ジャン・クリストフを読み終わって

三澤洋史 

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貴重な休日志保が帰ってきた!
 うわあっ!ワインとチーズが来たぞう!じゃなかった、長女志保が帰ってきたぞう!しかも今回は、フランス人の知り合いの所であるブルゴーニュに長期滞在していたので、普通では買えないようなおいしいワインを持ってきた。
ブルゴーニュのワインとチーズ ブルゴーニュでは、各家庭に当たり前のようにカーヴ(地下貯蔵庫)があって、豊作の時のワインを取って置いているそうな。それと、食事はかならずアントレ(前菜)と主菜とデザートがあり、お酒も、最初はアペリティーフから始まって、ワインを楽しみながら果てしなく語り合い、主菜の後には、何種類ものチーズを食べるそうな。それからデザートだって。食文化が生活の中心なんだな。写真を見せてもらった。ド田舎だけれど、とても良いところだ。
 彼女が買ってきたサラミがおいしかった。早速イチジクとクルミ入りのサラミを切って食べたが、こんなのは絶対日本では食べられないな。ワインは一本だけ飲んだけれど、この自然さというか、さりげないうまさは何と言って表現したら良いのだろう。
 それにしても、フランスでおいしいものをたんまり食べて、志保は丸々太って帰ってきた。見るなり思わず笑ってしまった。これまでの静かな老夫婦の生活が一変して、急に我が家が賑やかになった。タンタンも大喜び。 
 志保は、今は時差ぼけでぼけぼけしているけれど、すぐ行動開始だ。ブルゴーニュ最初の仕事は2月4日のミュージカル・ワークショップ。でも、志保がフランスに行っている間に、二期会から連絡があった。6月の二期会公演、リヒャルト・シュトラウス作曲「ナクソス島のアリアドネ」の練習ピアニストを依頼された。ちょっと忙しくなってきた。

ジャン・クリストフを読み終わって
 僕の人生の中で、音楽と全く同じ割合で、それどころか時には音楽よりもずっと深く自分を支え続けてくれているものが文学であったことに再び気づかされた。約一ヶ月かかってロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を読み終わって、この小説を最初に読んだ高校生の頃の熱狂した気持ちをずっと持ちながら、僕はこれまでずっと「ジャン・クリストフ」を生きてきたことを知った。この小説こそは、僕の知っているあらゆる芸術の中で最も僕の生き方に感化を与えたものであった。
 にもかかわらず、今回読み返してみて、僕はこの小説を少しも知っていなかったことに気づいた。高校生の頃の僕には、あらゆる困難に強靱な意志を持って立ち向かっていく若き日のクリストフには共感出来ても、愛すべき人達の喪失に絶望しながらも、諦念の中に悟りを見いだしていく晩年のクリストフの心情は、当時の自分からは遙かに遠く、理解するための何の方法も持たなかったのだ。まあ、無理もないな。
 今は、クリストフの全生涯を描いたこの長編小説のどの部分にも、同じような共感を抱いて読むことが出来る。すると幼年時代から老年時代までどの部分にも同じように血液を注ぎ込んで丁寧に表現していったロマン・ロランを本当に凄いなと思えた。次に生まれ変わったら小説家になってロランのような作品を作ってみたいと本気で思っている。神様が僕にもっと文才を与えてくれたらの話だけど・・・。

 人はベートーヴェンを偉大だという。でもベートーヴェンのどこがどう偉大なのか、よく分かっていないことが多い。ロランは、クリストフの生き方を通して、あるベートーヴェン的魂の苦悩と克己の軌跡を辿り、真実に生きたひとつの魂の典型を描き出して見せた。 それは偉大と呼ぶにはあまりに過ちに満ちており、人間的であるが、それでも芸術という火に焼かれ続けながら、その中で凡人には見えないものを見、凡人には生きられない生を生きることによって、ある高みに到達した芸術家の赤裸々な姿をロランは提示して見せた。
 芸術家とは不思議な人種だ。いわゆる聖人君主に最もなりにくい種類の人間なのだ。うぬぼれていて自尊心が強く、従順でなく利己的。その一方で、凡人には考えられないくらい人から攻撃され、そのことによって自分と向かい合うことを余儀なくされる。一芸に秀で、その中で自己研鑽を積み、人間形成を遂げることで、結果的には偉大なる者達の仲間入りをすることを許される。それどころか、彼等の作り出す芸術そのもので他人を感化せしめる能力のことを言うならば、芸術家の偉大さには計り知れないものがあるのだ。

 勿論クリストフはベートーヴェンとは違う。ベートーヴェンは童貞だったという噂もあるほど女性には疎かったようだが、クリストフの周りには何人もの女性が登場する。その中にはゆきずりのような愛もあるし、若い時の欲望にまかせた関係もある。
 こうした女性関係の描写に、高校生の頃の僕はかなり抵抗感を覚えたものだった。でも今読むと不思議と許せるのだ。それはきっと当時の自分は、クリストフと関係を結ぶ女性達に対し、“男”と対立する存在としての“女”としてしか捉えてなかったからだ。
 でも、もっと余裕を持って眺めることが出来る今となっては、相手の女性のそのままの存在を読み取ることが出来る。そうすると、ロランの人間性によるのだろうが、どんな女性の中にも、魔性と同時にある種の善良さや無邪気さが感じられる。そして彼女達に近づいていくクリストフには、思春期や青年期の人間が持つ、共感を覚える人達にかけがえのない関係を持とうと土足で踏み込んでゆくエネルギーを感じる。こうした、本能的で傍若無人の若さが、今はむしろまぶしい。これが人間が生きるということなのだ。
 ロランの、限りなく懐疑的でありながら最終的には究極の楽観主義を見せる“人類への信頼”に、僕は限りなく共感し、心打たれる。読んでいく内に何度目頭を熱くしたことだろう。特に感動的だったのは、クリストフの母との関係と、そして晩年の未亡人グラチアとの禁欲的な情愛だ。

