「大地の歌」からの帰還

三澤洋史 

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「大地の歌」演奏会無事終了
 まだ生きている。変な話、「大地の歌」を振ったら自分は死ぬんじゃないかと思っていた。それほど「大地の歌」は死とつながっている。しかし、昨日の演奏会でこの曲を振りながら感じたことは、この曲の持つ信じられない生命力だ。それは恐らく作曲家マーラー自身のバイタリティーからもたらされたものなのだろう。

おにころ 僕たちがどこにあっても、この(宇宙の)川を見つめている限り、

僕たちの命は、この川を通してつながっているんだ。

僕たちの魂は、本当は別れもしなければ死にもしない。

どんなに離れていても、心はひとつなんだよ。
桃花 おにころ、そうだったわ。

この大きな宇宙の調和の中に、

あなたの命も、あたしの命もあるのね。

 これは僕のミュージカル「おにころ」の中の一節。三輪陽子さんが終曲「告別」の最後でewig・・・ewig・・・と消え入るように歌うのを聴きながら、僕の中には強烈な“いのちの歌”が響いていた。
 僕たちが、命があるだの、生まれるだの、死ぬだのと認識しているのは、この世からだけの視点。般若心経にもあるように、魂は本来死にもしなければ消えもしない。こちら側にあれば“生”、あちら側にあれば“死”と呼ばれるだけなのである。
 マーラーの悟りはそこまで達していた。だからマーラーの音楽は一見ひ弱に見えても強靱。一見厭世的に見えても、悲劇的でもなければ悲しくもない。マーラーの音楽とは、永遠なる命への讃歌なのだ。

またまた風来坊
 10月7日(土曜日)、練習の後、高橋淳(たかはし じゅん)、初鹿野剛(はつかの たけし)、三輪陽子(みわ ようこ)の三人を誘って、さあどこに行こうかと迷って、栄のホテルをあとに歩き出したが、なかなか良い場所が見つからない。で、結局また風来坊に入ってしまった。
 だが今回は手羽先の唐揚げは控えめに四人で六人前。ここは県立芸大の講師時代からよく知っているが、手羽先の他によく学生達が川海老の唐揚げを食べていたので、今日はそれを注文。また特に今回歌手達に好評だったのは手羽餃子だ。先週試しに頼んでみたらうまかったのだ。これは不思議な食べ物で、手羽の中に無理矢理餃子の詰め物が押し込んである。で、味は餃子の味がする。
 男性歌手二人は明日に備えてアルコールを控え、淳はノンアルコール・ビール、初鹿野君はウーロン茶を飲んでいた。しかし三輪さんは日本酒を熱燗で飲んでいたよ。さすが!彼女は大物になるわ。
 で、四人は途中までいつものアホアホ・モードでいたのだが、最後の方で僕が実在したハンス・ザックスの話をし始めたら、急に真面目モードになって、実に上品に宴会が終わった。考えてみると僕だけ生ビールを三杯くらい飲んでいて、特に男性陣はしらふだったんだ。

実在したハンス・ザックス
 ハンス・ザックスは、靴屋の職人としてもかなりの名人だったそうで、あの当時、遠く離れたフランクフルトにまで靴を出荷していたという。またワーグナーが曲を付けた有名な「目覚めよ」の合唱の詩がザックス自身の作品であることは以前書いたし、そこで書かれたナイチンゲールが宗教改革の旗手マルチン・ルターをあらわしていることも書いた。
 さて、当時ウィーンにいた神聖ローマ帝国の皇帝といえば、カール五世。わかりやすく呼ぶと、あのヴェルディの「ドン・カルロ」のおじいちゃんでフィリップ二世の父親であるカルロ五世だったのだ。
 カール五世は政治的理由からローマ教皇とつながっており、カトリックを擁護していたので、ついにザックスは、
「あんたはそんな新教擁護の詩を作っていないで、おとなしく靴を作っていなさい。」
と詩を作ることを禁止されてしまうのだ。それでもザックスはめげずに作り続けたそうだ。
 奥さんには先立たれたのは事実だけれど、エヴァをあきらめた楽劇の筋書きと違うのは一年半後にまんまと若い奥さんをもらって長生きしたそうだよ。
ま、こんな話で締めくくったんだ。

ワグネリアン合戦
 マーラー・プロジェクトのオーケストラのコンサートマスターの高橋広(たかはし ひろし)君というのが面白い奴で、彼と最初に話をしたのは、名古屋の日本ワーグナー協会員の集まりだった。つまり彼はワーグナー協会に属していてバリバリのワグネリアンなのだ。その時も僕に「パルジファル」のことをいろいろ聞いてきて、僕は、
「お、かなりのオタッキーの奴だな。」
と思った記憶があるのだ。

 彼がコンマスの席に座るともの凄いんだ。ワーグナーでもマーラーでもまるで熱に浮かされたようなヴァイオリンを弾く。演奏会の最初は「マイスタージンガー」ハイライト。前奏曲が始まると、ワグネリアンという意味では高橋君にも決して負けない僕は早くもターボをかける。すると高橋君が反応する。僕がけしかける。高橋君がまた反応する。みんなもつられてイケイケ・モードに突入。

