ようこそ先輩

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真  母校の小学校の校庭に大きなけやきの木があった。小学生の僕の眼には天まで届くかと思うほど巨大だったのに、今の自分には、
「あれ、こんなもんだったの?」
と感じる程度だ。あれから四十何年経った間に木だってさらに成長しただろうに・・・。
 けやきだけではなくて、水飲み場や玄関や用務員室がある渡り廊下など、全てがあの当時よりこじんまりしている。不思議だなあ。子供にとっては、世界は果てしなく大きく威圧的で、自分の外部に存在していたというより、自分自身をも包み込むように自他共に分かち難く存在していたように思える。

 10月25日、水曜日。僕は母校の新町第一小学校(当時はまだ第二小学校がなくて、新町小学校と呼ばれていた)にいる。何をしているのかというと、パンフレットから引用する方が早いので、そのまま書かせていただく。
“ようこそ先輩”
1)10月31日(火)に予定されている「高崎市連合音楽祭」の発表に向けて、 5年生が発表する合唱曲「愛をとりもどせ」(新町創作ミュージカル『おにころ』 のテーマ曲)の作詞・作曲者である三澤洋史先生(本校昭和41年度の卒業生)を迎え、5年生の合唱指導をしていただく。
2)指導の結果を全校児童で聞かせてもらいながら、「新町創作ミュージカル『おにころ』」の制作・公演の意図等を踏まえながら、「後輩へのメッセージ」を話していただく。

ということで、まず10時20分から11時半まで5年生の合唱指導。音楽の授業を担当している清水先生は東京音大を出て、今年新しく赴任してきたばかりのうら若き女性。あれ、ということは、もしかして長女の志保と同じ年くらい?やだなあ、僕もおじさんになったもんだ。
 でもこの清水先生の児童の声の管理はきちんとしていた。胸声と裏声の持って行き方の指導が適切になされていたのが僕には驚きだった。
 僕の指導は、主として大切な言葉を立てることから始まった。その為には歌詞の意味をみんなに伝えなければならない。おにころに込められた様々な想いを説明していく。小学生には難しいかなとも思いながら伝えていくが、どうしてどうして、結構分かってくれてその後の歌は見違えるようになった。

 それから全校児童の前での発表会。みんな体育館に集合。なつかしいな体育館!実はこの体育館は、その昔大工職人だった親父が勤めていた桜井建設が建てたもので、親父もこの工事に加わっていたそうだ。僕が小学校に入学した頃は真新しかった。あの頃親父が自慢していたなあ。
「この体育館は俺が建てたんだ。」
凄いな、こんなでっかい建物建てるなんて、なんて尊敬していたけど、今になってよく考えてみると、別に親父が自分一人で建てたわけではないんだよね。
 そんな曰く付きの体育館で、まず「愛をとりもどせ」を指揮。それからお話をした。まだ幼稚園児の雰囲気が残っている一年生から、後ろには保護者達もかなりの数いるので、どこに焦点を合わせて話をしていいか分からないけど、話は自分の小学校時代のことから、「おにころ」に込めた想い、そしてみんなへのメッセージへと流れていった。今回はその内容を書き出してみたい。

子供達へのメッセージ
 今は僕は音楽家という職業についていますが、普通音楽家というと「ご幼少の頃からヴァイオリンとピアノをたしなんで、神童とあがめられ」という人生を想像しがちですが、僕の場合、小学校時代はどこにでもいるようなただの悪ガキでした。音楽家になるなんて夢にも思っていなかったのです。しかもかなりのいたずら小僧で、僕の母親はしょっちゅう放課後学校に呼び出されていました。
 先生がよく授業中に「顔を洗ってきなさい!」と僕に怒るんですが、そうすると僕は今もそのまま残っているあの水飲み場に行って顔を洗います。顔は洗うんですが、そのままそこで遊んでいて帰ってこない。
 あるいは父兄参観になりますと、後ろに父兄がいるのが面白くて、先生が黒板の方を向いて字を書いている隙に立って後ろを向いてアッカンベーをする。それを何回か繰り返している内に、他の児童が笑うので先生が気付いて急に後ろを向く。すると僕と目が合ってしまいました。で、前代未聞、父兄参観に立ち番です。

