メイキング・スペース・トゥーランドット

三澤洋史 

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発端は芸術監督
 話は昨年のはじめにさかのぼる。新国立劇場オペラ部門の芸術監督トーマス・ノヴォラツスキー氏(以下ノヴォちゃんと呼ぶ)が僕の所にやってきて、
「新しい子供オペラを考えているんだ。題材はトゥーランドット。」
と言う。
 僕は5月1日に東京交響楽団特別演奏会「三澤洋史のドイツ・レクィエム」を控え、四回に渡る講演会を準備中の忙しい時期。
「出来れば今年の夏に出来ないかな。」
「いやあ、それは無理だよ。僕は、5月にはドイツ・レクィエムを振るし、夏には蝶々夫人も振る。今から新しい事を起こすのには時間が足りなすぎる。」
「そうかあ・・・。」
「今年の夏は『ジークフリートの冒険』を再演すればいいじゃない。せっかく作ったんだし。」
「いや、それはそうなんだけどね。一方で自分の在任中にもう一作新しい子供オペラを作っておきたいんだ。」
「あわてることはないよ。来年やろう。じっくり構想を練ってさ、ていねいに作ろうよ。」
「そうだな。」

 それでその話はひとまず終わり。でも、夏になって「ジークフリートの冒険」の練習が始まる頃になると、ノヴォちゃんは再び、
「おい、キッズ・トゥーランドットの構想を練ろうよ。」
ととしつこく言ってきた。「ジークフリートの冒険」の演出家マティアス・フォン・シュテークマンにも熱心に話している。でもマティアスはあまり乗り気ではない。

 ノヴォちゃんが子供オペラの題材として「トゥーランドット」を選んだのは、今から考えると先見の明があったとは言える。プッチーニは、「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」など写実的な題材で男女の愛憎を描いている作曲家だが、最後の「トゥーランドット」だけはファンタジックな要素に溢れている。
 しかしじっくり曲を聴いてもらうと分かるが、音楽にはゆっくりな部分が多く、プッチーニ独特のテンポの揺れや情感に果たして子供がついてこれるかと考ると、すぐさまOKという感じにはならない。

 マティアスは難しい顔をしながらこう言った。
「『ジークフリートの冒険』では、みんなあんな長い楽劇を一時間にまとめるの大変だったろうって言うけれど、僕やヒロのように楽劇を隅々まで知ってさえいれば、材料は豊富なのだからむしろたやすかったよな。でも『トゥーランドット』一曲の中から素材を持ってきて子供オペラを作れと言われたら・・・・うーん・・・・。」
僕は言った。
「確かにほとんど不可能だね。どうしてもやれって言うのなら、ひとつだけ方法はあるよ。」「なんだい?」
「もうオリジナルにこだわらないで、大胆にアレンジしてしまうだね。テンポアップして打楽器とか入れて。」
「うーん・・・・。それではもはやオペラではなくてミュージカルになってしまうじゃないか。」
「まあね。でも、モチーフはまぎれもなくプッチーニだ。」
「僕は反対だな。」
「・・・・。」

 結局マティアスはこのプロジェクトから降りた。でも僕はマティアスの名誉のために誓って言うけど、彼は自信がなくて降りたのではないからね。僕には彼の気持ちは分かりすぎるほど分かるんだ。
 彼は音楽をとても愛していて、壊したくなかったのだ。「ジークフリートの冒険」でもとてもオリジナル音楽を大切にしていて、終曲「愛こそすべて」でドラムスを使うことに最後まで抵抗していたくらいだから。
 実はその頃すでに僕の頭の中では、「トゥーランドット」の題材で成功するためにはこんなタッチで作品を作るしかないという音が鳴っていた。それはとてもマティアスに受け入れられるようなものではなかった。つまりおととい公演初日の幕が開いた、あんな音さ。

 まあ僕だって、「スペース・トゥーランドット」がプッチーニに対する冒涜ではないかと言われれば、あえて否定はしない。でもああするしかなかったんだ。 言い訳っぽいけど、どうせ言うなら「冒涜」なんていう感じの悪い言葉ではなく、プッチーニへのオマージュとか、新しい形でのアプローチとか、「読み解き」とか、挑戦とか言って欲しいな。
 そんなわけで僕はマティアスが降板するのをあえて止めなかった。とても悲しかったけど、お互いの主張ははっきりしているので、これでよかったんだ。
 今度のシーズンで彼は「さまよえるオランダ人」の演出をするので、きちんとしたプロダクションでまた一緒に仕事が出来る。僕とマティアスとの友情は不滅です。