 そんなわけで全員が思ったことは、こんなに前奏曲から盛り上がってしまったら、最後の「大地の歌」の「告別」まで持つんかいなということ。でも僕もイッちゃっているからね。
「ええい、構うものか!いくとこまでイッちゃえ~!」

 前奏曲に引き続いてコラールに入る。モーツァルト200の合唱、お、やるじゃん。
オケはしみじみと第三幕前奏曲を弾き出す。初鹿野君は実に表情豊かにザックスの「迷いのモノローグ」を歌い、淳は爽やかにヴァルターの「優勝歌」を歌ってくれた。ヴァルターの歌に民衆が酔いしれ、優勝が決まった歓喜のクライマックスに流れる「ザックスの諦念のテーマ」に僕は胸がつまった。これは単なる喜劇じゃないんだな。同時期に書かれた「トリスタンとイゾルデ」のショーペンハウアー的厭世観がここでも支配しているんだと演奏しながら痛烈に感じた。そして「ドイツのマイスター達を敬ってください」の大フィナーレ。最後の和音が打ち下ろされた次の瞬間、さくらかも知れないけれど、ブラボーの叫びが会場にこだました。バシーッときまったぜ!

そしていよいよ「大地の歌」
 前半で力を出し切ったと思ったが、不思議と疲れていない。まだまだ余力があるぜ。
「お、いける、いける!」
そして第二部「大地の歌」の時がやってきた。

 大編成のオケなのに淳の声はよく通る。淳の第1,3,5曲目の役割は、酒に溺れたアウトサイダー。速い曲が多い。でもドイツ語の発音とドイツ語的表現はしっかりしていて、いつも三枚目を演じているけれど、本当はきちんとした基礎があるんだ。
 一方、ゆっくりの曲が多いけれど、様々な表現の幅が要求される第2,4,6曲目のアルトを三輪さんは本当に素晴らしく歌ってくれた。特に第二曲目「秋に独り寂しきもの」のしみじみとした情感は、この世代で他に出来る人いるのだろうかと思わせた。そして「告別」。僕が聴いていたいくつかのCDより確実に良かったぜ。

暗譜と演奏中に考えること
 今回は「マイスタージンガー」も「大地の歌」もかなりしっかり頭に叩き込んで、全曲暗譜で振った。暗譜で振ると「音符」から離れて、作曲家がすぐ側にいるような気持ちになる。自分が作曲家になって、今ここで即興的に曲を紡ぎ出しているようなそんな気分なのだ。特に今回はしっかり憶えたので、息を吐くとマーラーのフレーズが自分からほとばしり出てくるような感じがした。

 とはいえ、矛盾するようだけど、演奏している時の自分というのは、ある意味すごく冷静だ。ちょうど軌道にそって宇宙旅行の操縦でもしている気分と言ったらいいだろうか。
「間もなくテンポ・チェンジ・・・ゴー!・・・ようし、うまくいった。次は弦の伴奏にフルートのメロディー、ホルンの対旋律とのバランスは・・・・おっとっと、ホルンやや大き過ぎ、はい、おさえてね・・・・OK!次難しいところがくるぞ、モチーフが乱雑に重なり合ってる、ええと・・・クラリネット・・ファゴット・・・おっと、ビオラもっと出なければ・・・・オーボエのメロディーにチェロの三連符がもたついている・・・じゃあ指揮棒で叩いちゃえ・・・ようし、直った・・・。では、本来のカンタービレの棒に戻ります。」
とこんな具合である。

生命の光り
 曲の終わり近く、E音の長いフェルマータに続いて、「愛する大地に春来たりなば」のハ長調に入った瞬間、僕の全身にハ長調の強烈な光りが入ってきた。それは「命」の輝きだった。そしてチェレスタが入ってくる。チェレスタの水野みかさんは、名古屋フィルの鍵盤奏者で、決して落ちたりずれたりすることなく確実なので安心だ。それにしても不思議な響き。チェレスタ、ハープ、マンドリン。この音楽はあの世からやってきたんだ。
 でも僕はついにこの曲の正体見たり!この曲は死の音楽ではなく、生命の光りなのだ!
そして終わった瞬間、放心状態になった・・・・。聴衆もしばし拍手を忘れた。

 今日9日(月曜日)の朝。昨晩の興奮がまだ残っている。オーボエの吉田友昭君、本当にお疲れ様。さて、今日からまた別モード。僕のi-Podからもマーラーとワーグナーは消し去って、まずはロ短調ミサ曲が入るだろうね。それからまたマイルス・ディビスでも入れて少し気分転換しよう。そんなわけで「大地の歌」からの帰還。

愛知祝祭管弦楽団 「大地の歌」紹介ページへのリンク
(事務局注 2021リニューアル時に追加)



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