淡々とワーキング・バースデイ

三澤洋史 

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淡々とワーキング・バースデイ
 3月3日は僕の誕生日。この原稿を書くにあたって一昨年と昨年の原稿を読んでみた。一昨年の2005年は、サントリー・ホールにおけるドイツ・レクィエムの演奏会を間近に控えて、講演会の真っ最中。しかし、この演奏会に標準を合わせてスケジュールを作っていたので、他の仕事をかなり抑えていたから、時間的には意外と余裕があった。そこで誕生日プレゼントと言って自分で勝手に外付けのシンセサイザー音源機器なんか買ってきて自宅で多重録音などして遊んでいたのを思い出す。その外付け音源機器は、今でもWISH(僕の最新鋭自作パソコン)と共に大活躍している。
 その年の誕生日は、五十歳という僕の人生にとって大きな節目だった。よくぞここまで生きてきましたって自分で自分を褒めていたっけ。

 一方、昨年すなわち2006年は、51年目というとても中途半端な誕生日。ハービー・ハンコックのCDを買ってきて、その演奏をヌルいなあと評価しながら、自分の演奏の変化と老いについて語っていたなあ。人間って若い頃から思っている事というのは基本的に変わらないんだけど、やはり経験を積むにつれて変わってくる部分はある。でも気をつけないと、その変化を自分の円熟や大成の証だなどと呑気に構えていたら、単に老いによる衰えだなんていうこともある。
 昨年自分は「老いは老いでしかない」と厳しく語っていたけれど本当なんだ。自分たち年配の演奏家が年をとっているだけで若い演奏家達よりも良い演奏をするなんて保証はどこにもないからね。

 でも同時に経験を積んだことによって手に入れた武器というのは確かにある。僕の場合は練習の仕方だ。与えられた時間をどう有効に使うかという事に関しては、若い頃は全然うまく出来なかった。特にオペラや長い宗教曲など練習する時の時間配分は、若い頃はあまりにも行き当たりばったりだった。今ではかなり綿密に計画を立てるんだ。エクセルを使って進行表を作ったりもする。この時間までにこの曲に辿り着いていなければあわてなければいけないとかね。
 それと本番までにどうやることがよりよい本番をするために最善の方法なのか分かってきた。若い頃は、なんとかしてオーケストラや合唱団のメンバーの信頼、出来れば賞賛まで勝ち得たいという気持ちばっかりで練習していたような気がする。でも今はそんなことには興味がない。時にはしつこく練習して嫌われてもいい。それよりも練習中に確実に成果を上げなければいけない。そのために最も大切な事は、曲に対するヴィジョンを漠然としてではなくかなり具体的に細部にわたって持つこと。

 今年の52回目の誕生日は、むしろ淡々と迎えた。「さまよえるオランダ人」の公演が進む中、「蝶々夫人」と「運命の力」の練習が入り乱れている。だからここ何年かの内、最も忙しい誕生日かも知れない。
 再演ものの練習は初演ものと比べて稽古期間が短いので大変だ。一番大変なのは、初演の時に関わっていなかった新人合唱団員達だ。みんな出来上がっているところに何も分からずに入っていくのだから、時には右往左往してしまう。
 それに加えて経験者達も結構忘れている。忘れているなら忘れたまんまでいてくれると、それはそれでいいのだけれど、よく彼等は練習中突然思い出したりするんだ。それで新人に向かって突発的に言う。
「いえ、そうじゃないわ。あなたの前任者の誰々ちゃんは、あたしの斜め前にいたんだわ。」
「え?はあ?」
再演演出の田尾下君や菅尾君が、新しく仕切り直しているところに、いきなり記憶が戻ってくる。記憶が戻ってみると、彼等にとってそれがリアリティとなるので、もう譲れなかったりする。
 大変だね。テツ&トモ(本当にそう呼ぶんだ。田尾下哲と菅尾友という名前だから。)。でも本当によくさばいている。彼等がいなかったら、この劇場はなんにも回っていかないや。今はテツが「運命の力」担当。トモが「蝶々夫人」担当で、本当に稽古は同時進行している。

 ということで、今年の3月3日は新国立劇場に缶詰になってワーキング・バースデイ。夜は家に帰ってシャンパンを開け、家内と二人でささやかにお誕生パーティー。娘がかわるがわる電話とメールでお祝いをくれた。

