューはラベンダー姫という名前に変えられている。ピン、ポン、パンの三人はペペ、ロン、チーノだ。
 カラフを想いながら報われない死を遂げるリューという複雑な物語展開に代わって、リューに対応するラベンダー姫の自己犠牲に触れて氷の女王の冷たい心に変化が生まれ、氷の惑星(ジェラート星)の氷が溶け始めるといったように、自己犠牲から愛に目覚めるプロセスを織り込んだ。
 三つ目の謎々が解かれると、それによって宇宙に奇跡が起き、一度死んだラベンダー姫が再び生き還る。ジェラート星には春風が吹き始め、さらに暖かくなり、パパイヤ、マンゴーの咲き乱れる熱帯となる。
「これからこの星はトロピカル星となるのよ。」
という女王の言葉で、トロピカル・フェスティバルとなって幕。使っている音楽は「だれも寝てはならぬNessun Dorma」だよ。んな馬鹿な!あははははは!!

タムタム
 この作品には、原作にはないキャラクターが登場する。半分人間、半分ロボット、すなわちサイボーグだ。名前はタムタムといってラベンダー姫の住むフローラ星の王家に仕える知恵袋。女性歌手が演ずるが、彼は体にスーパー・コンピューターが埋め込まれてあり、宇宙のあらゆるところから無線LANで情報を取り込むことが出来る。
 IQ500もあるタムタム。でも実はかなりお間抜け・・・・あれえ?どっかで聞いたことあるぞ・・・・。「ナディーヌ」に出てくるドクター・タンタンとどこが違うのかなあ。う~ん、ほとんど一緒かなあ・・・・。でもタムタムという名前は僕がつけたのではないよ。芸術監督が、
「名前はもう決めてあるんだ。タムタムにしようよ。」
と言った時、
「ウッソー!」
と思ったんだ。単なる偶然。でもね、こうしたことが偶然で起こる時というのは、そのプロジェクトは大抵うまくいくんだ。「ナディーヌ」の中の歌詞にも、「おにころ」の妖精メタモルフォーゼのセリフにも、僕は、
「この世に偶然なんてないわ。」
と言わせている。本当に、この世に偶然なんてないんだ。

クリエイティブな歓び
 僕の場合、1年ごとに自作及び新作をやる夏と、マトモな指揮者として活動する夏とが交互に来る。おととしの夏は、「ジークフリートの冒険」と「ナディーヌ」が共に初演で、死ぬほど忙しかった。昨年は5月にドイツ・レクィエムを指揮して、夏には「蝶々夫人」を振った。で、今年は「スペース・トゥーランドット」初演と、くにたち市民芸術小ホールでの「おにころ」公演。
 普通の指揮者の場合、プロのオーケストラを指揮したり、大きな公演で指揮することを何より上において活動するだろう。ところが僕はそうではないんだな。勿論大きな公演は大切だ。でも一番大切にしている事は、公演の規模よりも、どれだけクリエイティブであるかということなんだ。
 たとえば「ナディーヌ」を作曲したり、「スペース・トゥーランドット」を編曲したりしている時の僕の内面にどれほどの充実感や高揚感があるか知っているかい?この喜びはちょっと他のものでは得られないなあ。
 僕くらいのこんな才能でもこうなのだから、たとえば傑作が頭に浮かんだ時のモーツァルトなんて、それだけでもう頭がおかしくなってしまうほどだろう。 モーツァルトが普通の市民的生活能力に欠けていたというけれど無理もない。僕はなるべく普通に生活しているけど、ハチャメチャになりたい衝動は理解できるんだ。

「おにころ」のストレートなメッセージ
 「おにころ」は、僕が初めて書いたミュージカルだ。初演は1991年。台本作成及び作曲は1989年から1990年春にかけて行った。今から15年以上も前。僕の35歳頃の作品。
 若い頃の作品だから言いたいことが言い切れていないかというと、そんなことはなくて、自分でも気恥ずかしいくらいストレートにメッセージを表現している。あまりはっきりに表現しているので、かえって衝撃的だ。

 あの頃の自分は、練習場などでもどこでも不用心に自分の思っていることを語っていた。現在よりもずっとスピリチュアルな話題に抵抗があった時代だ。そのため、合唱の練習を装って伝道活動をしていると非難されたり、練習だけしたいのに話が長すぎると苦情を言われたりしていた。そんな時代の作品だ。若気の至りと言えばそうだろうが、このストレートさは爽快だなあ。

ミュージカルとテクノロジー
 自分で言うのもなんだけど、台本の場面割りはとてもうまく出来ている。これはその頃かなり頻繁にミュージカルの仕事をやっていたお陰だ。最初にミュージカルの仕事依頼が来た時、今だから言うが、お金が欲しかったから受けた。オペラに比べて音楽的にはたいしたことないだろうと高をくくって仕事を始めたが、これはとんでもない勘違いだった。
 確かにワーグナーやヴェルディの音楽の高みはないかも知れない。しかしミュージカルには、オペラには決してみられない新しい感覚があった。
 なにより舞台処理の技術の高さと、それを縦横に使っての劇場表現。またドラマを生かすために音楽も台本も一体となって作られていく過程の面白さにすっかりのめり込んでしまった。

 その後、「おにころ」の話が持ち上がった時、オペラではなく、ミュージカルという形式を使い、現代的な感覚で台本作りから作曲までやってみようと思ったわけである。こうして僕のミュージカル第一弾、「おにころ」が生まれたのだ。

