僕の読み方~カルメンとキリスト

三澤洋史 

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僕の読み方~カルメンとキリスト
 先日の「初めてのオペラ」で、オペラというものは別の角度から読み込むことが出来ると説明した。それはつまりこうだ。ドン・ホセのモチベーションやリアリティにばかり従っていると、どうしてあんなカルメンにのめり込んで殺人を犯すまでになってしまうのかと思ってしまうが、一度それを置いておいて別の角度から読み込んでみると、ドン・ホセはカルメンという人物像を描くための材料であることが分かる。

 そもそもこのドラマは、ドン・ホセという一般市民が、ロマであるカルメンという異文化と出遭い、翻弄されていく物語だ。カルメンが最も大切に思っているのが“自由”という概念。カルメンはこれを守り抜くためなら命をも惜しまない。カルメンはその意味ではオペラの最初から決してブレないで首尾一貫している。だからカルメンはある意味進んでホセに殺されるのである。それはカルメンにとってみると自由を守り抜いた勝利の姿なのだ。

 さて、そこまでが通常の読みだが、僕はカルメンというドラマをもうひとひねりして読んでいる。ここから先は一般論ではなく、僕の個人的な考え方なので、賛同してくれなくてもいい。ただこういうアプローチの方法もあるのだと分かっていただければ充分。

 表向き全然違うのだが、僕はカルメンの生き方にいつもイエス・キリストの生き方を重ね合わせる。特に自分が身の危険が迫っているのを知りながら、エルサレムに入城していくキリストの姿が目に浮かぶ。
 人は他人と様々な方法で関わっていく。特にある人がある特定の他者と“愛”という絆で決定的に関わろうとした時に、時には奇異にすら映る方法でその関係を全うしようとする場合がある。

 仮にカルメンがドン・ホセを本当はかけがえのない存在として愛していたと仮定する。これまでカルメンの相手にしてきた男達はみんな良い男だったかも知れないが、カルメンが自由なように男達も自由にカルメンを愛し、そしてまた他の女を求めて自由にカルメンの元を去って行った。ところがドン・ホセは、カルメンにとって初めて、これまでの男のようではなく、カルメンだけにあそこまで執着してくれる存在であった。しかしカルメンは、自分の生き方を変えられない。
 そうなると、カルメンがもしドン・ホセとの関係を全うしたいとしたなら、ただひとつの方法をとるしかない。それは・・・・ドン・ホセに自分を殺させることだ。そうすれば、カルメンはドン・ホセの心の中に永遠に“かけがえのない”存在として残る・・・“自分が殺めた女”として・・・。
 それにカルメンにとって“自分を殺してくれるほど愛してくれる”男性は初めてだったに違いない。だからドン・ホセに殺されることはカルメンにとって最高のエクスタシーの瞬間だったのだ。殺す殺されるという究極の行動によって二つの魂は永遠につながるのである。
 しかしこうした考えは決して悪魔的考えではない。何故なら過去において全く同じような行動を取った偉大なる人間がいたから。それがイエス・キリスト。

自分を殺させたキリスト
 キリストは無念だったに違いない。彼だってインドの釈迦のように何十年も説法をして歩いて、自分の目の前で沢山の人達が救われていく様を見たかったであろう。ところが自分が救おうと思っている人達は、逆に自分に敵対し、自分を抹殺しようと策略を練っている。
 救世主としてこの世にやって来たのに、目の前の人を救えない。こんな悲しいことがあるだろうか。そんな敵だらけのキリストは、過ぎ越し祭にエルサレムなどに入城しないでもよかったのである。みすみす捕らえられ殺されることが分かっていたのだったら、一度そこを逃げて何度でも根気よく宣教活動をやり直せたはずである。しかし彼はそうした道を選ばなかった。何故か?

