最後の巨匠ネッロ・サンティ

三澤洋史 

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最後の巨匠ネッロ・サンティ
 お伽噺かアニメのキャラクターかと思うようなユーモラスな顔と、僕の3倍はあろうかという巨体。練習の時から全てスコアを暗譜しているので、ひととおり音楽を通して止めた後、直し稽古をする時には小節数や記号を言わないで、前奏のパッセージを突然ドレミで歌い出してピアニストについて来させる。しかも頭に浮かんできた順序に沿ってアトランダムに直し稽古をするから、ピアニストは大変だ。
 驚くべきことにオケ合わせになっても同じように歌って練習箇所を奏者に探させる。コンサート・マスターの篠崎さんは、その都度みんなに場所を言う。その言う時間も与えないで指揮棒を下ろしてしまう時も少なくない。
「え?どこどこ?」
という感じで一同バラバラに出てくるがだんだん合ってくる。

 もの凄く長い指揮棒を持っているくせに、あまり動かさず、よく分からないなあと思っていると、突然ぐるぐる回し始め、みんなを煙に巻く。そんな時の動きは、まるで鍋の中を引っかき回しているよう。
 こだわるところは徹底的にこだわるくせに、そうでないところはグチャグチャにずれていても平気な顔で進んでいく。突然コントラバス奏者に向かって、
「そこはこの音から弦を換えた方がよいよ。」
などという細かい指示を出して奏者をびっくりさせる。

 練習の注意は、最初自分でよくない歌い方を示し、それからこうして欲しいと何度も歌う。どんなに高いところでも実声で歌う。とても良い声だが限界を超えるともの凄い声になる。
 イタリア語と英語とドイツ語がチャンポンになって練習する。多分英語はかなり苦手のよう。
「短く!」
と言うのをショートと言っているつもりなのだが、なまっていて、
「ソルト!」
というものだから、最初誰も理解出来なかった。だったらイタリア語で、
「コルト!」
と言ってくれれば、合唱団員達は結構イタリア語分かるのに・・・・。
 ドイツ語をしゃべっていたかと思うといつの間にか英語に変わっている。しかもイタリア語以外はひどい発音なので、それが何語の単語なのか認識するまでに時間がかかる。それでいて彼の言いたいことは結局全て伝わっている。

 オケ合わせの休憩中。バンダのトランペット奏者が、
「ここ、いくつで振っていてどうなっているのですか?」
と僕に訊いてきた。僕が振り数などを言っていると、後ろに彼がニコニコ笑いながらヌッと立っている。
「あのー、マエストロ・・・・、この場所って・・・・。」
と奏者が訊くと、答える代わりにいきなり奏者の楽器を取り上げたかと思うと、もの凄い速さで「熊ん蜂の飛行」を吹き始める。数年前にヴェルディの「レクィエム」をやった時は、ヴァイオリン奏者から楽器を取り上げ、唖然とするくらい上手にヴァイオリンの速いパッセージを弾いたっけ。それからトランペット奏者の質問には何も答えないで、奏者の肩をドンと叩いて去っていく。

 このようにネッロ・サンティは、あらゆる面から型破りな指揮者だ。親分肌だが、厳しさの中に常にユーモアがあり、彼の元で仕事するのはことのほか楽しい。練習中は合唱団もオーケストラも結構グチャグチャになって、
「大丈夫かなあ?」
と思うのだが、出来上がってくると、日本人の「合っているのだけれど硬直した」音楽作りをあざ笑うかのように、柔軟で有機的な音楽が聴かれて驚く。やっぱり大巨匠だ。ああいうタイプのカペル・マイスターはもうなかなか出てこないだろうな。

 11月23日金曜日は、新国立劇場内の練習場でマエストロ稽古。24日土曜日は、NHK交響楽団練習場でオケ合わせだった。久しぶりで泉岳寺のN響練習場に行ったら、マネージャーのT氏が僕の顔を見るなりこう言った。
「やっと来ましたね。ずっと忙しくてお願い出来なかったから首を長くして待ってましたよ。」
「新国立劇場につかまっていて二期会合唱団の仕事もみんな断ってしまっていましたからね。今回は新国もろとも来たってわけですよ。」

 NHK音楽祭の本番は26日月曜日NHKホールで行われる。今回のテーマはアジア・アフリカで、プログラム構成は普段なかなか聴けない組み合わせだ。
 最初にオケがドビュッシーの交響詩「海」をやる。それから合唱団が出演してやるのは、マスカーニ作曲「イリス」より冒頭合唱。プッチーニ作曲「蝶々夫人」よりハミング・コーラスと間奏曲。「トゥーランドット」より「砥石を回せ」の合唱。ヴェルディ作曲「オテロ」より「歓びの火は」の合唱とバレエの場面の音楽。ボロディン作曲「イーゴリ公」よりダッタン人の踊り。そしてヴェルディ作曲「アイーダ」の凱旋行進曲だ。