 音楽は好きで、特に歌うことが大好きだったのですが、実際に音楽に本気で触れたのは中学校の吹奏楽でトランペットをやったのが始まり。またその頃独学でギターを習い、音楽に和音というものがあることを知ってから音楽を構造的に捉えることに夢中になりました。そんな遅くから音楽を始めて音楽家になれるのかいなとお思いでしょうが、幸運にもなれたのです。ただし自分は人よりずっと遅れているので人の二倍努力しなければならないといつも自分に言い聞かせていたので、誰でも自分くらい努力すれば自分くらいになれると思います。

 今日はみなさんに是非言いたいことがあります。それはDreams come trueということです。夢を持っていれば必ず叶うという意味です。あきらめてしまったらそこで終わりですが、夢を持ち続けていること、そして持ち続けていれば叶うということを「信じ続ける」ことです。
 ただそれは初心貫徹というのとはちょっと違います。僕は一生懸命勉強して進学校の高崎高校に行きましたが、そこでは入学時にみんなに志望大学を書かせます。見るとまわり中みんな東大と書いています。で、僕も東大と書きました。でも一年生の夏、自分の人生はこれでいいんだろうかと思いました。本当に自分は東大に行きたいのかと自分に問うた時に、多分東大が一番良いとみんなが言っているからで、自分の中に本当に東大に行きたい欲求があるわけでないことにまず気付きました。では、自分は一体どうしたいのかと考えた時に、むしろ音楽がやりたいのだと思う自分を発見したのです。それで方向転換しました。その時思ったことはこういうことです。
「自分は結果として何者にもなれなくていい。でもこの道でやるだけのことはやってみよう。」
 それで音大をめざして努力しました。最初は声楽科に入りました。でも声楽の勉強をしていく内に、どうも自分は声楽よりも指揮者に向いているんじゃないだろうか、と思いはじめました。で、今度は指揮者に転向です。せっかく声楽科に入ったのに、何の保証もなく指揮者としての勉強を始めました。その時も、何者にもなれなくても出来るだけのことを・・・と思ったのです。
 そして長い年月が流れました。結果として高崎高校をめざして受験勉強したことも、声楽を勉強したこともみんな役に立っています。そして自分がこうして小学校を過ごした母校でみんなの前でお話が出来るなんて不思議な気がします。

 僕の勤めている新国立劇場では、沢山の舞台スタッフが働いていますが、みんなあの難しいオペラの譜面がきちんと読めて、音楽のキッカケで大きな舞台を動かしたり、歌手達を舞台に出したりしています。彼等と話しているとどこどこ大学の声楽科を出ましたとか、ホルンを吹いていましたとか答えます。そうした人達の事を「挫折した」と言う人もいるのですが、僕は決してそうは思いません。音大声楽科を出た人が全員声楽家にならなければいけないなんて誰が決めたのでしょう。
 僕は、彼等の夢は実は叶っているのだと思います。彼等は音大などで勉強していながら、実は自分の夢を探していたのです。そして見つけたのです。それが証拠にみんな本当に楽しそうに仕事しています。僕の目標が二転三転したように、夢とは歩みながら探し続けるものでもあるのです。

