21世紀のバッハ本当の船出

三澤洋史 

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21世紀のバッハ本当の船出
 今週末は東京バロック・スコラーズ主催の講演会だ。礒山雅(いそやま ただし)氏を招いて、「バッハとパロディ」について語ってもらう。第二部は、「三澤の爆弾対談、礒山さんにいっぺんきいてみたかった!」と題して、礒山さんからいろいろ聞き出す楽しい対談を予定している。

 いよいよ始まる!こう言うのは、まだみんな知らないだろうけど、僕の「本当の活動」が今週末から始まるのだ。東京バロック・スコラーズというと、まだ大多数の人達は(合唱団のメンバーでさえ)ただの合唱団だと思っているだろう。でも、それでは僕にとって、たとえば浜松バッハ研究会に呼ばれていってバッハを指揮するのと何ら変わらない。別に僕が立ち上げる必要もないのだ。
 この団体は、まさに「21世紀のバッハ」、すなわち新しいバッハとの関わりを模索し求める団体なのであって、おそらく十年後には最もユニークな存在となって我が国の中で位置づけられるようになると確信している。

 僕は、東京バロック・スコラーズを拠点として、広い意味での我が国におけるバッハのセンターを作りたいと思っている。そのためには、ここに沢山の優秀な人達に出入りしてもらい、いろいろな交流を図りたいのだ。別に学会を開くわけでも何かを所有するわけでもないが、要するにバッハを軸として流通経路を造りたいと言ったら分かってもらえるかな。

 たとえば、講演会にしても、僕自身がいろんなところに講演に呼ばれていくし、元来何かを調べたり話したりするのは好きなので、他人を呼ばなくてもやろうと思えば自分で出来るのだよ。「バッハとパロディ」というテーマで講師として何かを話すことは勿論出来るさ。
 でも、それだからこそ、僕ではなくもっと研究者としてその道を究めている礒山氏のような人に語ってもらい、さらにその話を受けてまさに僕でなければ出来ない突っ込みを爆弾対談でかましながら「バッハとパロディ」というテーマに肉迫する。これこそ知的遊戯の極みではないか。いや、自己満足ではなく、普通に来たお客様が面白くてためになったと喜んでくれる、これまでにない講演会をもくろんでいるのだよ。こういうところが「21世紀のバッハ」なんだ。

 こんな風に、何をやってもこの団体ではないと出来ないユニークな活動を積み重ねていく。「バッハとパロディ」というテーマは、今年の9月16日の演奏会で完結させるが、来年は、2008年5月25日杉並公会堂で行われる、カンタータ4番、106番、131番という初期のカンタータを集めた演奏会「若き日のバッハDer Junge Bach」に先駆けて、やはり同じテーマによる講演会を企画している。
 この講演会では今、飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を遂げている加藤浩子さんに来ていただこうと思っている。加藤さんからは基本的には快諾をいただいているが、まだ僕と彼女の双方のスケジュールが詰められていないし、会場も決まっていないので日時は未定。
 コレギウム・ジャパンの鈴木雅明氏との対談の本などで話題となっている加藤さんのキャラクターを生かして、今度は全編対談形式の講演会にしたいとメールを送ったら、「面白そうですね、是非やりましょう。」という返事が返ってきた。
 勿論、行き当たりばったりではなく、綿密に計画を練って台本のようなものも書き、実質的にきちんとためになるような対談にしなければならない。でも加藤さんとのコラボレーションならば、きっと良いものが出来ると確信している。ただ偉い人を呼んでお任せの講演会とはひと味もふた味も違うのだよ。

 どうですか、みなさん!僕のやりたいことがだんだん分かってきたかな?つまり指揮者として作品を演奏するという行為も含めて、僕の中にいつもあるのは、「良い意味でのエンターテイメント」なのだ。
 芸術は孤高の極みであるけれど、同時に聴衆を忘れた芸術は存在しない。バッハのフーガはその全ての構造を一回聴いただけでは分からないだろう。でもバッハは、それでもそれを聴衆に分かってもらいたいと思って書いている。だったら、演奏と同時にその構造を聴衆に解明することを演奏者自らがやってもいいと思う。演奏者は、ただ黙って演奏だけしていればいいなんていうのはナンセンス。僕は、聴衆がバッハへの理解に少しでも近づく為だったら、プライドを捨ててなんでもする。って、ゆーか、もともとあんまりプライドないんだけど・・・。それよりも、それだけバッハが好きなのだ。だからひとりでも多くの人にバッハの音楽の素晴らしさに目覚めて欲しいのだ。