 オペラとは古い芸術形式である。作品自体がどんなにレベルが高くても、オペラが作られた時代というのは、まだ古いテクノロジーに支えられた時代であり、オペラの指向する劇場表現も、現代の劇場感覚からするとかなり大時代的なものである。

 たとえば、照明の技術ひとつとってもそうだ。照明技術の発展は戦後から始まったと言っていい。モーツァルトのオペラは、劇場にしつらえたシャンデリアすなわちロウソクの明かりの中で全く転換も変化もなく上演されたし、ワーグナーやヴェルディの作品の初演当時の照明だって、小学校の学芸会程度のものでしかなかった。
 ワーグナーは、場面転換させる時には長い転換音楽を書いた。当時の舞台技術では転換にとても時間がかかったのだ。「ジークフリートのラインへの旅」や葬送行進曲といった名曲はこうして生まれた。
 ヴェルディに至っては、たとえば椿姫の第二幕第一場から第二場への転換は、音楽がなにもないので、そのまま無音で何分か観客を待たせることになる。

 現代では、新国立劇場の移動式4面舞台に代表されるように、舞台技術の面では当時とは比べものにならないものがある。だからこちら側で照明を絞り込んでいる間に、反対側で素早く転換をして、全く観客に気づかせずに場面をつなげるなどということは朝飯前だ。それなのにオペラでは作品だけがそれに対応していないのだ。作曲家は生きていないので、今更書き換えるわけにもいかない。

 ミュージカルの仕事をした僕は、その事にまず気づいたわけである。新しいテクノロジーには、それに対応した「作品」を作らなければならないのである。

グローバル性と地域性
 5月13日(土)、14日(日)とも満員の聴衆の中、「おにころ」第五回目の公演が行われた。群馬県多野郡新町が群馬県高崎市新町になって初めての公演だ。
 群馬県出身の僕が地域で活動するといったら、普通高崎や前橋という都市を考えるところを、僕はあえて自分の生まれた小さな町である新町にこだわり、新町歌劇団を作り活動していた。しかしその新町は、高崎という大都市に吸収される形で今年の1月23日に合併された。

 僕は危機感を持っている。こうした吸収型の合併によって何が生まれるか。それはたいていの場合、吸収する方の都市の利益を優先して全てが進み、吸収される方の地域では、その地域性や特色が奪われ、都市への同化を強要される結果になることが多いのである。
 ひとつの例を挙げよう。僕の親父は建築屋だけれど、新町の役場から町営住宅と県営住宅の工事を頼まれていた。それが合併の一月を境に県営の仕事から全くはずされた。来るのは町営住宅の補修工事のみ。数百万の収入は一気になくなった。親父が依頼していた大工さんや左官屋、電器屋、瓦屋も当たり前のように収入を失った。
 それまで県営といっても新町というエリア内の工事は新町の管理下に置かれていたものが、高崎の管理下に変わったからである。今後はより大きな建設会社がそれを請け負うのであろう。僕は別にそれを責めているのではない。当然の結果である。それが合併というものの現実なのである。このようにして地域はひとつひとつ元気を抜かれていくのである。

 「おにころ」も、僕が新町という地域性にこだわらなかったなら、たとえばこんな風に話が発展することも可能であった。

僕は合併を機に、新町歌劇団を解散し、高崎歌劇団を広く公募する。そしてより沢山の団員を獲得し、より大きな予算を獲得し、高崎の大ホールでたとえば群馬交響楽団を使って大規模な「おにころ」公演を行う。

普通の人は、大きいことは良いことだと思うものだから、よくこんな考え方をするものだ。でも僕は全然違うんだな。

 「おにころ」を守るということは、僕が新町という地域性を守るということである。
「新町にはこんな良いものがあるんだ。」
といわれる時の新町は、決して「高崎市のはずれの一地域」としての新町ではない。僕は新町の人達に新町の町民としての誇りを失って欲しくない気持ちでいっぱいなのだ。新町のみなさん、頑張れ!新町は永遠に不滅です。

 同時に、今度「おにころ」が初めて新町から外に出る。8月20日にくにたち市民芸術小ホールで公演をするのだ。新町が僕の生まれ育った故郷であれば、国立は僕が長年住んでいる町。僕の持つ地域性のもうひとつのシンボルだ。僕は国立と群馬をつなげたい。つまり国立の公演に来てくれる人に、群馬の良さ、新町の良さを分かってもらいたいのだ。別に新町ってなんのとりえもない町なんだけどね。

 愛国心、祖国愛、地域愛とはなにか?それは、たまたまそこで生まれたという理由だけで、その土地をなにか特別な土地であるかのように“勘違いする”感情のこと。しかし、ここからその人間のアイデンティティーが始まるし、逆にグローバル化も始まるのである。つまり、自分が自分の生まれ育った土地を愛する気持ちを持たないと、他人のその気持ちを理解することが出来ない。理解出来ないから他の国の土地を平気で踏みにじったり、自国の言語を他の国に強要したりといった反グローバル的な行動がとれてしまうのだ。

 これからの時代はインターナショナルな時代だ。しかしその行動の原点は、反対に地域性から始まらなければならないと僕は思っている。
「おにころ」公演は、そうした僕の想いの一里塚となっているのだ。



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