スペース・トゥーランドット開幕前夜

三澤洋史 

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歳には勝てない
 やっぱし歳には勝てない。今日7月22日は、「スペース・トゥーランドット」の練習がもし休みになったら、浜松バッハ研究会の練習に行くことになっていた。しかし9日月曜日から14日土曜日まで連日「蝶々夫人」を指揮したり、その次の日に新町歌劇団主催の演奏会をしたり、休む間もなく「スペース・トゥーランドット」の練習に明け暮れたりで疲労が重なり、このままいくと28日から始まる「スペース・トゥーランドット」本番まで体力が持つか心配だったので、今日は浜松に行くのをやめて一日静養することにした。

 そういえば・・・と思ってカレンダーをめくってみた。なんと最後にとった休日は4月16日にまでさかのぼった。5月9日に「薔薇の騎士」立ち稽古で、ソリストの立ち稽古に演出家が集中するため合唱がトリになってOFFといえばOFFになったのだが、この日はメシアン「我らが主イエス・キリストの変容」合唱音楽練習初日の前日だったので、一日夢中でスコアの勉強に明け暮れ、とても休日と呼べるものではなかった。まあ、4月16日も六本木男声合唱団倶楽部のモナコ公演の勉強をしていたんだけどね。

 休日と言っても、本当に音楽から離れて何もしなかった休日は、オーバーではなくてお正月のノロ・ウィルスに倒れている間だけだったかも知れない。でもその直後は。ノロ・ウィルスにやられたお陰で「西部の娘」の勉強が間に合わなくて、まだ体力が回復しきれていないのにもかかわらず、稽古初日に向けて必死で勉強した覚えがある。
 記憶を辿るために自分のホームページの「今日この頃」を開けたら、3月16日に勝沼に行ったとあるな。やっぱり割り切ってどこかに出掛けないと駄目だな。でもこの日も帰ってきてやっぱりスコアを開いて・・・・・。

 こんな風に、好きじゃないととても出来ない職業だね。って、ゆーか、指揮者なんて、与えられたことをやってるんじゃ話にならない。どんなに物知りだっていいし、どんなに優れていたっていい。果てがないんだ。おまけに僕は作曲はするし、台本は書くし、誰にも頼まれなくったって勝手に創作活動をしているんだから、休む間なんてあるわけがないんだ。
 もう若くないんだから、あまり無理しないでゆったりとスケジュールを組まないと駄目だなとは思っているんだ。がむしゃらに働いた若い時と違って、ひとつひとつの仕事のレベルに対する周りからの期待度が違うからね。丁寧に仕事が出来る条件を整えなければ。

 それでね、考えました。来週7月29日の「今日この頃」更新の後、3週間ほど夏休みをとります。このホームページの更新も3週間お休みします。
 でもその間にどこか避暑地に行って、
「極楽、極楽!」
と過ごすわけではなく、いろいろ普段出来ないことをやるのだ。
 ひとつは「ジークフリートの冒険」ウィーン国立歌劇場版編曲を仕上げること。もうひとつは東京バロック・スコラーズに投稿する論文を二つほど仕上げたいこと。このホームページの予稿集のコーナーにも載せると思いますけどね。まあ、更新原稿を書きながら出来なくはないんだけど、やはり集中したいのだ。当初はこの時期バイロイトに遊びに行こうと思っていたのだけれど、そんなことしていたら「ジークフリートの冒険」は永久に仕上がらないからね。
 なんだ、夏休みじゃないじゃないか、という声があっちこっちから聞こえてくる気がするね。そうだね。どこまでいっても僕は貧乏性だね。

最後まで駆け抜けたい
 今日みたいに過労が続いたら勿論休むけれど、基本的に僕には長い休息や「老後」というものは必要ない。僕は、自分が人生を駆け抜けた後で天国で休息が取れればいいと思っている。バッハは、
「この世の労苦は報われず、つらいことのみ多いが、彼の地においては全て隠れたものは明るみに出、全ての努力は報われる。」
と本気で信じていたが、僕も全く同じ。人生は最後の瞬間までアクティブに駆け抜けるもの。進歩し続けるもの。だから僕は、倒れる時も前を向いたままバタッと倒れたい。

 こう思うのはやはり神っていうか来世の存在を信じているからだろうな。人生がこの世で終わりだとは思っていないからだろうな。そうさ、当たり前じゃないか。この世が単なる偶然の寄せ集めのわけないじゃないか。
「めぐり逢い」「かけがえのない存在」、こうした言葉を聞くと我々の心の中で何かが揺さぶられるだろう。我々は本当は知っているのさ。ただ忘れているだけなんだ。遠い生まれる前の記憶を。我々がどこから来て、そしてどこに帰って行くのかを。

 おっとっと!夏休みの話が脱線して話が大仰になってきたね。ということで、夏休み後は少し予稿集のコーナーが賑やかになるかも知れません。

 

「スペース・トゥーランドット」開幕前夜
 7月23日月曜日は、オケ練習及びオケ合わせ。24日、25日はピアノ舞台稽古。26日はオケ付舞台稽古。27日はゲネプロ。そしていよいよ28日土曜日から本番だ。
 今年の「スペース・トゥーランドット」は、大きな路線変更はないものの、相当パワー・アップしているぞお!公演に来る人は楽しみにしていてね。昨年来た人もきっとまた新たに満足すること請け合いです。

