秋の夜長と学問

三澤洋史 

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秋の夜長と学問
 急に涼しくなって、秋の夜長って感じになりましたね。タンタンを連れて散歩に出ると、谷保村の草地にはもう曼珠沙華が咲き始めている。お彼岸がやって来るんだ。
iPod actuelleでも書いているけど、僕は今、10月8日のマーラー・プロジェクトの為の勉強をしている。「マイスター・ジンガー」の勉強がほぼ終わって、マーラー作曲「大地の歌」のスコアと毎日向かい合っている。
 マーラーって彼岸の音楽だから、お彼岸とよく合う。だから最近僕の意識の中では、この世とあの世との境目が薄くなって、あの世が日常のすぐ後ろまで忍び寄ってきている気がするんだ。

 それにしてもワーグナーとマーラーってまるで正反対な音楽だな。ワーグナーの音楽にはバッハ、ベートーヴェンと綿々と続いてきたドイツ音楽のシステマティックな構築性がある。マーラーの世界はまるで違う。一体どこからどうやって曲を紡ぎ出してきたのか、全く分からないが、その和声構造やきわどいオーケストレーションが作り出す異様な音響に取り憑かれてしまうと、もう抜け出せない。いやあ、凄い音楽だ!
 おっと、関心している場合ではない。僕はこの曲を指揮しなければならないんだ。この音楽を演奏するというのは、「ヘンゼルとグレーテル」や「蝶々夫人」を振るのとは本質的に意味が違うのだ。自分の存在の根源を見つめなければいけないというか、生命の深淵を見据なければいけないというか、うまく言葉では言えないが、つまり単に音楽を演奏する以上の行為が演奏者に求められるのだ。勉強すればするほど、その恐ろしさが僕を包む。

 マーラー「大地の歌」のことは、多分もう少し経ったらまたiPod actuelleに書くつもり。僕の手元にはレヴァイン、テンシュテット、ベルティーニ、バーンスタイン、ワルター、クレンペラーの演奏がある。みんなこの曲になるとそれぞれ歌手達も含めて思い入れが違うね。
 「徹底聞き比べ」なんて始めると、それだけで時間がかかってしまう。そのために勉強が中断してしまって、肝心の自分の演奏会がコケてしまうことにもなり兼ねないので、iPod actuelleの内容はほどほどにする。でも今の時点で書きたいことは山のようにあるとも言っておこう。
 でもどうなんだろうね。書きたいことを胸に秘めて演奏するのが本来の演奏家。そういう意味では“不言実行”こそが演奏家の鏡のように思われる。でも僕は、逆に演奏のみが自分の人生の全てとも思っていないので、こうしていろんなことを文章で表現するのも自分の活動の大事な要素だと思っているのだ。こういうのって、いけない?まあ、いけないと言われても、僕の場合やるだろうね。

 取りかかっている音楽に歌詞があってそれが外国語である場合、僕の指揮者としての勉強はまず辞書を引くことから始まる。知っている単語でも辞書を引く。高校の時、同級生から教わった。
「辞書を引くのを躊躇するな。分かっていると思っても辞書を引け。必ず無駄にはならない。」
 そいつは東大に現役で入った。僕も今日までそいつの言っていることを守っているよ。それだけじゃない。僕の場合、どうして歌詞を調べるのにこんなに時間がかかるかというと、ある単語を調べると、その近辺の例文を全て読み、類似する単語がそれぞれニュアンス的にどう違うかなんて調べはじめるから、時間がいくらあっても足りないのである。そういう勉強の仕方は、人に教わらなくても中学校の頃からやっていたな。英語は大好きだったし、英語の辞書はボロボロになったんだ。

 志木第九の会でマニフィカートをやっているが、スコアを開くと面白い。以前この曲を振った頃、僕は特に語学に凝っていて、特にフランス語を勉強し始めたばかりだった。マニフィカートはラテン語だが、ページの余白に所狭しと、まず日本語の訳詞、それからドイツ語、フランス語、英語、イタリア語が書き込んである。同じ内容なのだがそれぞれの言語がそれぞれ違った言い回しをしており、今読んでも面白い。
 語学は民族の体臭。語学に触れることは、その民族のアイデンティティーの中に自己を滑り込ませていく行為。

