今週は読書感想文

三澤洋史 

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芥川賞受賞作品
 別にそうしようと心がけているわけではないが、ここのところ毎年芥川賞の受賞作品を読んでいる。その度に、石原慎太郎氏が「いまどきの若者はぬるくて なっちょらん!」という感じで述べる辛口の批評に我が意を得たりという気持ちでいたのだが、今年の受賞作はちょっと違った。
 まず、いつもは批判的な石原氏と村上龍氏という二人が受賞作品を揃って推したという事実だ。特に、村上氏の、
「読んでいる途中から候補作であることを忘れ、小説の世界に入っていった。主人公に感情移入してしまったのだ。」
という選評は、これはもう手放しで誉めているようなものではないか。

 受賞作は青山七恵(あおやま ななえ)の「ひとり日和(びより)」。11日の日曜日、名古屋のモーツァルト200合唱団の練習の帰りにキヨスクで文藝春 秋を買い、新幹線で味噌カツ弁当を食べてビールを飲みながら腰を前に出してだらしない格好で読み始めた。読んでいく内にどんどん引き込まれていって、普段 はビールでいい気分になり酔っぱらって寝るところが、気がついてみると姿勢を正している。酔いもどこかに飛んでしまっていた。普通の受賞作より長いので、 中央線でもずっと読みっぱなし。お陰でその日はめちゃめちゃ疲れた!

いまどきの若者
 作者の生まれた年を見てみたら、うちの長女志保と同じ年じゃないか。そうした若い作者が書く小説というものは当然のごとく彼等の世代の世界を描いてい る。そのこと自体は悪くないのだが、これまで毎年の受賞作では、その描かれた「いまどきの若者」の社会に僕達おじさん世代が抵抗感を持ってしまって、入っ ていけなかったのだ。

 僕達が若者の時、僕達を取り巻く社会というものは、ウィスキーをストレートで一気に飲み、
「くー、キクー!」
と言うのに似た、熱い気迫とダサい艶歌的情感に充ち満ちていて、世の中に対する反骨精神や、僕達の手で未来を変えていくんだという若気の至り的思い上がり があった。
 だから、そうした情熱がいまどきの若者に感じられないだけで、僕達の世代はひいてしまって、彼等を理解しようとする努力を放棄してしまっていたんだな。 これまで決まってある距離感を持って読んでいた。石原氏などもきっとその一人だったと思う。

 しかし今年の受賞作はちょっと違った。僕は「ひとり日和」を読んで初めて、いまどきの若者が彼等を取り巻く現代の社会の中で、どのような閉塞感と孤独を 感じているのかが手に取るように理解できた。このことは我々の世代にとって画期的なことであり、必要なことでもある。それだけでもこの小説が他の作品と一 線を画して輝いている証拠だ。

描写力の素晴らしさ

都心の駅のホーム間近の、しかし開発から取り残されてしまった袋小路の奥の一軒家とい う寄宿先の設定も巧みだし、特に、その家から間近に眺め仰ぐ、多くの人間たちが行き来する外界の表象たる駅への視線は極めて印象的で・・・・。 (石原氏 の選評から)

 こうした外的描写力の素晴らしさもさることながら、僕に一番感銘を与えたのは、むしろ細かい心理の綾の描写だ。それもある意味最も描写しにくい事柄に、 この作者の力は発揮されている。
 たとえば、初めて吟子という老女の家に下宿した時の、お互いの遠慮から来るある種の気まずさ、間が持たない居心地の悪さを作者は具体的に延々と描写す る。このようなどうでもいいような事に紙面を割いているものだから、作品に冗長さを感じてしまう読者もいるだろう。しかし実はそれを通して作者は主人公知 寿(ちず)の人生における不器用さを巧みに描き出しているのだ。読者はそうした情報を絶えずインプットされる。すると我々は、知寿のまわりに起こってくる 様々なことに“主人公になりきって”感情移入してしまうわけである。なかなかやるな。