 ミュージカル「おにころ」は、今から15年前に初演しました。みんなはまだ生まれていませんね。これは僕の初めての大きな作品で、それまでの自分の人生観を全て投入しました。
 僕はベルリンに留学しましたが、向こうで3年間勉強して帰ってきてみると、日本の社会の狭さというものをとても感じました。たとえばみんなが何か自分の書類を書きますね。ドイツでは髪の色や瞳の色というのを書く欄があるのです。でも日本では髪の毛や瞳といったら黒が当たり前。だから日本人はみんな同じだと勘違いしています。それどころか、みんな同じでないと気が済まない。だからちょっとでも違う人がいると、もう差別が起きてイジメも起きます。
 ドイツでは日本のようなイジメというものは存在しません。とても個人主義が強いことと、大陸続きなので本当にいろんな民族の人がいて、性格も違えば価値観も違うので、イジメをしようにも、誰を何を基準に差別しようかみんなの中で統一出来ないのです。
 日本人の中の最も大きい勘違いは、みんな分かり合っていると思っていること。それからみんなを同じ枠に無理矢理はめようとすること。これはそうしないと不安だからでしょうか。とにかくとても狭い心から来ているように思うのです。

 「おにころ」は鬼というよそ者を受け入れない狭い心の村人達が、おにころの犠牲的な行動に触れて最後に真実の「愛」に目覚めるというおはなしです。おにころは、ずっとみんなからいじめられてきたけれど、ある時自分がとても力持ちだということを知ります。でもおにころは、その力は自分の利益のために使うのではなく、みんなの心に愛をとりもどすために使うんだと決心します。
 その時、おにころはDreams come trueのDreamに目覚めるのですが、同時にそれはおにころの“使命への目覚め”でもあるのです。自分が夢を叶えるということは、自分の夢を実現するだけでは決して終わらない。その夢は必ずや他人に影響を与えるのです。だから夢イコール使命でもあるということでもあります。

 私のようなちっぽけな人間は、そんな夢を持つ資格なんてないとか、自分にはさしたる使命はないなどとは決して思わないでください。これは例外なく万人に通用する真理です。ただ夢や使命というと華々しい職業のことを思い浮かべがちですが、そうではありません。たとえばキリストの母親である聖母マリアは世界中からあがめられています。彼女の職業は何ですか?“主婦”です。でもこれも立派な使命なのです。
 人間はみんな違う。太っている人もいれば痩せている人もいる。大きい人もいれば小さい人もいる。体つきだけでなく、何百人もの人を動かすような大きな働きをする人もいれば、人知れぬところで目立たず、けれど大事な働きをする人もいます。それらの人間をみんな統一して同じ働きをさせようなんていう考えは間違っています。みんな違う、そのままでいい。そしてそのままでその違いを認め、受け入れ合うべきなのです。人はみんなかけがえのない存在なのだから。これが「おにころ」に込めた僕のメッセージです。
 もう一度言います。Dreams come true夢は必ず叶います。これを決して忘れないように!

話し終わって
 小学生には難しかったかなと思った。後ろの保護者達はうなずいていたけどな。でもそこで思いがけないことが起こった。予定外だったのだが、校長先生が何故か高崎市連合音楽祭で歌うもうひとつの曲を清水先生に振ってもらいましょうと言い出したのだ。そこで最後に5年生がまた歌った。題名は忘れたが、この歌詞がなんと、
    Dreams come true 思いは叶う
というものだったのだ。僕の言ったことそっくりそのままだよ。信じられる?校長先生も自分で提案していながらびっくりしていた。本当に偶然だったのだけれど、まるでそう仕組まれていたかのようだった。こういうことは僕の人生ではよく起こる。だから「ナディーヌ」でも「この世に偶然なんてないわ」というセリフが自然に生まれるんだな。