東京バロック・スコラーズ公開レッスン
 東京バロック・スコラーズ(TBS)では、3月4日(日)から公開レッスンが始まった。これは公開と言っても団内向けのもので、今日はバス・パートだけのレッスン。この後ソプラノ、テノールと続いていく。詳しくはホームページを見てね。
http://misawa-de-bach.com/index.html
 で、興味がある人は、団員でなくても来てもいいんだよ。僕が許します。ちなみに聴講はただです。そこでさらにこの団に興味を持ったらオーディションを受けて入団するという手もある。ただ、合唱初めてという人は多分受からないだろうな。バッハの難しいコロラトゥーラの部分が課題曲に出るからね。

 僕はTBSを単なる練習して演奏会をやるだけの合唱団から、もっと広い意味でのバッハの拠点となるべく考えているが、これはその計画の事実上の船出だ。今回は講師に春日保人(かすが やすと)さんを招いて、前半は小ミサ曲ト短調のキリエのバス・パートを数人のバス団員を使ってのレッスン。後半は個人レッスンでバッハのバス・アリアを見てもらった。
 成果は思いの外あったと僕は見ているが、問題はこれを団員達がどこまで自分たちの問題として捉えてくれるかだな。春日さんは、現在のバス団員が抱えている問題点に見事に触れてくれた。みんな息の流れが悪くて硬いんだ。実はこれはバスだけの問題ではない。
 ともすると合唱団員というのは、楽譜が正確に読めた時点でよしとしてしまう傾向があるが、実はそこからが表現の出発点なのだ。アマチュアがアマチュアを超えるために突き当たり、克服しなければならないポイントは、息の縦横な使い方と、それを武器としたフレキシブルな表現なのだ。

 アリアを使っての個人レッスンもとても効果的だ。合唱団員の中には、自分たちは合唱を歌いに来ているのにどうしてアリアを勉強しなくてはいけないのだ、と思う人もいるだろうが、レッスンを聴講してみれば一度で分かる。
 アリアというのは、我々はその作品に触れる時、必ずCDなどで聴いているものなのだ。そこではプロの歌い手が歌っているのに慣れているだろう。そうすると聴講している人の耳が肥えているものだから、相当上手な団員でも下手に聞こえるのだ。で、それを講師の先生が直す。そのことによって、自分たちがかかえている問題点が合唱部分を歌うよりもより明確になるというわけなのである。だから僕は合唱団員達にソロ曲を勉強することを奨める。

 僕はTBSの団員に、もっともっとフレキシブルで多様な表現力を求めているのである。音が正確に取れて、曲を覚えて演奏会して終わりというのでは、音楽の最もおいしい面がなにも見えていないことになるのだ。バッハのひとつの主題も、息の使い方ひとつでもっともっと多彩な表現力が出てくる。それをみんなと共有したいのだ。
 音楽は、低次元のところでは、歌えないところを歌えるようにするとか、間違った音を正しくするとかといった、マイナスからゼロへの道だけど、表現する本当の歓びは、ゼロから無限への道が開かれている。そして何でもアリの自由な世界でもある。その自由さを手に入れるために、厳しい練習があるのだ。
戯れせんとや生まれけん。
 音楽とは、とどのつまり“遊び”だからね。そして人生も“遊び”。神様がこの世を作ったのだって“お戯れ”なのかも知れない。

そんなわけで、東京バロック・スコラーズは、表現の海に船出したところです。

ショパン作曲ピアノ協奏曲第二番
 この記事は、本当はi-Pod Actuelleで書くべきなのだが、なかなか毎週の更新原稿を書きながらあらためて書く時間が取れないので、今日はこの欄に書くね。

 今僕のi-Podに入っている曲を列挙してみる。

バッハ作曲「小ミサ曲ト短調」が二種類 ミッシェル・コルボとヘレヴェッヘ
プーランク作曲、「聖フランシスコの四つの祈り」が二種類
チャーリー・パーカー・オン・ダイヤルからNO.3
モーツアルト作曲ヴァイオリン協奏曲第五番 グリュミオーの演奏
ショパン作曲ピアノ協奏曲第二番が二種類 
アシュケナージの若い頃の演奏とツィメルマンの弾き降りした演奏

 最後のモーツァルトとショパンは、四月、五月の演奏会の為の勉強を、メイン・プログラムの勉強が始まる前に周辺から固めようと勉強を始めたところだ。その中でも今日はショパンについて語ってみたい。
 六本木男声合唱団倶楽部モナコ演奏旅行では、5月3日に横山幸雄さんとショパンの協奏曲第二番をやり、後半が六団と一緒に、三枝成彰氏作曲カンタータ「天涯」を演奏する。5月5日は、前半で中丸三千繪さんがオペラ・アリアを歌い、後半が三枝「レクィエム」だ。
 「天涯」と「レクィエム」の勉強に取りかかってしまうと、僕の場合は、もうそればっかりになってしまうので、その前にショパンに軽いジャブを入れようと、スコアを見始めた。しかし、あらためてこの曲に触れてみると、その素晴らしさにすっかり参ってしまって、予定をオーバーして、ここのところショパン漬けの毎日が続いている。