 知寿の不器用さは、彼女の恋人との付き合い方に集約されてゆく。彼女は、恋人のわずかな心の変化とそれに気付きつつ、どうにも出来ないでいる。そうして 手をこまねいている内にまた以前のように終焉が来る。

認めたくないけども、わたしはまた同じパターンに陥っている気がする。陽平と藤田君が わたしにとる態度はときどき似ている。本を読んでいるときに邪魔されたときの言葉とか、自分から歩調を合わせないところとか。

 要するに知寿は典型的な「飽きられてしまう女」のタイプなのだ。こういう主人公の場合、大抵は読者の方も感情移入がだんだん難しくなってくるものだが、 不思議と今回はそうならなかった。むしろ恋人の心の変化から別れまでのプロセスの描写があまりに見事なので、知寿が藤田君から別れを言い出された時は、僕 は読者として胸が締め付けられるような思いになった。

 実際、人間というものは、どんな相手とも何の摩擦もなくうまくやってここまで生きてきましたという人はいないからね。ささいな感情のすれ違いが気付かな い内にだんだん広がってきて、ある時その溝が否定しがたい事実となって自らの前に歴然と立ちはだかり、うろたえた経験などは、みんな多かれ少なかれ持って いる。時にはそれがずっとその後の人生に尾を引いてトラウマになっているということも少なくない。作者はそうした読者の心理を実に巧妙に突いてくる。だか ら読者はどんどん物語に引き込まれていくのだ。

 しかし、しかしだよ、この小説における知寿の姿は読者よりもはるかにクールなのだ。感情移入し過ぎた読者は、ひとり遠くまで行き過ぎて取り残されてしま うという不思議な現象がこの小説では起こるのだ。

わたしはまだ、藤田君に行ってほしくない。
いつの間にか、執着心が生まれている。このねばねばとした扱いづらい感情は、喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか。
わたしは、胸に強い思いがあって、毎日辛抱強く念じていれば、いずれ通じるものだろうと思っていた。
そういう訳でもないらしい。

 あのさあ、そんな呑気なこと言ってないで、泣くとかすがるとか、死んじゃうと言って大騒ぎするとか、もっと自分の全身を相手にぶつけてみるとかしたら! と、艶歌的情感の世代の僕なんかは思うんだよな。でも知寿はそれをしない。

いまどきの若者を取り巻く社会
 きっと彼等の世代はずっとそうした世界観に囲まれて生きてきたんだろう。みんな裸の自分をさらすのを恐れているというか、熱い想いを語ったり、なりふり 構わず一生懸命になるというのを避けている今の若者の社会。自分もそうなら、相手もそうなんだ。
 この温度のぬるさの中で生きていたら、きっと何を掴んだと思っても手がかりなく人生から滑り落ちていって、みんなみんな自信を喪失して虚無感に満たされ てしまっているのではないか。恋人に振られた方だけでなしに、振った方も同じように・・・。

 考えてみると、知寿の置かれている立場は心底みじめで救いようのない状態だ。だって恋人が二人とも付き合っていながら目の前で他の女の子に乗り換えてい くのを指をくわえて見ていたんだ。
 なんとなくうまくいって、なんとなくセックスをして、そしてなんとなく捨てられているんだ。だから僕達おじさんの読者の方が主人公を通り越してはるかに 「うっ!」ときているんだ。なんとかしてくれ!このじれったい気持ちを!
 男も男だ。一度は愛した女だろ。そんな簡単に別の女に乗り換えるなよ。そんな奴は僕達が若かった時にもいたけど、“最低の奴”という烙印を押されてい た。でも、現代ではどうやら彼等の世界ではそんな最低でもなくて、ごく普通のようじゃないか。そんな自己チューの奴ばっかり生きている社会だったら、その 中で自分も気を遣わないで勝手に生きられるからお気楽かというと、やっぱりそうではないだろう。やっぱりそうされたら傷つくだろう。そうやってお互い傷つ け合っているシビアで生きにくい社会ではないか。ねえ、若者達!なんとかしない?
「お前のやってることは最低だよ!」
と勇気をふるって親友に言って、喧嘩するなら喧嘩しなさいよ!

