「ジークフリートの冒険」ウィーンで大ブレイク

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真  「ジークフリートの冒険」の初日公演の新聞批評が僕の元に届いた。5つほどの新聞を見たがどれも大絶賛だ。その中でも特にKURIERというバイエルンで発行している新聞では、Wagner meets Mozart-ein Triumph「ワーグナーがモーツァルトと出逢った-大勝利」という見出しで、なんと五つ星だ。これは滅多なことでは起こりえない手放しの賛辞の印だ。
 何故この見出しかというと、これには理由がある。元々このストーリーを、マティアスと僕とノヴォラツスキー元芸術監督の三人でわいわい言いながら構成した際、魔笛の展開とからめて行った。つまりジークフリートはブリュンヒルデの絵姿を見て一目惚れするところから冒険が始まる。その時ジークフリートが歌う「ワルキューレ」の「冬の嵐は去り」のアリア(オリジナルではジークムントが歌う)の歌詞は、僕が「なんて素敵な姿・・・」と作ったのだが、マティアスがウィーン国立歌劇場の為に再びドイツ語にする際、なんと魔笛のタミーノが歌う「慕わしき似姿」の歌詞をそっくりそのまま当てはめたのだ。これが子供達よりも一緒に見に来ていた大人達に大受けしたということだ。

KURIER本文中の音楽に関係する文章

音楽はこのリングでは「ライン黄金」ではなく、「ワルキューレ」で始まる。エンドリク・シュプリンガーが指揮する「ワルキューレの騎行」は、14人という小編成のオケで行われたが、充分劇的構築性を持っていた。その後「ヴォータンの告別」、「鍛冶の歌」「ラインへの旅」と続いていく。

オーストリーのKronenzeitungの大見出し

手の届きそうなニーベルングの指輪
(太字の小見出し文)
幸せな子供達よ!彼等は偉大なるオペラを発見出来る可能性を手にしたのだ。ウィーン国立歌劇場の屋根の上にしつらえた子供オペラ用のテントでホレンダー監督による制作、マティアス・フォン・シュテークマン演出の「子供のためのニーベルングの指輪」が見せてくれたのは;
肌が触れあうくらい間近で起こる物語と、手でつかめそうな歌手達。ミニ・オーケストラの演奏はもうほとんど音符がひとつひとつ目に見えるよう。

(本文中の音楽に関わる文章)
三澤洋史の編曲は的を得たものであった。名曲パレードに見えるが、これらは歌唱困難な声楽パートと切迫した劇的展開を含む正真正銘のワーグナーの世界なのだ。

切り抜きのコピーなので新聞の名前ははっきりしないが、ある新聞批評

三澤の編曲した音楽は、王子が王女にキスをして目覚めさせる物語を『リング・ハイライト』で彩った。ウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーによる演奏は驚くべき正確さで演奏したので、歌唱がはっきり聞き取れた。

おなじく新聞名は不明

この小さい舞台空間は、技術的、視覚的、空間的に最良の方法で使われた。国立歌劇場管弦楽団のメンバーは、この小さい空間で考えられないほど素晴らしくワーグナー・サウンドを聞かせてくれた(14人の奏者、その中には突出したホルン奏者がいた)。


 さすが本場。僕が曲を切り貼りして音楽的に構成した時、
「この曲をこんな使い方したらワーグナー・ファンはびっくり仰天、バカ受けするだろうな」
とワクワクしながら作ったし、マティアスやノヴォラツスキー氏も共に大喜びしたものだったが、日本ではワーグナー・ファンの反応はむしろかなり冷たかった。それがウィーンでは、全て理解され、批評家達だけでなく大人達がまさに僕達の期待した通りの反応をしてくれたようだ。

 今年の夏は本当に「ジークフリートの冒険」の編曲で大変だったけれど、時間をかけて丁寧にアレンジしたのが報われた。ワーグナーの大管弦楽をわずか14人でやるわけだろう。金管楽器が咆哮するところでもトランペット、ホルン、トロンボーンの三人しかいないんだからね。だから本来は休みが沢山あるはずの管楽器奏者は、吹奏楽と同じで吹きっぱなしだ。そのまま編曲したってワーグナー・サウンドにはならないんだ。
 僕は大管弦楽のワーグナー・サウンドを頭に描き、どうやったらこの小編成で具現化出来るか、とってもとっても考えた。ところどころワーグナーもびっくりするような裏技を使った。時間がかかったわけだよ。

(事務局注 2021リニューアル時に追加)

最終目標は・・・・
 ウィーンで成功した今となってはもう言ってもいいと思うが、僕とマティアスの目標はなんといってもバイロイトだ。バイロイトで音楽祭開催中に平行してやるのだ。これも決して夢じゃないぞ!