 演奏はNHK・FMで実況中継するが、噂によるとハイビジョンで撮るらしいよ。演奏会に来いとは今から言わないけれど、とにかくサンティの作る音楽は面白いから音や映像で味わってみて下さい。 

「カルメン」本日プリミエ
 「カルメン」の指揮者ジャック・デラコートは、ピアニストをしている長女志保に合うと、
「プチプッペ(可愛い人形)!」
と言って可愛がってくれている。

 ドン・ホセ役のゾラン・トドロヴィッチは、まるで黙っていると死んでしまうとばかりに、練習場でしゃべりまくり、しかもあらゆることをギャグにしてしまう天性のコメディアンだ。勿論ホセを演じ始めるとシリアスになり声も秀逸なんだけど、彼がいるだけで練習場はにぎやか。練習初日から志保を見つけて冗談を言っていたが、彼女がピアニストだと知ると、
「え?お前ピアノ弾くの?マジ?」
といってからかっていたという。で、なにかというと志保を相手に冗談話をしている。

 闘牛士役のアレキサンダー・ヴィノグラードフはまだ二十代終わりの超若手イケメン歌手。稽古場に最初現れた時は、顔が若くて可愛いので合唱団の女性達が大騒ぎしていた。でも歌い出したら外見に似合わず太くて立派な声。なかなかの逸材。

 カルメン役のマリア・ホセ・モンティエルは、ドマシェンコの代役ということで、聴衆から冷たい目で見られたら可愛そうだ。とても良い歌手だからね。巨大な声ではないが、発声はかなり良いし、なにより体当たりでカルメン役にのめりこんでいる。

 ピアノ付舞台稽古が終わった時点で、志保にとって今回のプロジェクトの山場は終わった。でも今回は別キャストによる「はじめてのオペラ」公演があり、その練習が本公演初日の後にも入っているので、まだもう少し働く。
「カルメン」本公演は、本日11月25日、初日の幕が開く。

「はじめてのオペラ」のトーク
 僕は、12月2日にある「はじめてのオペラ」でキャスターの八塩圭子さんと一緒にナビゲーターとしてトークをしなければならないので、別の意味で緊張している。そのトークの台本は僕が書いて八塩さんにも渡した。しかし二人で実際にトークをするのは直前なので、僕は今ちょうど帰国している次女の杏奈をつかまえて、彼女を相手にトークの練習をしている。
 杏奈は最初の内は気乗りがしなさそうに相手をしていたが、ある時、
「パパ、おこずかいが欲しいんだけど。」
と言ってきたので、
「それじゃこうしようか。パパの相手をもっと本気出してやってくれたら、一日千円の日当をあげよう。」
と言ったら、その時から俄然トークのしゃべり方が変わって生き生きしてきた。なんと現金な奴よ!
 「はじめてのオペラ」では、「カルメン」の中身は全曲ではなくハイライトになる。でも、このトークがうまくいけば、「カルメン」の聴き所をきちんと説明し、しかも重要な曲はみんなおさえてあるので、まさに入門者には最適だ。こうしたことでオペラ・ファンの裾野が広がるならば、大事なことなので頑張ろうと思っている。

タンホイザーの批評
 「タンホイザー」の批評が出ている。音楽の友では吉田真氏によってこう書かれた。
  合唱はいつもながら充実していて、特に終幕では公演の印象を高めるのに貢献したが、第一幕の「巡礼の合唱」で耳慣れないアクセントを付けていたのは合唱指揮者三澤洋史の自己主張だったのだろうか。
 耳慣れないアクセントの件であるが、おそらくバイロイト祝祭合唱団が伝統的に行っているアクセントのことだな。僕も当然の如く踏襲してやっているだけであって、別に僕個人の自己主張というわけではないことは断っておきたい。吉田氏はバイロイトの合唱は聴いたことないのかな?

 批評に関しては、いつもあまり気にしていないが、誉められると悪い気はしない。特に音楽現代の批評は、僕だけでなく合唱団員達にもある種の達成感をもたらしてくれた。
  (新国立劇場開場)10年の最大の収穫は新国立劇場合唱団だ。今回地響きのような「巡礼の歌」が示した意義は大きく、いずれ国民的財産と言える日も夢でない。



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