21世紀のBACH無事終了

三澤洋史 

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演奏会翌日の早朝
 めっきり寒くなりました。愛犬タンタンを連れて朝の散歩に出ると、頬に当たる風の冷たさに驚く。甲州街道から国立インターに入るT字路にかかる歩道橋を、僕はタンタンをかかえて渡る。タンタンったら、自分で階段を駆け上がれるくせに、最初に通ったときかかえて昇ってあげたら、もうそれ以来この階段は抱っこしてもらえると決めてかかっているようで、階段の下にくると「早く、早く!」って催促する。しょうがねえな。でもそのタンタンの体の温かさが心地よくなってきたということは、世界が一歩一歩冬に向かって進んでいる証拠。
 この歩道橋の上から真っ白に雪化粧した富士山が見える。富士山は青空の中にまるで画家が筆で輪郭を描いたようにくっきりと浮かび出ている。視線を下げると、枝にたわわに実る柿の紅。今の時期の日本はここかしこ風情があって、自分がこの世界に生きている幸福を噛みしめるに最もふさわしい季節だ。

 昨日の興奮がまだ全身にくまなく残っている。散歩していても頭の中にはCum Sancto Spirituのフーガや、Osanna in excelsisの二重合唱が常に鳴り響いていて、うるさくて仕方がない。誰かスイッチを切って欲しいのだが、切る方法がない。

指揮者の暗譜
 指揮者の場合、暗譜というのは、i-Podとか音源が何もなくても頭の中で完璧にスコアの音が鳴るまで頭の中に叩き込むことを言う。何度も何度もスコアを眺め、ピアノでゆっくり弾いたり、頭の中で和声を響かせたりして、いつでもどの曲でも即座に呼び出せるように訓練する。音が鳴っていないのにどうして頭の中で鳴るのか不思議だな。自分でもよく分からない。
 僕は昔から曲を覚えるのは早かったけれど、バッハのような複雑な音楽を頭の中で鳴らせるようになったのは、和声学と対位法を勉強してからだな。二つともピアノを使って書いてはいけないんだ。後で確かめるために弾くのはいい。でも基本的に和声学と対位法は、頭の中だけで音楽を構築する訓練なのだ。そうして、こういう進行をするとこう鳴るという因果関係を徹底的に叩き込んだのだ。ただ作曲する時は僕はピアノを使う。だって予測のつく音楽だけ書いていては独創的なものは出来ないからね。
 暗譜している最中は要注意。新国立劇場の練習の行き帰りの電車の中では当然のごとく音楽を頭の中で響かせているのだが、そうすると周囲で起きていることには全く気が回らなくなる。気がついてみると3つ先の駅にいたり、急いで降りて荷物を網棚に忘れたりしょっちゅうなんだ。
 指揮者の暗譜には段階があって、自慢ではないが、僕は振るだけならロ短調ミサ曲はいつでも覚えている。でもそれは振ってアインザッツを出すだけのこと。今回のような自分を賭ける演奏会のような場合、なるべく全部の音を覚えるようにするんだ。そうするとバッハの音楽の凄さがひしひしと感じられて、めちゃめちゃ楽しいのだ。バッハはいろいろ隠れたところにテーマの断片を隠したりして凝っているだろう。
 たとえばConfiteorというコンティヌオのみを伴ったほとんどアカペラの合唱曲では、confiteorというモチーフとin remissionemというモチーフがからみあって複雑な対位法的展開を繰り広げる。その途中にカトリック教会の古い聖歌のメロディーがはさみこまれる。このメロディーは、最初バスとアルトの掛け合いで、ついでテノールで倍の長さで高らかに歌われる。これを振るだけだったら、そのメロディーにアインザッツを送るだけでいいんだ。でももっと楽譜を読み込んでいくと、そのメロディーに冒頭のconfiteorとin remissionemのモチーフが巧妙にからんで、もうほとんど偏執狂的と言えるくらい凝っている楽曲に仕上がっている。これを全部味わってごらんよ。もう頭の中おかしくなりそうだぜ!実際本番でもあまり楽しくて振るのを忘れてしまいそうになるんだ。