 知寿はその後、ある会社の正社員に採用され、そして新しい恋の始まりを感じている。しかしその相手には家庭がある。つまり不倫。彼女が幸せに辿り着く予 感はない。むしろこのようにして果てしなく不器用な人生が続いてゆくのことを予感させつつ終わるのだ。

 石原慎太郎氏が「都会のソリチュード」と評したこの小説は、もしかしたらシューベルトの「冬の旅」のようなものなのかも知れないな。あてのない孤独な 旅。あるいは別の表現方法による現代のカミュや太宰治なのかも知れない。さりげなく都会的なタッチであらわされているけれど、この小説の根底には、実は現 代の抱える大きな精神の闇が存在しているように思う。その闇の話を始めると長くなるので今日はやめておくけど、ひとつだけ言っておこう。

 僕たちの育った世代は戦後の経済成長期の真っ直中。すでに唯物史観が蔓延していて、宗教的なことや精神科学的なことを語るのはタブーという社会だった が、それでもその前の時代の価値観は一種の慣性の法則のように残っていて、みんなの潜在意識の中には存在し、かつ機能していたんだ。
 それは「誰も見ていないからといって悪いことすると、お天道様は見ているよ。」というような、素朴な道徳観やアニミズムではあったけどね。でも次の世代 にはもうそれもだんだん消えていってしまった。で、今は本当になんにもないんだな。
 加えて経済成長期には、みんなが努力をしさえすれば明日の世界が素晴らしい世界になると信じていたという事実がある。インフレが続いて暮らしにくい面も あったけど、同時に給料は上がり続けたし、ものはだんだん安くなってきた。また突然値上がりはするんだけど・・・・。
 インフレでは貯蓄よりも消費がもてはやされ、何よりも新しい夢のような製品がどんどん市場に出回ってくるんだもの。目の前にいつもおいしそうなニンジン がぶらさげられて、モチベーションが持ちやすかったんだ。みんなが未来にはもっと良い世界になるんだと希望を持っていたから、過酷に働いていても世の中が 明るかった。

 でもその後バブルがはじけた。そこで気がついてみたら、残っていたのは単なる物質至上主義だけで、手元に何も残っていなかった。唯物主義が蔓延し、今こ こで幸せになれなかったら、もうそれで終わりなんだ。みんなみんな世の中に幻滅し、失望してしまった。 その頃からだな、僕たちの世の中に闇が広がりだし たのは。本当はそんな簡単に失望なんかする必要もないし、してはいけなかったんだけどね。

 でも、それにしてもそれからまたしばらく経って今築き上がったこの現代社会はあまりにひど過ぎないかい?変な事件ばかり毎日起こるし、周りを見回しても 短絡的で自己チューの奴が多すぎるよ。個人だけでなく企業だって消費者のことをなんにも考えていないこの超無責任な社会。なんとかしなければいけないよ、 こんな状態。

では、どうしたら?
 「情けは人のためならず」という言葉がある。「下手に情けをかけたらかえってその人のためにならないから、かけない方がいいよ」という意味ではない。 「人に情けをかけることは、巡り巡って自分に還ってくる」ということだ。
 一人一人がちょっとずつちょっとずつ他人に親切で誠実だったら、それが積もり積もって、自分も人から親切で誠実に扱われる温かくて住み易い素晴らしい社 会が生まれるんだ。かつての経済成長期の希望はまやかしだったかも知れないけれど、こうした社会はそう簡単には幻滅や失望に変わらない。そしたらこんな 「都会のソリチュード」は存在しないのにな。

 そんなこと言ったって、この作者は「都会のソリチュード」を描くことで芥川賞を取ったんだから、彼女が芥川賞を取るような文学を書かないよう促すこんな 書評は、もしかしたらこの場に全くふさわしくないのかも知れない。艶歌的情感を持つおじさんの出る幕でもないのかも・・・・。
「およびでない?およびでない?あ、こりゃまた失礼いたしました。ガチョーン!」

ふ、古い~!どこまでもおよびでない、おじさん!!




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