映画「マリア」とキリストの降誕

三澤洋史 

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映画「マリア」とキリストの降誕
 キリストの降誕祭が近づいてくる中、12月20日木曜日は、映画「マリア」を妻と二人で見に行ってきた。でも、この「今日この頃」がWEB上に載る頃は、多分かなりの映画館は上映が終わっている可能性があるなあ。興味を持った人は、25日までに急いで探して行くべし。クリスマス・ケーキと同じで、日本ではそれ以降は恐らく上映されないでしょう。
 日本では「マリア」というタイトルだが、この映画の原題はThe Nativity Story、つまり「降誕物語」。救世主をみごもり出産する聖母マリアに焦点が当てられているのは当然のことだが、映画を見て感じたことは、このタイトルは違うじゃないかということだ。
 きっとこれは、非キリスト教国の日本で、なんとか売るために考え出したタイトルなのだな。なんでそんなことするのかな。どっちみちそんな小細工したって売れないものは売れない。南大沢駅前のTOHO Cinemasでも、一日に一度しか上映しなかったし、あっけなく20日木曜日で終わりだし、最終日だというのに客はまばらで、
「本当に日本のクリスチャン達、やる気あんの?」
と怒りさえ覚えたほどなんだから。
 こんな映画を上映する時などはね、キリスト教徒だったら、みんなでつるんで映画館に殺到して、映画館をいっぱいにして、
「好評につき上映継続」
になって、上映ランキング堂々一位となって、それを見た一般の人が、
「おお、日本のキリスト教、やるじゃん。じゃ俺も今年のクリスマスには教会ってところに行ってみようかな。」
と思って、クリスマスには教会に入りきらないほど人が集まって、どんどん伝道活動をするとどんどん信者が増えて、教会維持費が面白いように集まって、演奏会が出来るくらい広くて素晴らしい聖堂があっちこっちに建って、素晴らしいパイプオルガンがバンバン入って、気がついてみると東京バロック・スコラーズが年末クリスマス・オラトリオをあっちこっちの教会で演奏するのに大忙し、という状態になるくらいの意気込みがなくてどーする!そんな「風が吹くと桶屋が儲かる」式の大展開はさておき、日本のキリスト教はこのままじゃ先細りだねえ。

女性監督ならではの視点
 原題の通り、この映画は、マリアが救世主をみごもり、ベツレヘムの街で出産するまでの物語。聖書に詳しいつもりの僕だって、いろいろ具体的なことは忘れていて、映画を見て、「ああ、そうだったな。」
と気づかされることも少なくない。
 たとえば、マリアと婚約中のヨセフは、マリアが聖霊によってみごもったことを信じ、これから生まれる子供の父親になる事を受け入れるが、それは彼にとっては、“出来ちゃった結婚”という、当時にとってはとても不名誉な状態を周囲に晒すことなのだ。正しい人ヨセフならでこそ、耐え難かったであろう。
 そのヨセフ像であるが、この映画ではとても丁寧に描かれている。ヨセフ役を演じたオスカー・アイザックは、キャサリン・ハードウィックという女性監督の目から見た“男のやさしさ”を見事に表現している。
 
 この映画は夫婦愛の物語でもある。住民登録のためにベツレヘムまでの長い道のりを、ヨセフとロバに乗ったマリアが行く。その映像はとても印象的。途中の荒れ地で食料がなくなる。パンを半分に裂いてヨセフはマリアに与えるが、彼は自分の取り分の少しだけ食べ、あとはマリアに内緒で取っておく。夜中にこっそりロバに残りのパンをあげるヨセフ。でもマリアはそんな彼のやさしさに気付いている。こうしたエピソードは女性でないと描けないだろうな。
 出産の場面のヨセフの表情もとても良い。僕は映画を見ながら、もう二十数年前、妻が長女志保を出産した時のことを思い出したよ。志保は、僕の留学先ベルリンのクリニクム・シュテークリッツという自由大学の大学病院で生まれ、僕はその出産に立ち会ったのだ。異国の地での出産。目の前で苦しむ妻を見ながら、祈ることしかできない自分。そんな時は若い夫も一生懸命なんだ。
 ひとつの小さい命が精一杯の、
「おぎゃあー!」
という産声を上げた瞬間の全身が震えるような感動。
 全くプリミティブに動物的に、人間って生まれるのだ。だからこそ、その感動は理屈ではなくまさに太古の動物的自己の根底から突き上げてくる本質的なもの。あの時も所構わず泣いたが、今日も暗がりでひそかに泣いた。
そしてあの時も、
「女って凄いな!」
と思ったが、今日も思った。女性って、救世主すら自分のお腹に宿し、産むことが出来るんだものな。でも、僕は確信するけど、全ての母親は出産の瞬間、“聖母”であり、全てのあかんぼうはこの瞬間、夫婦にとって“救世主”なのだよ。