田尾下君に委ねる
 そこでノヴォちゃんは、劇場付きの演出助手を務めている田尾下哲(たおした てつ)君に演出を頼んだ。田尾下君は、ノヴォちゃんの芸術監督シーズンの最初の演目「フィガロの結婚」に聴講生としてやってきて、その才能を見いだされたまだ三十代前半の超新鮮な人材。東大建築科出身で頭が良く、役者の演技は一度見ると全て覚えてしまうのだ。
 しかし演出助手としては優秀でも、こんな大きな劇場で一人前の演出家として仕事を任せるのは初めてだ。ノヴォちゃんにしたら大きな賭をしたことになる。そして、彼は見事にやり遂げたのだ。ここに一人の若いオペラ演出家が生まれた。僕たちはそれを祝うべきだ。

ストーリーの構築
 「キッズ・トゥーランドット」の初期構想から「スペース・トゥーランドット」公演初日に至るまでの長い道のりの中で最も時間がかかったのはストーリーの構築だ。ストーリーはノヴォちゃんと僕と田尾下君の三人で念入りにディスカッションを重ねた。
 物語の基本線はノヴォちゃんが持ってきた。
「舞台は宇宙にしよう。原作では、カラフがトゥーランドットを得ようとナゾナゾに挑戦し、リューが遂げられない想いを抱いて死ぬが、これは複雑なので、リューとカラフが結ばれてハッピー・エンドになるようにしたい。」

 カラフは宇宙警備隊キャプテン・レオ、リューはラベンダー姫と名付けられた。
「ピン・ポン・パンに相当する三人組の名前を考えているんだけど、何か良い名前がないかなあ。三人ひと組で一つの名前になるようなやつ。」
と家で僕が何気なく悩んでいたら、
「ペペ、ロン、チーノなんてどう?」
と妻が言った。
「決めた!それにしよう。ついでにみんなイタリアンで命名するか。氷の惑星はジェラートだ。うまそうな名前だな。花の惑星はフローラ。」
こんな風に名前が決まっていった。

ノヴォちゃんは、
「『ジークフリートの冒険』の森の小鳥のような役が欲しいな。原作には全くないけれど。なんか別の動物がないかな。」
と言う。僕はとっさにIQ500のドクター・タンタンを思い浮かべたが黙っていた。すると彼は突然ひらめいて、
「宇宙の物語だからいっそのことロボットにしよう。」
と言った。
「ロボットだと硬くない?」
と僕。
田尾下君が横から、
「だったら人間と半々のサイボーグにしよう。」
「いや、人間じゃなくて猿がいい。猿とロボットの半々。名前は考えてあるんだ。」
とノヴォちゃん。
「何?」
「タムタムだ!」
ええ?タムタム・・・タンタン?・・・僕は気がついてみたらこう叫んでいた。
「ならばIQは500にしよう!」

 こんな風にしていろいろが出来上がっていった。今だから話せるNGとなったサイドストーリーをふたつ紹介しよう。

NGその一

タムタムは最初の構想ではフローラ星に住んでいたのではない。レオがペペ、ロン、チーノと戦っている最中に空から故障した宇宙船で突っ込んで来たのだ。そのすきにギャング達はラベンダー姫をさらっていってしまった。
タムタムは行方不明になってしまったお母さんを捜して宇宙中を旅している。 自分のせいでラベンダー姫がさらわれた事に罪の意識を感じたタムタムは、レオと一緒にラベンダー姫を取り戻しにジェラート星に行く。
最後にジェラート星の氷が溶けた時、氷の女王によって凍らされていた何人もの美人と共にタムタムのお母さんも溶けて甦り、タムタムと感動の再会を果たす。

 この構想自体は悪くなかったのだが、こんなことを描いていると、とても一時間に収まらないのでやむなく割愛。

NGその二

フローラ星の王とジェラート星の氷の女王は、実は元夫婦で最後に再び一緒になる。あるいはフィナーレでお互い恋をし、結ばれる。

 なんでこんなことを考えたかというと、最後にトゥーランドットだけ一人でおくのは可哀想ではないかという議論があった。でも二人が元夫婦でラベンダー姫が二人の間の娘だと、トゥーランドットがラベンダー姫を憎んだり、彼女を殺そうとするモチベーションがなくなってしまうし、みんな身内の話になってしまうというので却下。
 お互い恋が芽生えるというのも、別にわざわざそんな風にしなくても、タムタムだってペペ、ロン、チーノだって一人だから、トゥーランドットだってひとりのままでいいやということで決着。
 そういえば、トゥーランドットをチーノと結ばせようという話も出たな。ありえね~!

