美容院に行く時間

三澤洋史 

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美容院に行く時間
 やっと身辺に余裕が出てきた。今でも毎日勿論それなりにいろいろあって忙しいのだけれど、どうしてもやり遂げなければ明日はないと信じて頑張るべきものは、とりあえず過ぎた。考えてみると、六本木男声合唱団倶楽部を連れてモナコに行ったあたりから、ずっと走り続けていたような気がする。
 だから、今週はやや気が抜けてしまって、
「仕事休みたいなあ。温泉でも行きたいなあ。」
と思っていた。18日の火曜日は休みだったんだけど、21日金曜日に、ひとつ講演会を抱えていて、その勉強に費やしてしまった。どこまでいっても貧乏性で、休みがない。

 それでも気持ちはだいぶ楽になった。「ジークフリートの冒険」のアレンジが終わった頃は、僕はささやかな三つの望みを持っていた。ひとつは、腕時計のバンドを取り替える事。ふたつめは、目の中に入ってくるほど伸びた髪を切るため美容院に行く事。みっつめは、メガネを取り替える事。
 こんなわずかな時間もないほど、僕は忙しかったのだ。「ジークフリートの冒険」のスコアとパート譜は無事ウィーン国立歌劇場に送ったものの、そのために中断していた締め切りをとっくに過ぎた原稿や、メールの返事や、打ち合わせや、様々なことを順繰りに行っていたのだから。

暗譜
 それで今だから言うけれど、僕が本当に心配していた事は、16日の東京バロック・スコラーズの演奏会の、暗譜とレクチャー原稿が間に合うかという事だった。別に暗譜なんかしなくても誰からも文句を言われるわけでもないし、暗譜をしたからいい演奏が出来るわけでもない。

 でも、僕の場合、やっぱり暗譜をすると違う。何が違うかというと、そこまで突っ込んで勉強すると、本番中に“降りてくるもの”が違うのだ。これは、そういうものを信じない人にとっては、全く何言ってるかチンプンカンプンだろうし、その降りてくるというものが、具体的にどんな感じで、何故降りてきていると感じるかなどということは、決して話しても他人に分かってもらえるものではない。

 まさか、こんな凡人の僕などにバッハ自身が降りてくれるわけもないだろうが、その作品に関わる深さで、降りてくるものの質というか高さが明らかに違うのだ。それは作品によっても違うが、特にバッハでは、おそらくバッハという人の霊的な高さがとてつもないので、取り組み方の深さで降りてくるものの質の違いが顕著なのだ。
 だから僕はバッハを暗譜する。暗譜して少しでもバッハに近づきたいと思う。でも、本当に今回はしんどかったなあ。絶対時間が取れなかったから、今回はかなりi-Podに頼ったよ。僕は元来、自分でピアノを弾いたり、あるいは譜面を黙って読みながら、「うーん!」という感じで暗譜するんだけど、その時間が満足に取れなかったので、まず耳から音楽を入れた。
 普通の人はこうして覚えるのだろう。でもこれは指揮者としては邪道なんだ。何故なら自分なりのオリジナリティを持つ前に、聴いた演奏に影響されてしまうだろう。指揮者はあくまで譜面から自分の感じた音楽を構築しなければならない。

 さて、もし16日の演奏会で、僕の演奏を聴いて暖かさを感じる人がいたら、その人はきっと霊感の強い人か、とても感受性の鋭い人だと思う。何故なら、僕の中に最高のものが降りてきている時というのは、自分の全身が暖かいもので包まれているような気がするからだ。僕の場合、それはほとんどバッハの時にしか起こらないが、16日の演奏会ではまさにその暖かさが僕を包んでいたのだ。

やっと人間らしい生活
 さて、まず腕時計のバンドが換わり、それから国立の行きつけのFEELという美容院に行ってさっぱりし、それから休日の18日火曜日にやっと新しいメガネが買えた。前のメガネは、意図的に弱くしていたし、それから度が進んでいたので、新しいメガネをかけた時は、周り中のものが見え過ぎて、恥ずかしくなってしまったほどだ。
 でも、あれだね。目が見えるようになると、頭までシャキッとした感じがするね。

杏奈とSkype
 我が家で今流行っているものといえば、な~んだ?それはね、スカイプです。実は、前々からノヴォラツスキー新国立劇場前芸術監督に、
「お前、外国にいる人に長電話したいならSkypeに限るぞ。なんてったってタダだからな。」と言われていたのだ。でも双方がパソコンの前に座ってヘッドセットを着けて、なんてうっとうしいから、そのままにしておいた。

 ところが長女志保や次女杏奈が夏にパリから戻ってきた時に、二人とも口を揃えて、
「スカイプのテレビ電話いいよ!」
というので、杏奈がパリに帰った後で試しにやってみたら、なかなか面白いんだ!それで以前Via Voiceをやるので買ったヘッドセットの代わりに、僕は卓上マイクを買ってきた。杏奈から来る音声はスピーカーから流して、家内と三人で自由に家族団らんの会話が出来るのだ。