 お釈迦様は、生まれた直後、ポンと立って、
「天上天下唯我独尊!」
と言ったというけど、んなわけねーだろ。神格化したい気持ちは分かるが、嘘を言ってはいけない。
 お釈迦様もキリストも含めて、全て地上に生まれ出てくるあかんぼうは、弱々しくて、放っておいたらすぐ死んでしまいそうで、一体これをどうやって育てたらいいのか途方に暮れるほどなんだ。それでいて案外たくましくて、おっぱいくれと泣くし、おむつが濡れたと泣くし、
「おっとっとっと・・・。」
と従っていると、いつの間にか“育てさせてくれる”のだよ。案外よく出来てるよ。
 それにしても、犬や猫と違って、一年もの間自分で歩くことすら出来ない人間の子供は、両親の庇護というか、愛がなければ決して生きられない存在。救世主だって、そんなか弱い存在としてこの世にやって来て、マリアとヨセフの愛をむさぼるように受けたのだ。
 志保か杏奈のどっちだか忘れたけれど、彼女たちが小学校時代のある時、突然、
「小さい時から面倒見てくれて、パパやママにいっぱい迷惑かけたね。」
と言い出したのを聞いて、笑ってしまった事がある。“迷惑”という他人行儀な言葉が妙に場違いでおかしかった。全くよう、迷惑どころの騒ぎじゃねーだろ。って、ゆーか、今でもかけっぱなしだあ。

マリアの描き方
 マリアを演じたケイシャ・キャッスル=ヒューズは、“13歳のマリア”というコンセプトをよく表現し切れていると言えるが、僕のマリア観はちょっと違うんだよなあ。この映画は、昨年の12月にアメリカで封切りされたが、大ブレイクとならなかった理由として、マリアが普通の女性として描かれ過ぎて、熱心な信者達が抵抗感を持ったということらしい。むしろそれが制作者や監督の意図なのだろうし、僕もそれはよく理解出来るのだが、僕的にはね、普通の女性達と一緒に生活していながら、なぜマリアが神に選ばれたのかという、要するにマリアの非凡性をもう少し強調しても良かったのではないかと思った。
 逆に、未信者の人達にとっては、仰々しく聖母として描かれないのが抵抗感なくていいとも思うが・・・・。
 もっと“暖かさ”のようなものが欲しいなというのは、ただ単に、僕が全ての女性に期待し、だからマリアにも期待してしまうに過ぎない点だろうけど。こんな風に、信者というのは、みんなみんな自分の理想像にマリアを重ね合わせるのだ。だからマリアを描く監督や、マリアを演ずる女優にとってはまさに針のムシロだな。どうやったって報われない。

アンナ
 マリアの母アンナを演じたヒアム・アッバスは、本場イスラエルのナザレ生まれ。アンナも聖母の母という感じではなく、ごく普通の主婦として描かれているけれど、そのまなざしやたたずまいににじみ出る知性の輝きが感じられ、心打たれた。良い女優だ。
 映画が終わって妻と感想を話し合っている内にアンナの話になり、
「そういえば今日(12月20日)は杏奈の誕生日だね。良い時に映画を観たね。」
とお互いに言った。杏奈は当然この聖母の母からの命名。夜、仕事から帰ってから僕も杏奈に電話した。
「アンナ役が良かったんだよ。お誕生日おめでとう!」
「あはははは・・・・。」
杏奈は全く意味が分からずに、ただ笑っていた。あの子はいつもそうなんだ。

降誕劇のスタンダード
 この映画は、とても聖書に忠実で、まるで教会でやる聖劇を拡大したような正統的なもの。音楽も「ひさしくまちにし」の賛美歌から始まって、「聖夜」で終わる、いわゆる“ありがちオン・パレード”だ。別に問題作を期待していたわけではないが、もう少し冒険をしても良かったのではないかな。特にいろんな事をいろんな角度から考えているようなひねくれ信者の僕のような者に、
「へええ、こんな見方もあったのか。」
と思わせる点がひとつもなかったのはちょっと残念。それだけに、時が経てば逆にこの映画は「降誕劇」のスタンダードとなるのは必至だ。
 東方の三人の博士達の会話がコミカルだったのは良かったな。彼等が砂漠を旅していく姿を見ていたら、「月の砂漠」の曲を思い出した。でも、僕が台本を書いたら、彼等のキャラクターをもっともっとハジけさせてしまうだろう。見ていて、三人の博士達を主人公にしたミュージカルを作りたいなと思ってしまった。降誕にまつわる作品はそのうち何らかの形で作りたいとは思っているんだ。