稽古の合間に
 ストーリーの構築には一番苦労したんだが、こう話すととても苦労しているようには見えないね。実際、他のオペラの舞台稽古の時なんかにノヴォちゃんがいきなり僕の方に来て、
「あのさあ、考えたんだけど、ラベンダー姫はレオを助けようとして自分が身代わりになって死ぬことにしよう。」
なんて言うんだ。僕が赤いペンライトを持って振っている横に来て、
「それで、これまで利己的にしか生きてこなかった氷の女王が新しい感情に目覚めるんだ!」
って叫んだりするのだ。
「分かったから後にしてね。今ちょっと忙しいからね。」
そこで一段落すると僕も、
「三つ目のナゾナゾの答えは『愛』なんていうんじゃ平凡だからね。」
と答える。
「じゃあ、なんだろな。」
「そうだ、女王は生まれて初めて泣くだろう。あ、あ、あ、ちょっと待って、合唱のアインザッツをのがすところだったよ。おお危ねえ!」

 こんな風にして台本が出来たのが12月始め頃。実に四ヶ月もかかった。同時に僕はトゥーランドットの音楽を綿密に解剖し、フレーズ毎に分類しておいた。 オリジナルのテキストにとらわれることなく、音楽を先入観なしで聴いて、この音楽はこのキャラクターを持っているので、こんな場面に使える、という風にだ。
 音楽とは不思議だ、音楽は様々なものをテキストと相まって表現するが、時には全く正反対の歌詞を当てはめてもマッチしたりするのだ。たとえばリューの最初のせつないアリアは、「スペース・トゥーランドット」では、最後の方で奇蹟が起きてラベンダー姫が甦る晴れやかな場面に使われた。こういうことを通して、僕は「トゥーランドット」の音楽の中に潜む様々な表情を再発見した。

孤独の中で名曲と対峙
 実際の編曲は12月末、志木第九の会の「エリア」演奏会の直後から始めた。物語の流れに沿って、最もマッチする音楽を選抜し、置いていく。
 歌は、原曲のヴォーカル・パートに全くこだわらずに、新しい歌詞と譜割で書いていく。なるべく分かり易い歌詞を選び、なるべく自然な日本語に聞こえるように、何度も何度も声に出して歌いながらメロディーを作っていった。
 この作業を通して僕が学んだことは、名曲というのはどんな風に料理してもやはり名曲なのだということだ。

 たとえば有名なアリア「誰も寝てはならぬ」を僕は三つの箇所で使う。初めは一番オリジナルに近く。しかしアリアではなく愛の二重唱として。次に、氷の女王がラベンダー姫の犠牲的行為を目の当たりにして愛に目覚める瞬間では、アンサンブルによるいわゆる合唱曲バージョンとして。そして最後にはお祭りサンバ・バージョンとして。
 でもこの曲の持つメロディーの素晴らしさや、メロディーとハーモニーの組み合わせの素晴らしさは、どんな形をとっても失われないし、キャラクターを変えることによって、ますます素敵な色彩感が出てくるのだ。これには本当に驚いてしまった。

 そうして約一ヶ月以上かかりヴォーカル譜が出来た。そのことは、このホームページでも書いたが、その完成直後にトリノ・オリンピックで荒川静香選手が「トゥーランドット」の音楽を使って金メダルを取ったのだ。あの時は嬉しかったなあ。ああ、やっと運が向いてきたかなって感じだった。

 というのは、あの頃新国立劇場では、子供オペラに対する予算が充分に取れず、「スペース・トゥーランドット」が上演出来るかどうかさだかではなかったのだ。劇場の中には、もう冒険しないで、もう一年「ジークフリートの冒険」をやったらという意見を持つ人達も少なくなかった。まあ、無理もない。僕一人がこれは良い作品になると信じていたって、新作はまだ影も形もないのだもの。
 でも僕の立場からするとね、日々の仕事の合間を縫って、寝る間も惜しんで編曲をしているけれど、この作品が果たして日の目を見るのかどうか分からないと思うと正直かなり辛かった。だって全てが無駄書きになるかも知れないんだぜ。確率は半々くらいだった。まあ、そうは言っても楽天的な僕のこと、必ず舞台に乗るって信じてたけどね。

 僕たちはクリエイターだ。無から有を作り出す者達だ。ある意味、逆境が与えられるほど燃えるものだ。新しいものを作っていかなければ劇場は枯れてしまう。そんな使命感も感じながら僕は毎日孤独に譜面を作成していった。