給食~母校を後に
 その後、応接室で校長先生達と食事をしたが、これがなんと給食だった。炊き込みご飯、メンチカツ、サラダ、みそ汁、そして牛乳。メンチはちょっと硬かったけど、炊き込みご飯はおいしかった。僕の小学校時代は、給食といったらコッペパンだったけどな。そして低学年の頃はまだ牛乳ではなくて脱脂粉乳だったのだよ。アルミの入れ物で飲んだ。まずかったのを覚えている。それから比べると現在の給食は夢のようだ。正直言ってちょっと足りなかったけどね。
 それから校長先生に案内されて昔の校舎を見て歩いた。校長先生から、この校舎がもうすぐ取り壊されて新校舎の工事が始まると告げられた。それを聞いて、僕は少なからず動揺を覚えたよ。
 僕が小学校に入る前、古い木造校舎が火事で焼けたという。僕が入った時は、目の前にあるこの校舎が最新式鉄筋コンクリートの新校舎だったんだ。でもこの校舎も数十年経ってもうその使命を終えるのか。なんだか淋しい。
 昔は用務員室の隣に給食室があってそこで給食を作っていたのだが、現在では給食センターから送られてくるそうだ。さっき食べた給食も、第一小、第二小同じで、給食センターで作られたんだな。でも今年一月に高崎市に編入されてみると、高崎市は自校での給食が原則だそうで、新築した際には再び給食室が出来るという。
 時代は変わる。人の心も変わる。君も変わるー、絶え間なくううううう。あ、これは妖精メタモルフォーゼのセリフ。

 驚いたのはパソコン室。休み時間に児童が自由に使える。ゲームをやる者もいれば、ローマ字学習のCDを持ってきてゲーム感覚でやっている者もいる。うーん、パソコンねえ。本当に必要なんだろうかねえ。
 僕は、小学校の英語教育と同じで、必ずしもパソコンは必要ないんじゃないかと思っている。それならパソコンほど素晴らしくなくても、ラジオを自分で作るとかの方が大事なんじゃないか。僕は、たとえば見た目にも素晴らしいパソコン・ゲームで高得点を上げる人間よりも、程度は低いかも知れないが、ラジオがどうして鳴るか解明出来る人間の方がよりクリエイティブで偉いと思う。パソコンのシステムを解明し、パソコンの部品を自分で作れるならもっといい。でも、それと小学生に表面的にパソコンに親しんでもらおうというのとはちょっと違うような気がする。
 確かに、今や事務員になるにもパソコンが使えなくては採用されないが、だからといってなにも小学生から授業で取り上げるほどなのかねえ・・・・。

 午後にもう45分間だけ、五年生相手に「愛をとりもどせ」の最後の仕上げ練習をしてから学校を後にし、夜の「イドメネオ」公演に間に合うべく湘南新宿ラインに飛び乗った。 i-Podからはロ短調ミサ曲が流れている。Qui sedes ad dextram Patrisのアルト・アリアにはなんともいえない哀愁があるなあ。というか、この曲、全編にバッハの哀愁が感じられる。でも良い曲だなあ。やはり最高傑作のうちのひとつだなあ。こんな素晴らしい曲が指揮出来るんだもの、やはり僕は夢が叶っているんだなあ。しあわせな人生だなあ。神様、ありがとうございます!

PS.
 今僕のi-Podに入っている、ブリュッヘン、レオンハルト、ヘレベッヘ、どの録音を聞いても、カトリック・ラテンに近い発音で歌われている。彼等ったら、せっかくオリジナル楽器使って当時の音響を再現しようとしているのに、肝心の合唱が当時のライプチヒあたりで発音されていたであろうジャーマン・ラテンで歌われなかったら響きが全く違うだろう。意味ないだろう。あるいはもし古典ラテンで歌おうとするならばまだポリシーが感じられていい。でも誰もそこまで神経を配っていない。
 みんなきれいだけれど、どれ聴いても同じで、精神的な切れ込みが全く感じられないのは、彼らあまりにも器楽的な発想で物事を解決しようとするからだろう。
 それに比べると聖トマス教会のビラー氏の演奏する200年バッハ・イヤーの演奏は、アンサンブルにはすきま風が吹いているものの、やっぱりドイツやバッハの匂いがして感動的だ。これには彼らの完璧なジャーマン・ラテンの影響が大きい。ラテン語の発音。とても重要だ。



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