カルメンとロマ
 12月2日、日曜日は、「はじめてのオペラ『カルメン』」の公演で、僕はフジテレビのニュースキャスターで活躍している八塩圭子さんと対談しながらナビゲーターをつとめた。お話しをするのは嫌いではないのだが、あんな大劇場であらたまって対談するとなると、指揮するのとはまた違う緊張感が全身を包むなあ。
 でも八塩さんとの対談は楽しかった。台本は全て僕が書いたのだけれど、話し出したら二人ともかなり台本を離れてアドリブ連発になった。テーマはFemme fataleファム・ファタール(男を破滅させる宿命の女)で、ホセの破滅のドラマを追っていきながら、カルメンの人物像に迫っていく。するとカルメンが自由というものを命を賭けても守り通したドラマが見えてくる。

 ところで、29日の木曜日にゲネプロをやった際、問題になったことがあった。僕の原稿の中の「ジプシー」という言葉は、実は差別用語で現在では放送禁止用語だというのである。最初に気付いて心配してくれたのは八塩さん。さすが放送の世界にいるだけある。

ロマとは
 ジプシーは現在ではロマ族、ないしはロマと呼ばれている。ロマは、元来中央アジアの遊牧民族で(北インドがルーツだという説もある)、定住することなく放浪生活を続けているが、だんだん西に流れてきて、ハンガリー、イタリア、スペインなど南ヨーロッパを中心に住んでいる。独特の風習を持ち続けていることで、どの国に住んでいてもその国に同化することなくアウトサイダーでいるのである。

 ロマン派の時代になると、ロマは芸術の分野でいろいろ影響を与えてくるようになる。例えばロマをドイツ語ではチゴイネルと言うが、チゴイネル・ワイゼンは「ロマの方法」という意味だ。
 一説によると、ヴァイオリンが現在のようなヴィヴラートをかけるようになったのは、ロマの人達の弾き方の影響によると言われている。作曲家でヴァイオリンの名手でもあったサラサーテは、いち早くロマの人達の方法論を取り入れて、ヴァイオリン奏法に新しい道を開いたということだ。
 またヴェルディのオペラにも沢山のロマが登場する。「トロヴァトール」などでは、老婆アズチェーナは主人公の母親でドラマの要を握っているし、その他にも、「仮面舞踏会」のウルリカや「運命の力」のプレチオジッラなど、通常の市民にはないバイタリティを持っている。
 このようにロマン派はロマのようなマイノリティにむしろ接近し、これを描き出すことによって、むしろ良識ある一般市民の生活に疑問を投げかける役目を担ったのである。「カルメン」もそのひとつで、この作品は、ドン・ホセという一真面目市民が、カルメンという異文化を背負っている存在と出逢うことによって展開していくドラマだから、カルメンが単なるその辺の浮気な女性だけでは意味を成さないのだ。

知らなかった!
 ロマをジプシーと呼ぶことが問題となった。僕もジプシーという言葉が放送禁止用語になっていたことは知らなかったので驚いた。何と言っても僕の中に何の差別意識もないからね。それでもなるべく使わないようにしようねということになったが、たとえば「ジプシー占い」のように、それを言わないとどうしてもうまくニュアンスが通じないところがあるので、そこだけはあえて言わせてもらうことにした。
 このオペラは何と言っても主人公のカルメンがロマであることがテーマなので、フランス語の歌詞でもボエミアンという言葉はしょっちゅうオペラ中に出てくる。これを避けては通れないのだ。だから、この話題に触れると、僕のスピーチがなんだか歯切れの悪いものになった。それが唯一の気がかり。

 家に帰って英語の辞書を調べてみると確かに、gipsyという言葉はしばしば侮蔑的表現として使われていると書いてある。そしてロマの人達は、自分たちで呼び合っているロマという言葉をむしろ使って欲しいと思っているとも書かれている。
 そもそもジプシーという言葉は、ヨーロッパ人が彼等をエジプトから来た民族であると勘違いしたところから来ているという。エジプシャンのエが取れてジプシーとなったというのだ。それならば、ロマの前にインディアンの方が大間違いなのにな。

不適切な「流浪の民」
 僕自身は、これから努めてロマと言おうと思っているのだが、うーん、それでもなにか釈然としないところがある。まずジプシーという言葉が英語だろう。それにロマ族は我が国にはほとんど住んでいないのではないか。差別しようにも知識がないし、昔、西洋音楽を尊敬の念を持って迎え入れた日本人にとって、ジプシーという言葉は、少なくとも差別的感情を全く伴っていないどころか、むしろ尊敬の念すら持って迎えられているのではないか?
 シューマンの「流浪の民」など、その最たる例であるが、調べてみたら驚くことに現在では学校教育の場で演奏されないそうだ。NHKも流さないと聞いている。これはロマのことに触れたものなので、禁止ではないが適切ではないと判断されているそうだ。ちょっと過敏ではないか?それに決して悪意あってシューマンが書いているわけでもないのに自粛させられるとしたら、表現の自由に抵触してくるのではないか?僕自身好きなのに、あの曲・・・・。

 調べてみないから分からないが、そもそも英語圏の国々でgipsyという言葉は放送禁止用語になっているのかな?もしなってなかったとしたら、何故日本でこんなに過敏になるのだろう?ボラーレなどで大ヒットしたジプシー・キングというグループは、世界中で大人気だから沢山放送に乗っているはずだと思うけど。

 ロマが放浪の民なので、放浪している根無し草のような生活を「ジプシー生活」という表現で使うのが侮蔑的表現にあたるということなら分からないでもない。でもそれを言うと、たとえば、「ジプシー生活」のことをフランス語でラ・ボエームと言うから、若い芸術家達の明日をも知れぬ根無し草の生活を描いたプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」は、ある意味最も侮蔑的表現だ。

 こうしたことが行き過ぎると、何年かしたら「カルメン」はロマを辱めているから上演禁止、ヴェルディのロマが出てくるオペラは全て上演禁止、「ラ・ボエーム」も「チゴイネル・ワイゼン」も禁止なんてことにもなり兼ねない。
 そうならないまでも、ロマに関係するテーマに触れること自体を問題視するようになったら大変だ。そうなる前にどうしたらいいかみんなで考えようよ。「カルメン」、まだまだいっぱい上演したいじゃないか。



Cafe MDR HOME


© HIROFUMI MISAWA