 ピアノ協奏曲第二番は、なんといってもピアノ独奏部分に精通しないと始まらないので、僕はまずピアノの練習から始めた。む、難しい!ピアニストって凄いな。こんなのを聴衆の前で暗譜で弾くんだろ。考えられないな。
 で、僕がムキになって細かいパッセージを反復練習していると、妻がベランダで洗濯物を干すために僕の部屋を通りかかった。
「あなたがソロするわけじゃないのに、なんでそんなに一生懸命練習しているの?」
「馬鹿だなあ。ショパンのコンチェルトやるんだからピアニストの心を理解しなくちゃ。」
「でも聞いてると、ピアニストの心を理解するまでの道は果てしないわね。」
「ほっといてよ!」

 この協奏曲をショパンはわずか19歳の時に作曲したというから驚きだ。彼はその作風をベルカント・オペラの巨匠ベッリーニから影響を受けたというが、よく分かるな。ショパンの曲の構造というのは実は簡単なのだ。つまり、メロディーとそれを支える伴奏が基本なのだ。美しいメロディーを作り出し、これを発展させる。論理ではなく、あくまで感性を指針として。
 だから第一楽章がソナタ形式と言っても、展開部はほとんど自由にファンタジックに発展しているに過ぎない。同時にピアノ技巧を極限まで追求している。オーケストレーションが弱いとかよく言われるが、僕はそうは思わない。オケの書き方は悪くないし、よく鳴っている。ただ興味の中心があくまでピアノなので、オケの部分に欲がないのだ。だからオケをちっとも活躍させてくれない。
 第一楽章なども、独奏ピアノが出てくるまでの主題提示部はそれなりに長いんだけど、一度ソロが始まってしまうと、あとは弦楽器の長い音符がソロに追従するばかりで、管弦楽が独立して自らを主張する場面は極端に少ない。結尾もソロが終了してしまうと、後はもう用はないと言わんばかりにあっさり終わってしまう。
 対位法やシンフォニックな立体的構築性は望むべくもない。この辺が、同じようにピアニストとして出発しピアノ協奏曲を書き、後に大規模な管弦楽作品に向かっていったシューマンと決定的に違うところだ。もっとも、シューマンもピアノ協奏曲では別にそんなに堅固な構築性を披露しているわけではないけど。むしろシューマン場合、ピアノ・パートでの屈折した対位法的書法が、ショパンの“イニシアティブを取るメロディーと追従する伴奏”という明解な手法と対比されるところだな。

 僕がこう言うと、読者はとても飛躍を感じるだろうが、今僕のi-Podには、このピアノ協奏曲と共に、モダン・ジャズの創始者の一人である偉大なるアルト・サックス奏者チャーリー・パーカーの演奏が入っている。ショパンを聴いた後、たいてい僕はパーカーの演奏を聴きたくなる。パーカーのアドリブとショパンの装飾音とはとても共通性があるからなのだ。いや、装飾音だけでなくショパンの速いパッセージの作り方は、まさにパーカーのアドリブの世界だ。ひとつの和音からどのように美しいメロディーを紡ぎ出すか。ショパンは譜面に書き、パーカーは即興演奏の中でそれを為し得たが、意外とこの二人の見ていた世界は近かったと僕は確信している。
 ジャズは、音楽のある一面のみを拡大して発展させたものだ。そのひとつに和声からメロディーを紡ぎ出す行為があるとしたら、伴奏と美しいメロディで成り立っているショパンの音楽は、まさに美しいアドリブをするためのガイドたり得る。それにしても、ショパンを聴きながらこんなことを考えている僕って、やっぱり変?

 僕が何故ピアノ部分を何度も練習していたかというと、ショパンの“拍から離れた装飾音”に慣れないと追いかけるのが大変だからだ。待っている内に先に行かれてしまって、オットットットと追いかけるのも格好悪いし、反対に見切り発車して指揮者だけが先に入ってしまうのももっと格好悪い。オケのメンバーがソロを聴いてて、ピアノに合わせて正しく入って、指揮者だけが独りぼっち取り残されなんてなったら最低だね。だから聴衆の立場からは、ただ美しさに酔っていさえすればいいんだけれど、指揮者というのはなかなか苦労が多いんだよ。