 マーラーが「大地の歌」で使っている歌詞は、中国の李白らの詩をハンス・ベートゲがドイツ語に翻訳・編集した「中国の笛」による。これは、ある意味原詩とは別の作品だと思った方が良い。このドイツ語は、使われている単語も言い回しもかなり簡単で、初級のレベルだ。それでも調べていくと分からなことがいろいろある。

 この主人公は友に別れを告げようと待っている。そして友が来る。彼は馬から下りて、別れの杯を差し出しながら聞く、

Er fragte ihn, wohin er führe
und warum es müste sein.
彼は尋ねた。どこにいくのか?
何故そうしなければならないのか?

ところがこのドイツ語は変だ。これまでずっとIchすなわち一人称で語ってきたのに、ここでは友が尋ねた相手も三人称になっているのである。すなわち、
「彼は彼に尋ねた。」
もし友が自分自身に対し、自問自答したのだったら、同じ三人称でもihnは使われないでsichが使われるはずなので、それはあり得ない。するとやっぱり、これまでの流れだと待っていた本人の意味なのだろうな。本当は、
Er fragte mich.
彼は私に尋ねた

であるべきだろう。さらに、
Er sprach, seine Stimme war umflort.
彼は口を開いた。彼の声は憂いにくもっていた

そこで言っている彼が誰かも不明だし、それを受けた、
Du mein Freund, mir war auf die Welt das Glück nicht hold.
wohin ich geh' ?
Ich geh', ich wandre in die Berge.
友よ、この世で私はしあわせに恵まれなかった
私がどこに行くって?
私は山にさまよい入る

という文章の一人称が、一体誰なのか分からないのだ。ここから後、曲の終わりまでずっとだ。
 文脈から判断するに、これは最初の一人称であるべきだろう。最後の「永遠に、永遠に・・・・」の台詞も、“友人が言っているのを聞いている”というのでは興ざめだ。詩の冒頭の孤独感と合わせる為にも、これは是非とも最初の一人称本人に語ってもらわなければなるまい。

 そうした判断に最終的に戻る前にひとしきり悩むことが必要なのだ。結果的に当たり前の結論に戻ることが分かっていても、物事を探求するということはそういうことなのだ。無駄かも知れない。他人が研究した「成果」だけ受け取って、先に進めばそれだけ悩まないし、物事が早くはかどる。しかし、勉強というのはしなければならないからするもんじゃない。したいからするのであり、楽しいからするのだ。
 受験生などには分からないだろうな。勉強が手段になってしまったら、それは学問とは呼ばれない。だから受験勉強は学問ではない。本当の学問とは、全ての目的意識から解放された時に始まるものなのだ。では何のため?それは魂の充実感のため。つまり宗教と一緒さ。人生には現実社会にとって無駄なものの中に最も大切な事が隠れているんだ。

 夜一人で単語を調べたり、クラビノーヴァに向かって小さい音量で和音を確かめたりしていると、なんだかとっても幸せな気分になる。
秋だ。秋の夜長だ。虫の声。透き通った空気。青みを増した大空。これからしばらくは、自分にとって一年で最も好きな季節が続く。そして自分は、どこまでも進化を続ける知的有機体。その先には・・・・創造主の温かい微笑みがある。

日本選手の壁
 シンクロナイズド・スイミングのワールド・カップの個人競技で、鈴木絵美子が銅メダルを獲得した。素晴らしい演技だったが、僕にはひとつピンとこなかった点がある。それは、音楽とあまり合っていなかったということだ。
 バッハのトッカータとフーガが使われていたが、技を審査員に見せることに終始していた感があって、必ずしも第一の審査基準とはならない「音楽との結びつき」がとても希薄だったと感じられたのだ。なにもこの音楽でなくてもよかったし、そもそもどの音楽であっても、きっと関係ない演技だったと思う。