 「ジークフリートの冒険」の時から言われていたことだが、この子供オペラの企画を「ミュージカル的だ」と言って批判する人が少なくない。しかしこの批判は間違っている。僕達スタッフが持っている“危機感”というものは、今のオペラファンのはるか先を行っている。

 写実的な舞台の中で有名歌手が前を向いて両手を広げながらアリアを歌い始めると、ドラマの流れが止まりみんなが声に集中する。ハイBが決まるとブラボーのかけ声とともに拍手が起こり、これがひとしきり続くと再び劇にもどっていく。こうしたオペラの楽しみ方を僕は否定する者ではない。しかしこうしたもののみがオペラであると思っている人ばかりでオペラファンが構成されていたら、オペラに未来はない。

 現代では、最もクリエイティブで才能ある人達は一体どこに行っているのだろう?必ずしもクラシック音楽やオペラの分野ではないだろう。映画であったり、ゲームの分野であったりするかもしれない。あるいは全く別の分野かも知れない。何故か?答えは簡単である。オペラはクリエイティブな者にとってはつまらないからである。
 次々と生まれてくる現代の新作オペラ作品もそうである。はっきりいってつまらないのである。芸術作品だから見るべしと言ってみても仕方ない。ヴェルディやプッチーニのオペラは面白いから当時の観客が足繁く通っていたのであり、ワーグナーの楽劇にはカタルシスがあった。
 ワーグナー、ヴェルディ、プッチーニなどが(方法論は違うとはいえ)追求していたのは劇と音楽との融合。何故芝居ではなく音楽がついているのか?何故コンサートではなく演技がついているのか?こうしたことを追求していったとき、もしオペラよりもミュージカルの方が進んでいたならば、我々は謙虚にそれを学ばなければならない。ミュージカルをオペラより安易な道と思っている人がいたらとんでもない!なぜあれだけの人達が惹きつけられているのか。そこにはれっきとした理由があるのだ。
 僕は80年代後半から90年代前半にかけて沢山ミュージカルに関わり、数々のショックを受けた。
「ああ、オペラがクラシック音楽あるいは芸術音楽という概念の上にあぐらをかいている内に、ミュージカルにこんなにも先を越されているんだなあ。」
との思いを強くしたのだ。

 僕がオペラを指揮する時は、ミュージカルから得た方法論をかなり使う。僕は指揮する時、ドラマの流れを追い、ドラマを運んでいくことを第一に考える。筋の本題に入る前はなるべくトントンとテンポ感よく音楽を運んでいく。歌手に対しては、僕からでるテンポ・ルバートなどがまるで空気のように感じられ、自由に演技に専念出来るようなフィールド作りを心がける。そのためにある意味自分の存在を消す。僕の指揮にではなく、ドラマに聴衆が惹きつけられたら公演は成功である。
 また僕は自分の劇作品に、現代の暗い題材の説得力のないオペラへのアンチテーゼとしてミュージカルと名付けることを厭わなかった。僕のミュージカルには必ず聴衆が泣けるところがある。必ず、
「来て良かった。」
と思ってもらう作品以外は作らないのだ。

 「スペース・トゥーランドット」もそうした僕の創作活動の延長線上にある。この作品には全編コンピューター・グラフィックが使われている。その映像と音楽をシンクロさせる為に、曲によっては僕もヘッドフォンを使用し、クリック音に従って演奏する。沢山の打楽器を使用し、シンセサイザー音かと思ったらヴィブラフォンだったり、打楽器かと思っていたらシンセ音だったりする紛らわしさが面白い。トランペット、トロンボーンのミュート音は、現在の我々にとっても新鮮だ。
 ひとつひとつの場面を作っていく際にも、リアリズムを追求するところは徹底的に追求するし、ファンタジーを追求するところは、
「んな馬鹿な!」
というギリギリのところまで作り込んでいく。
 立ち稽古で演出を担当しているのは田尾下哲君だが、僕も彼に忌憚なく意見を述べるし、彼も僕に、
「ここセリフを足したんだけど、もう少し音楽伸びませんか?」
などと言ってくる。一緒に稽古に携わっているから、僕には彼が言う前から何を言いたいのかが分かる。こういうのがクリエイティブな現場というのだ。

 こうした様々な要素が集合し、この作品自体が“次代を担う作品”となっている。この新しさを子供達に享受してもらいたいのだ。なにより作っている我々自身がめちゃめちゃ面白いのだ。
 僕の曲の組み替えや編曲をプッチーニの音楽への冒涜と思っている人はいるだろうな。そんなことは百も承知だ。でもそんなこといってるから創造的な活動が生まれないのだ。既成概念を壊さなければ新しいものは生まれないんだ。
「ジークフリートの冒険」でもさんざんワーグナーへの冒涜だと言われた。でも最も保守的と言われるウーィーン国立歌劇場がこの作品を取り上げたことだけは頭に入れておいて欲しいな。

 最も大切なことは、僕が全ての自分の作品の中で訴えていること。すなわち「愛の尊さ」を表現すること。現代では、愛を直球で投げる芸術家がいなさすぎる。だから社会が荒廃しているのだ。現代オペラの扱っているテーマはどうだ。こんなの子供に見せられるかってんだ。いまさら愛を語るなんて恥ずかしいよ。僕も恥ずかしいよ。でも人間が人間であることの根本だ。誰かが語るだろうと思っている内に誰も語らなくなってしまったというのが現代の状況だ。

というわけで僕が真っ正面から愛を語る。笑う奴は笑え!



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