いよいよ初日の幕が・・・!
 会場に入ると、まるでプラネタリウムに来たよう。ミラーボールに映し出された色とりどりの光りの粒が星空をあらわしている。前方のスクリーンには、ゆっくりと動いていく惑星たち。突然、氷の女王の高笑いが会場いっぱいに響き渡る。

 「オーッホッホッホ!よく来たわね。子供達。ここに来たからにはもう後戻りできないわよ。オーッホッホッホッホ!」
これが開演五分前の合図なのだ。こうしたことはみんな田尾下君のアイデア。自然にドラマの内容に入っていってもらおうという意図だ。
 いつものような大々的な指揮者の入場はない。僕はいつのまにかもう指揮台にいる。今回、僕は自分から進んでこうしたセレモニーを省いた。考えてみると、ワーグナーがバイロイト祝祭劇場でやりたかったことも同じなんだ。

 そして開演。まず映画の開始のようにタイトルが浮かび上がり、ついですでに録音されている音楽が響き渡る。この音楽は「トゥーランドット」の冒頭の「月の出」の音楽を使って僕が自分の家のパソコンで作ったものだ。自分で言うのもなんだけど、結構良い音で響いている。やるね、EDIROLのSD90という 音源。

 最初田尾下君は、「ツァラトゥストラはかく語りき」のような音楽が欲しいと言ったのだ。僕はスコア制作が遅れていたので、かなり後になってからこれを持って行った。そして彼の話を聞いていくうちに、これは生演奏ではなくて録音の方がいいなと思い、僕の方から提案した。
 理由はふたつある。ひとつは、正式な生演奏の音楽は、本来のナンバーの一番M1から始めたかったということ。編曲はM1から最後のカーテンコールM17まで分かち難く結びついているので、その内容を前倒しするような形でいじられたくなかったということ。
 もうひとつは、ここが重要なところなんだけど、子供達がオペラ以上に親しんでいる「映画の世界」から自然な形でオペラに入っていってもらいたかったということなんだ。そしてそれをつなぐのが、前口上を担当するタムタム。こうすれば、きっと何の抵抗もなしにドラマの内容に入っていける。

 あんなに長い「ロード・オブ・リング」や「ハリー・ポッター」を子供達が喜んで見ているだろう。僕は思うんだ。子供達が長いと感じるのは、時間的な長さじゃないんだ。たとえばアリアでは物語が止まり、歌手の声が披露される。しかし、これを喜ぶのは音楽好きな大人だけ。ドラマが止まった瞬間、子供達には退屈な空間となってしまう。そうなると単なる一時間さえ、子供達にとっては永遠の長さになってしまうんだ。子供におもねるとかそんなんじゃなくて、大切なのはドラマの緊張の糸を切らないこと。

 そのため、稽古期間中、僕は歌手達にもとても大きな要求をした。どんな瞬間でもドラマを忘れないこと。単なるオペラ歌手になってしまわないこと。言葉を大きな使命感をもって必ず届けようとすること。

 そして初日。僕は指揮者だから、会場の雰囲気は背中を通してしか分からない。でも子供達が本当に楽しそうに笑ったり、後半ではドラマに引き込まれて固唾を呑んで見ているのがひしひしと伝わってきた。僕たちの努力が実りつつあるのを僕は肌で感じた。
  本当の美しさは
  心の中にあるよ
  君に気がついて欲しい
  愛は世界に満ちている
 
  本当の強さとは
  優しさの中にある
  君に気がついて欲しい
  夢は宇宙に満ちている
 これはM16 Grande Finaleの歌詞。勿論作詞は僕。これはきれいごとなんかじゃない。子供達に本当に届けたいメッセージなのだ。
 愛に飢えた子供達、見捨てられた子供達に、それでも愛は世界に満ちているんだって信じて欲しい。優しさを知ることで本当の強さを獲得して欲しい。人を蹴落として頂点に上がるのではなく、みんなと一緒に生きることを学んで欲しい。そしてみんなで明日の世界を夢見て欲しい。

 カーテン・コールでは、副指揮者の城谷正博(じょうや まさひろ)君に振らせて、僕は指揮者紹介のために反対側の袖に行って待っている。歌手達がみんな歌いながら会場に降りていって、子供達と握手している。子供達のきらきら光る瞳が見える。
 オーケストラのメンバー達が一生懸命演奏している。その中にはいつも僕が信頼しているエレクトーンの伊藤さんと塚瀬さんがいる。パーカッションの伊勢さんがいる。コンサートマスターの平澤仁さんがいる。そして長女の志保もいる。それを見ていると毎回目頭が熱くなる。
「ああ、生きててよかった!」

 今日はもう千秋楽。終わったら打ち上げだあ!さあ、それが終わると今度は「おにころ」だあ!



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