 でも、そんなことばかりしていたら、
「あの団体、いろんなことするくせに肝心の演奏が駄目なんだ。」
と人に言われてしまうかも知れない。だから東京バロック・スコラーズは、演奏面ではトップ・クラスのクォリティを目指すのだよ。演奏面でも我が国のバッハ演奏のセンターとなるようにね。
 僕は、オペラの世界に長く生きているから、日々いろんな指揮者と接しているだろう。通常指揮者というものはお山の大将で、自分の解釈以外認めないんだけど、僕の経験から、自分とは違うけど素晴らしいなと思える演奏に数多く接している。だから他の指揮者よりきっと他人に対して寛容なんだと思う。
 バッハに対してもそうだ。僕は、自分のバッハ演奏における揺るぎない方法論と美学を持っているが、同時にこれが絶対とも思っていない。たとえば自分は絶対そういう演奏はしないが、カラヤン指揮のベルリン・フィルによる「マタイ受難曲」の演奏だって嫌いではない。コロラトゥーラの演奏は、僕の場合全て合唱団員に切って演奏させるが、レガートでつなげる演奏があってもいいと思っている。同じ合唱団員が、僕のところではスタッカートで歌い、よその団体ではレガートで歌っていてもいっこうに構わない。僕のところで混ざっちゃったら困るけど。
 だから、将来的には、異なる方法論を持つ複数の団体とジョイント・コンサートを持ち、その中でたとえばそれぞれの指導者が対立した立場からそれぞれの美学を主張する対談コーナーを設けて、その後演奏に入り、聴衆にどちらがより好ましいか判断してもらうなんていう演奏会も企画したい。こうした企画のホスト役を務めるとしたら、自分自身にそうとう自信がないと出来ないだろう。だから僕自身も東京バロック・スコラーズという団体も力を蓄えるんだ。本音を言ったら、僕の演奏理論と東京バロック・スコラーズの演奏が一番良かったと聴衆に思って欲しいが、そんなこと言ったら、「そもそもそういう風に持って行くためのお膳立てかい。」と思われて、誰も参加してくれないから、そんなことは決して言いません。みなさんも他の団体で言っちゃ駄目だよ。

 そういったもろもろのワイドな活動の記念すべき船出が今度の土曜日だ。皆さん、150席で満員になる会場なので、あまり残席がありませんが、興味のある方はまだ間に合いますから、今からでも是非申し込んでください。なお当日急に来ても満席が予想されるので必ず事前に申し込んでください。申し込み、お問い合わせは、
xxxxxxxx@misawa-de-bach.com
東京バロック・スコラーズ事務局
TEL. xxx-xxxx-xxxx
です。
絶対に楽しい講演会にします。
(事務局注: xxxx表示は演奏会終了のため)

大切なものは目には見えない
 ちょっとわけがあって、ここのところ「星の王子様」に関わっている。といっても僕がこの作品をミュージカル化するわけではないからね。そのわけというのは、いずれ時期が来たら話します。
 それで、この作品のイタリア語のテキストと向かい合っているんだけど、やはり原文を参照しなければなと思ってフランス語の本を本棚から取り出した。僕の家にはこの他にドイツ語と英語の本がある。長らく定番になっていた内藤濯訳の日本語版は、どこか奥の方にしまい込んでしまったみたいで出てこないが、原文で読めるから探すのをやめた。

 「星の王子様」のフランス語は難しくはない。初級フランス語の文法的知識があれば、辞書を引きながらどんどん読める。でもところどころ落とし穴があって、もし翻訳して日本語に直すとしたら、そう簡単でもない。
 岩波少年文庫の内藤濯訳の日本語版は、半世紀ものあまり我が国における独占的出版権を所有していたが、2005年6月に期限が切れたということで、その後雨後の竹の子のようにおびただしい数の新訳が出版された。本屋に行って、
「うわあ、これでは一般の読者は何を買っていいかわからないや。」
と思っていたら、その横に「憂い顔の『星の王子様』」(加藤晴久著 書肆心水)という本があった。パラパラとめくって見ると、現在出版されている15もの翻訳を徹底的に調べて、これはよし、これは駄目とバッサリ切っている。
  元来の野次馬根性から即買い求め、電車の中などで夢中になって読んだ。あまり夢中になったので、東京バロック・スコラーズの練習後なんか、なんと国立を通り過ぎて立川も通り越して、気がついたら日野駅まで来てしまった。

 ただ、この本はフランス語に特別興味がある人以外にはお奨めしない。何故なら、この著者はそれぞれの訳の悪口ばかり書いてあって、では誰の訳が一番良いとかいう結論が出ているわけでもないし、だったらこの人が自分で訳せばどうなるのという、究極的翻訳も出ているわけでないから、この本を読んでも一般読者には全然ためにならないのだ。まあ、僕には面白かったけどね。
 よく分かったことは、やはり原文を読むに限るねということだ。当たり前だい、でも普通の人はそれが出来ないから翻訳に頼るのにね。昔、この内藤濯訳の「星の王子様」を読んで、言いたいことは分かるのだが、なんとなくピンとこないとなあと思った人は、僕だけでなく少なからずいるに違いない。原書と照らし合わせてみると、内藤訳も独占権を持っていた割には適当に訳している部分があったのだ。でも当時は、この訳しかなかったのだから独占権というのも結構罪作りかも知れない。

On ne voit bien qu'avec le coeur.
L'essentiel est invisible pour les yeux.
この二つの言葉は好きな言葉だ。
ものごとは心でしかよく見えない。
大切なことは目には見えないんだ。
 「星の王子様」に関しては、まだまだ沢山言いたいことがある。この本は、つまりは僕がミュージカル「ナディーヌ」で訴えていた、かけがえのない出遭いという問題に触れている。それが最もはっきり出ているのが、きつねとの出遭いだ。ここで王子はapprivoiser(飼い慣らす)という言葉をきつねから教わる。つまり飼い慣らす(絆を作る)ことによって、互いは互いをどこにでもいるような人ではなく世界でたったひとつのかけがえのない存在として認識するということなのだ。
 この作品でサン・テグジュペリが本当に言いたかった真実というのはとても深いんだ。それにこの作者は、作品にも現れているけど、めちゃめちゃやさしい人だったんだね。もっと原文を良く読み込んでから、いずれまた続きを書きます。出来たら、お奨めの新訳を僕なりに出してみますね。



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