 最後の合唱練習である8日の水曜日でCum Sancto Spirituの練習をした時だって、みんなにとって難しいからといって何度も何度も反復練習したけれど、白状するとあれは自分のためだった。主要テーマ以外のテーマも全部頭に入ったので、スコア通りに音が鳴るのが面白くて仕方なかったんだ。
 そんな風にバッハの音楽を指揮する歓びは何にも代え難い。で、やっぱり暗譜に尽きるのだ。考えてもごらんよ。いつでもどこでも自分の好きなテンポで好きなバランスで好きなサウンドであの緻密な音楽を鳴らすことが出来るんだぜ。だから変な話、目の前に合唱やオーケストラがいなくても、もうハッピーなんだ。場合によってはいない方がいいことだってある。あははは。ヤベえ、口が滑った!でも今回のように、自分の頭の中で鳴っている音に結構近いサウンドが現実に鳴っている場合、その歓びは計り知れないな。

 という具合に自分でいつでも頭の中でロ短調ミサ曲が鳴るようにさせておいて、演奏会が終わったからといって即座に脳みそから追い出そうとしても、今度はそう簡単には出て行ってくれないんだ。i-Podだったらi-Tuneで消去出来るんだけど、今度は数日それに悩まされることになるんだ。まあ、一番早い方法は、別の音楽の勉強を始めることだな。つまり脳の上書き。それでもねえ、なかなか出て行ってくれないんだよ。

演奏会とTokyo Baroque Scholarsの将来
 ええと、大事なこと言うの忘れてる。昨日の演奏会は、聴衆も満員で大成功の内に終了。トランペットの坂井俊博さんはハイノートを素晴らしく吹いたし、ホルンの丸山勉さんも秀逸。チェロの諸岡範澄さんとファゴットの鈴木一志さんを初めとするコンティヌオ軍団の揺るぎないテンポ感は尊敬に値する。
 コンサート・ミストレスの北川靖子さんは、浜松バッハ研究会で15年以上も一緒にやっているだけあって、僕のバッハを隅々までよく知っている。練習中になにか注意しようとしても、もう先取りして僕の言いたいこと全部理解しているしね。コンマスが信頼できるとこんなにも指揮者ってやり易いのだ。ロ短調ミサ曲はやっぱりオケがよくなくっちゃ。

 21世紀のBACHはかなり順調な船出を果たした。これは面白いことになりそうだ。勿論、Tokyo Baroque Scholarsのメンバーも本当によく頑張った。本番では現在彼等が持っている最高の力を発揮した。でもメンタルな面から言うと、合唱団員はいろいろな団体から集まってきた人達で、ここでやっとひとつの演奏会を共有していわゆる共通言語で話せるようになったという段階。実はこれからが勝負なのだ。
 この団体の合唱団員に将来的に僕が望むことがある。それは、高いレベルをめざしつつも、同時にみんなで助け合い補い合っていく和気藹々とした雰囲気が欲しいのだ。僕の関係している合唱団は大体どちらかに傾いている。でも僕は厳しさと暖かさの両方が欲しいのだ。これこそ、僕が長年追い求めてきたことなのではないだろうか。

 今日の内容はこの演奏会のことだけだな。先週の日曜日に、プロレスラーになった修道士の映画「ナチョ・リブレ」を見に行ったことだの、テレビ番組の「のだめカンタービレ」を毎週見ていて今晩も見られることだの、他にも書きたいことはあるのだけれど、なんか気が抜けちゃって頭がボーッとしているのでまた後日。午後は新国立劇場で「フィデリオ」と「セヴィリアの理髪師」の合唱稽古がある。いつも大きな演奏会の次の日というのはドジコキまくりになるので気をつけないといけない。
ああ、でもバッハってやっぱりおもしれえな!



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