 キリストは知っていたのだ。自分に敵対する者達は、キリストが言っている事が正しいことを内心では分かっていることを。だからこそ彼等はあれだけヒステリックに反発しているのだということを。そんな彼等を素直にさせる方法はひとつしかないのだ。
 そうしてキリストはエルサレムに入城した。そして神殿の前に構えている店をひっくり返し、反勢力者達の怒りを煽った。至る所で構わずに説教し、真実を述べ伝え、彼等の殺意を促した。あたかも意図的だったかのように。そして彼は捕らえられ、処刑された。
十字架の上から彼は言う。
「主よ、彼等をお許し下さい。彼等は自分で何をしているか分からないのです。」

 キリストもカルメンと同じに、殺されることによって我々との究極的な結びつきを求めようとしたのだ。ある意味最後の手段だったかも知れないが、キリストは明らかに自分を彼等に“殺させる”ことによって彼等との絆を築こうとしたのだ。
 キリストが本当に世界宗教として広がっていくのは、キリストの死後だ。しかも“我らの罪のために十字架にかかった救世主”として国境を越え民族を越えて、地球の裏側の国々まで広がって行ったことは、皮肉だけれど、キリストがその身を捧げた故。それは、カルメンと同じように、死をも厭わずに自らの信念を貫いた潔い生き方故と言えるのではないか。

 カルメンというストーリーが、何故これほどまでに世界中で繰り返し人々の心を惹きつけて止まないのか、その裏側には、こんな真実も含まれているのではないか。こんな風に考え、こんな風にアプローチしていったなら、オペラも奥が深いとは言えないか。

僕の富士山
 いや、僕の「富士山」が出来たなどと浮かれているわけではない。僕の富士山への想いは到底曲などで表現しきれるものではない。でも草野心平氏がぎりぎりのところで表した想いだけはしっかと受け止めたと自負している。草野氏も多田武彦氏も僕も、富士山という大存在の前に無力であるという事実を認識していることによって共通項を持つ。

 ゲネプロ前に僕はみんなに言った。
「富士山を目の当たりにすると、どんなにそれを言い表したとしても、言い足りないのを感じる。およそ優れた芸術というのは、表現しきれない、あるいは報われない“想い”が次の世代に残っていくものとなっていくのだ。
『マタイ受難曲』は、誰もあんな長いものを書いてくれと言わなかったのにバッハが勝手に書いた。その中には、我々が考えている想像を超えたバッハの受難劇への想いがある。生前バッハが作品の永遠の価値に見合うだけのギャラをもらったとも思えないしね。まあ、報われない愛みたいなものだ。その徒労と言うかマイナスの部分こそが人の心を動かす芸術の神髄だ。
富士山だって、ある人は赤富士を描いた。ある者は雪を抱えた美しい富士、ある者は火山としての恐ろしさを内に秘めた富士を表現したかも知れない・・・・。しかし実物の富士山とは、美しいだけじゃない。気高いだけじゃない。美しく、気高く、そして同時に恐ろしい存在。言葉でも音楽でも表すことの出来ない存在だ。
ある時は朝日に映え、ある時は真昼のまぶしい光で輝き、ある時は夕日に赤く染まる富士。そのどれかが富士ではなく、それら総合した存在が富士というもの。そんなの、こんな曲なんかで表現出来るわけないじゃない。
そんな無力感を持つことから、『富士山』を演奏する行為は始まる。だから富士山の表現にこれでいいということはない。
でも我々が自分自身の甲斐なき想いを一生懸命表現すれば、今度は聴衆の心の中にもそれぞれの言い難し富士山への想いがあるだろう。そこに共鳴するのだ。人はみんな自分の経験に照らし合わせて、自分の感性で捉えたものしか理解出来ないから、各自の想いはバラバラだ。それでいいのだ。芸術というのはそういうものだ。正解というものはないのだ。みんな自分の感じた富士山への想いを自由に表現してみよう。」

 この言葉が良かったみたいで、僕は本番では指揮しながらみんなからもの凄いエネルギーをもらった。暗譜で振っている僕も、いつになく高揚感を持って、ノリにノリまくった。いやあ、こんな時の指揮者というのは本当に“豚もおだてりゃ木に登る”でさあ。で、木に登ったままこの原稿を書いています。



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