 先日、こちらがとても暑い夜に杏奈から電話がかかってきた。
「パパ、スカイプやろうよ。」
「よしきた!」
するとパソコンのディスプレイに現れた杏奈は毛布を肩からかけている。
「え?何やってんの?」
「寒いんだよ、パリは今。まだ9月なのでセントラルヒーティングが入らないので、こうやって寒さをしのいでるんだよ。」
「へええ。こっちは暑くて9月後半だっていうのにクーラーかけてるよ。」
「ウッソー!」
こんなやりとりが出来るんだ。

 WEBカメラは、杏奈のも僕のも僕が買ったものだ。そんな高くない製品だけど、画像は決して悪くはないし、日本パリ間の時間差も気にならない程度だ。ノヴォちゃんの言っていた通り、スカイプはソフトをダウンロードするのもタダだし、いくらしゃべってもタダ。勿論もともとの光フレッツの代金はかかっているけど、スカイプをやるための特別料金は一切かかっていないから、何時間でもテレビ電話し放題。昔夢見た未来世界が今ここに実現しているという妙な感動に包まれるよ。

 みなさんも面白いから試してみてよ。勿論テレビ電話は国内でも出来るからね。でも、
「あんた、一人って言ったけど、隣にいる女、一体誰よ!」
と奥さんに言われてしまっても、紹介した僕は一切の責任は負いませんから悪しからず。

愚かなる自作者達
 20日木曜日は、自分がいかにパソコンに依存しているか、いかにそれが壊れるとパニックに陥るか、思い知らされた一日だった。

 その朝、僕は金曜日の講演会の原稿を愛機Wishで作っていた。突然、音もなく目の前の画面が真っ黒になった。パソコンはそのまま動いているが、何をしてもディスプレイは真っ黒のまま。その瞬間、僕の頭の中は、
「今、パソコンが壊れたら、何が困る?」
という考えが駆けめぐった。
「ゲッ!いろいろ困る。」

 一度終了して、もう一度起動する。すると起動の時にピー・ピピという音が鳴った。
「ん?なんじゃこれは?」
そこでマザー・ボードに付属の説明書を開く。なになに?長い持続音と短い音二つの組み合わせは、モニタかグラフィック・カードのトラブルだって?困ったな、両方とも安くないじゃないか。
 そこで、僕のディスプレイを妻のパソコンにつないで実験。なんなく起動成功。よかった、ディスプレイは壊れていないので、出費は少し楽になった。そうするとグラフィック・カードの故障以外考えられない。機械って正直で分かり易いなあ。

 でも僕はかなりドジだった。グラフィック・カードの保証書は他の機器と違っていて、その外箱と、それを買った店のレシートの二つで有効になるのだ。しかし僕はそのレシートの店によるパーツ保証の有効期限が六ヶ月だと知っていたために、もう六ヶ月をとうに過ぎているのでは保管している価値はないだろうと、先日捨ててしまったのである。グラフィック・カードにまで思考が回らなかった。
 なので、保証期間中の無償修理ないしは現品交換という恩恵にあずかる事が出来ないのである。それに、僕はパソコンは三日先ではなく今まさに必要としていて、そのパーツの修理に三日かかりますと言われても困るのである。

 それで仕方がないので、その日の内にSOFMAPに行って、新しいグラフィック・カードを購入した。これまでのより安くて、これまでのより優秀な製品。それをWish君に取り付けたら、何事もなかったかのようにサクサクと動いた。
 その時、心に思っていたのは、
「ああ、無償現品交換とか言って、もう型落ちになった旧製品が来なくてよかった。グレード・アップした。」
ということ。お金は確実に出ているのに・・・・。

 「パソコン自作は安いです。」という言葉を広告などでもし見つけたら、僕の処に来てください。それが嘘である事をいろいろな例を挙げて証明します。
 自作は、いろいろあって結局高くつくのだ。それに今回のように壊れた時の自分の身に走る緊張感たるや、自作した人でなければ分からない。だって、メーカー品だったら、サポート・センターに、
「これ、どうなってるんだよう!」
と文句言えるじゃないか。しかし自作マニア達は、全て自分のみで解決しなければならないのだ。
 よくあるトホホ例としては、きっと壊れたのはグラフィック・カードだと勝手に結論づけ、購入するも直らず、ええ?じゃあ、ハード・ディスクだ、と購入するも直らず、じゃあ、メモリーに違いない!と購入するも直らず、そうして全ての部品を購入した後で、ふと電源がコンセントからはずれているのに気がついた。しめて十ん?万円。仕方ないから、それらの部品を集めて、もう一つ新しいパソコンを作った、などという笑い話も実際少なくないのだ。
 そんな超マヌケ・ドジぶっこいてでも、自作者達という愚かなるお人好しは今日も自作に命をかけるのだ。なんだろうな?問題が起これば起こるほど、男の征服欲をソソるのではないかな。そして大部分は征服出来なくて、トホホの世界に迷い込む。それが自作者の生きる道!!



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