おしっこ・・・・
 ところで僕にはひとつ困った癖がある。それは、映画を見ると必ず途中でトイレに行きたくなることだ。演奏会とかオペラ鑑賞では起きないのだが、不思議と映画でだけ起こる。それなので、上映直前までトイレを我慢していて、直前に行く。
「今回は大丈夫だろう。」
ところが・・・また場内が暗くなってくると、
「こんな暗がりでトイレになんて行ったら恥ずかしいんだからな。」
と思えば思うほど、体が緊張してくるのか、コマーシャルが終わって映画の本編が始まるやいなや、尿意がもよおす。
「うっそーっ!気のせいだろ?」
と思うのだが、気のせいではない。確実に尿意はもよおしている。
「せめてマリアが受胎告知を受ける時まで我慢しよう。トイレに行っている間に受胎告知が終わってしまったら残念だからな。」
しかし、なかなか受胎告知にならない。
「お願い、早く告知して下さい、天使ガブリエル!早く出てこいったら!」
こうなるともう映画に集中出来ない。
 
 僕は昔からそういうところがある。小学校の頃は親父がいろいろなところに車で家族を連れて行ってくれたのだが、僕は車に酔うので、むしろドライブは憂鬱だった。しかもそれがどんどんエスカレートしてきて、出掛けると聞いただけでだんだん気持ち悪くなってきて、車に乗る直前に、もう吐いてしまったなんてこともある。親はあっけにとられ、理解に苦しんでいた。 
 ある時は、指揮している最中に、
「こんな時に指揮者が咳なんてしたらみっともないだろうな。」
とふと思ったら、なんとなく咳がしたくなって、
「駄目駄目、絶対に駄目。」
と思えば思うほど、もう咳をしないでいられなくなり、しかも最も静かなところで咳をしてしまった。そんなことが二年くらい続いて完全にトラウマになり、真剣に悩んだこともある。不思議といつしか忘れてしまった。
 これらは全て心因性のものだと分かっている。意識過剰なんだ。映画の場合も最初から、
「トイレには、行きたければどんどん行けばいいのさ。」
と思っていればかえって平気なんだ。分かっているんだけどねえ・・・。

ラ・フェット多摩・南大沢は楽しいぜ!
 TOHO Cinemas南大沢の音響は抜群だ。良い音響だと、かえって疲れないのでいい。南大沢って初めて行ったけど、宅地開発が進み、広々として良い所だね。実は僕の家から結構近かった。四谷橋を渡って、聖蹟桜ヶ丘を左に見ながら野猿街道をまっすぐ行き、モノレールを通り越したら、あっという間に着いちゃった。
 駅前には大規模なアウトレットがあると聞いていた。それがラ・フェット多摩。敷地全体がひとつのテーマ・パークみたいになっていて、色とりどりにいろんな店が建ち並び、見ているだけでも楽しい。
 映画が終わってから、その中のイタリアン・レストランで妻と食事。それから買い物。僕がちょっと長めのコートと白黒のマフラーをしていたら、それはここで買ったやつです。びっくりするくらい安かったんだよ。

第九、降誕祭、そして良いお年を!
 ラ・フェット多摩を後にし、一度家に帰ってから、サントリー・ホールに向かった。いよいよ読売日本交響楽団の第九が始まった。我が新国立劇場合唱団の第九は出だし快調。終演後、江川紹子さんが袖に飛び込んできて僕の手を握り、
「三澤さん、素晴らしかった。こんな第九、聴いたことがない!」
と絶賛してくれた。この第九は24日のクリスマス・イヴだけ除いて27日まで合計7回公演。
 今年もまたクリスマスがやってくる。自分の心の中では映画「マリア」のお陰でクリスマス気分満点。さて、「今日この頃」ですが、年末年始にかかるので30日の更新はお休みします。次の更新は1月6日。
 ああ、今年は良く働いた!モナコに行って、「ジークフリートの冒険」ウィーン用編曲を仕上げたのが一番大きいね。そのウィーン国立歌劇場での公演が大成功し、新国立劇場合唱団の評価も上がって、自分のこれまでやってきたことがやっと報われてきた感じがする。来年もいろいろ待ちかまえているよ。僕の人生、今が一番充実しています。

みなさんも良いお年を!




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