 この協奏曲の素晴らしさは、なんといっても第二楽章の美しさにつきるだろう。ショパンは、その時恋いこがれていた初恋の人コンスタンツィア・グラドコフスカへの想いを曲に託したというが、僕はショパンの凄さというのは、こうした個人的感情を他人が共感する普遍的感情に高めたところにあると思う。ショパンの深い憂愁は、実は万人が心の奥底で抱えているメランコリー。それを彼は代弁して表現してくれた。だからショパンの音楽には単なるセンチメンタリズムを超えたリアリズムがあるのだ。まあ、それにしてもセンチメンタルだけど。
 ここでも装飾音が縦横に活躍する。本当にこの曲は装飾音が多いなあ。でもきれいだなあ。メランコニックだなあ。いわゆるひとつのロマン派に咲いた大輪の花だなあ。中間部の弦楽器のトレモロに乗った両手のユニゾンも、緊張感を孕んでとても独創的だと思う。

 第三楽章は、最初始まった時はその優雅な主題によって速めのワルツかなと思わせるが、しだいに民族色を高めていって、ああ、これはマズルカだったのかと気付かされる。その後マズルカからも離れ、クラコヴィアクという舞曲が持つ独特の音型とリズムとに支配される。これはまだパリの音楽ではなくポーランドの血なのだ。
 ヘ短調の曲が、同主調であるヘ長調の上につけられたフェルマータによって一度止まり、ホルンのファンファーレの合図と共にヘ長調のコーダに突入する。この明るいコーダに、それまでの曲調からの違和感を感じ、蛇足だと言っている学者もいるようだが、あまりににも初恋とか失恋とかいうプライベートな事柄に囚われ過ぎた結果ではないかと僕には思われる。曲はあくまで曲自身の持つ生命によって評価されるべきだ。僕には、最後に解き放たれ、自由な世界に飛翔していく作曲家の魂が見えるよ。

 i-Podには最初、アシュケナージが若い頃デイヴィッド・ジンマン指揮のロンドン交響楽団と共演したものが入っていた。僕が思うにこれはアシュケナージの数ある演奏の中でも最も素晴らしいものに属する。完璧なテクニックとそのリリシズム。特に細部の感情に溺れすぎないバランス感覚が素晴らしい。彼が後に指揮者になるのもうなずける。
 それに比べると、次に買ったポーランド・フェスティバル・オーケストラを弾き振りしたクリスティアン・ツィメルマンの演奏は、期待していただけに正直言って失望した。日本語版ジャケットでの絶賛評がいけない。これを聴いてしまったらもう他の演奏は聴けないだって。もう、なんとかしてくれえ。ああいう客観性を欠いた批評家を批評してくれる批評家っていないかねえ。

 まず最初のオーケストラによる主題提示部がいけない。何がいけないかというと、普通指揮者はソリストを浮き立たせるために、提示部はわざと素っ気なくやるものだ。それがソリストが指揮者でもある場合、ピアノ・ソロを演奏するのと同じ気持ちでテンポを動かしたりダイナミックをいじったりしてゴテゴテにやるものだから、ピアノが入ってくる前にすでに聴いている方に食傷気味にさせてしまっている。
 こういうところがプロじゃないんだ。ツィメルマンは要するにピアニストでありながら、自分のピアノを最も良く聴いてもらうための努力を放棄してしまっている。間奏や後奏のオケの処理も同様。
 とにかくピアノもオケもどこもかしこもテンポを動かし過ぎ、変な表情をつけ過ぎで、聴衆は作品にのめり込むどころかすっかり冷めてしまう。まあ、僕のように勉強の材料として使う場合、超オーソドックスなアシュケナージと極端なツィメルマンの両方を持っていれば、他の全ての演奏は大体この中に入っているだろうということで、かえって便利だけどね。

 ただツィメルマンのピアニストとしての腕に関して言えば、これは完全に切り離して考えなければいけない。つまり、実に素晴らしいのひとことにつきるのだよ。特に第三楽章の真ん中あたりで左手がメロディーを弾くところの右手の処理なんて、まさに超絶技巧だ。 アシュケナージの場合、左手のメロディーを強調し過ぎて、この右手の存在感が薄くなってしまっているのが残念だ。
 このCD(Deutsche Grammophon289 459 684-2)は、ピアノ協奏曲第一番と第二番ということで売り出されているんだけど、二枚組でそれぞれ一曲ずつ一枚のCDに収まっている。そのため、音質はとても良い。特にピアノ・ソロの音はなかなかここまできれいに録れない。
 さあ、そろそろこの曲の勉強を一度切り上げて、メイン・ディッシュに取りかからなくちゃ。



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© HIROFUMI MISAWA