 一方、僕が最も惹きつけられたのは、第二位を取ったスペインのヘマ・メングアルの表情豊かな演技だ。もう最初の瞬間から、それは“表現”として完結していた。音楽ともマッチしていて、情熱的でエレガントだった。彼女は選手としてより以前に芸術家であり人間だった。

 勿論競技だから技を決めなくてはいけない。そして勝たなくてはいけない。しかし、競技の中で選手は審査員にだけでなく聴衆にも観られている。舞台に立ったからには、観られていることを意識しなければならない。そして観られているなら、それに答えないといけない。
 エンターテイメントという言葉は、なにやら軽薄に響くかも知れないが、僕はスポーツ競技であれオペラであれ、バッハであれマーラーであれ、人の前で何かを披露する人は、ジャンルを問わず真のエンターテイメントであることをめざすべきだと思う。
 自分がその場面で感じる感情や、モチベーションのみを追求して演技する役者はダイコン役者だと言われる。大切なことは、一つの目は客席に置いておかなければならないのだ。つまり、自分の演技がどう見えているのか、いつも意識を観客の側に置いておかなければならないのである。

 鈴木さんのことを決して悪く言うつもりはないが、たとえば鈴木さんがシンクロの選手になろうと思った時、きっと誰かの演技に感化され熱狂していたに違いない。その時鈴木さんは誰かの演技を“観て”いたのだ。それほど我々は“観ること”によって他者と深い関わりを持つのであり、それを断ち切って審査員のためにだけ演技したとしたら、もったいない話だ。
 前の日の団体戦を観ていても僕は同様のことを感じた。外国人がみんな良いわけではないが、日本人選手の演技は優秀だけれどつまらなかった。いつも似たうなことを言っているけれど、この辺が日本人の破らなければならない壁だな。頑張れニッポン!

ロクダンいざ出陣!
 やっと「川よとわに美しく」をどうやるか自分なりに結論が出た。今日(16日土曜日)、「ドン・カルロ」本番が終わった後、麻布十番にある練習場に駆けつけ、六本木男声合唱団倶楽部広島公演のための最終練習をした。いろいろ変えた。そして、
「これでいける。」
という感触をようやく得ることが出来た。
 一方、テノールが声にまかせて暴走し始めたので、久々に練習場で怒った。みんなびっくりしていた。

 僕の場合、本当に稀にであるが、本気で怒ることがある。みんなが一生懸命やっているけど能力が追いついていかないので出来ない、などという時には決して怒らない。でも、出来るのにやらないとか、自分の声や能力に自信を持って溺れたり、互いに無益な競争心に走って、本来の道を外れた歌い方をした時などには、容赦なく怒る。昨年は、新国立劇場で「マイスタージンガー」の練習の時にセカンドテナーに向かって怒った。すぐ止んだけど、どうやら僕が怒ると怖いみたい。

 家庭でも僕は滅多には怒らないが、いざ僕が怒ったら怖いとは娘達みんな思っているみたいで、彼女達が夜遊び歩いたりして僕の機嫌が悪くなってくると、パパの雰囲気がヤバイと察知して急に素直になるんだ。ここ数年は子供達に対して爆発するまでには至っていないが、その潜在的抑止力は現在でも充分に働いている。
 意図的にしているのではない。自分でも怒ると後味は悪い。でも怒るということは、それが箸にも棒にも引っかからないものではなくて、後一歩でとても良くなる可能性を秘めている場合だけだし、僕自身がその対象に対して本気に向かい合っている証拠でもあるのだ。

 僕は信じているよ。多分、明日のロクダンの広島での演奏は素晴らしいものになるだろう。僕がこれだけ本気で入れ込んでいるのだから。

 さあ、明日はなんと7時に羽田空港集合だ。4時起床だよ。ではお休みなさい!そして行ってきまーす!!



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