 グラチアの最初の登場はかなり前にさかのぼる。クリストフがパリに出てきたばかりの頃、彼が熱を上げていたピアノの生徒コレットがいたが、従姉である彼女の陰に隠れるようにしてグラチアは登場していたのだ。その次は、それからずいぶん経って彼女は結婚しており、クリストフが様々な攻撃にさらされている時に、外交官である夫の立場を利用して陰から彼を養護していた。そして夫の出世によってアメリカに渡ってしまった。それから晩年の再開と、だんだんその存在感を増してきた。そしてクリストフの求愛を上手にかわしながら、たぐいまれな精神的愛を二人の間にはぐくんでいったのだ。

 こんな美しい関係は、若い時のあの狂おしい欲情が静まってからでないと築けない。気をつけないといつでも“そういう関係”なってしまいそうな異性間の緊張こそが、その美しい友情を支えている。そしてお互い、なくてはならない存在として、そんなにも相手を必要としている。こんな二河白道的異性間の友情など、若い時の僕には理解出来るわけがないよな。

 オリヴィエという親友を通してフランスを愛するようになったクリストフは、イタリア人のグラチアを通して、フランスだけでなく、イタリアへも親近感を見せる。クリストフの意識は、今やどんどん国境や民族を超えたコスモポリタンなものになっていく。まさにそれがロランのねらいだ。

 ロランの生涯を調べてみると、「ジャン・クリストフ」を書き上げた後、彼はこの作品で1915年にノーベル文学賞を受賞するが、その頃世界は第一次世界大戦の戦乱に巻き込まれていた。スイスに逃れた彼は、第二次世界大戦末期の1944年に亡くなるまで、生涯に渡り一貫して反戦を訴え続けた。このようなロランの作品は、当然ヒューマニズムとグローバルな視点に溢れている。限りなくドイツ的だったクリストフの視野を、異文化との邂逅によってしだいにインターナショナルなものに開いていくストーリー設定も、
「幾百万の人々よ、互いに抱きあえ」
という第九交響曲の世界を、具体的なイメージを以て、魂の理想郷として描きたかった彼の切実なる想いだったのだろう。戦争の時代にあってなんと勇気ある生き方であったことか。

再びi-Pod
週の初め、「ジャン・クリストフ」がようやく読み終わるので、長らく活躍していなかったi-Podを再び使おうとCDを何枚か買ってきた。僕の場合、午前中はいろいろな演目の勉強や様々な準備があるし、夜、練習から帰ってくると、もう酔っぱらってしまうから、「ジャン・クリストフ」は、ほとんど行き帰りの京王線で読んでいたのだ。京王線は、僕にとって本来i-Podを聴く場所。
読書は、この後ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳や、ロマン・ロランの「魅せられたる魂」など、読みたいものは沢山あるのだが、ちょっと小休止。というか、まだしばらくは「ジャン・クリストフ」の余韻に浸っていたいんだ。

今、新国立劇場までの行き帰りで一番好んで聴いているのは何だか知ってるかい?それは、僕くらいの世代にはとてもなつかしい、フレンチポップスのシルヴィ・バルタンSylvie Vartanのベスト・コレクション(BVC2-31009)だ。
小学校の頃、姉が買ってきたのが「アイドルを探せ」というシングル盤。それを僕は何度も何度も聴いて、それが何語だかさっぱり分からなかったけれど、丸覚えして口ずさんでいたのだ。
スソワ、ジュスレ、ラップリュ、ベール、プーアーレードセー
それが何十年も経った今、初めて分かった!
Ce soir je serai la plus belle pour aller danser
「今夜、あたしは一番きれいな女の子になって踊りにいくわ。」
だったのだ。前半はかなりきちんと聞き取れていたな。でも後半は鼻母音を聞けてなかった。なんて反省してどうなるものでもないが、シルヴィ・バルタンの歌は、今聴いても結構いいんだ。
この時代のフレンチポップスというと、フランソワーズ・アルディなどもいるが、アルディはそこはかとない哀しみが漂っていて、聴いているとメランコリーになってきていけない。そこへいくとシルヴィ・バルタンは健康的でいい。それでいて反戦歌なども歌っていて、骨のあるところも見せる。
今週、新国立劇場では、昼間は「魔弾の射手」の合唱音楽練習、夜は「黒船」の立ち稽古が続いているが、その5時から6時までの休み時間に、シルヴィ・バルタンのCDの歌詞カードを辞書を使って訳しながら、フランス語の勉強をしていた。フランス語を勉強していると心が落ち着く。僕はフランス語が大好きなんだ。
「悲しみの戦士」という反戦歌はいいな。原題は、
Les hommes qui n'ont plus rien a perdre 「もう失うものを何ももたない男達」
で、このタイトルだけでウッときてしまうだろう。

もうひとつi-Podに登場しているのは、マウリツィオ・ポリーニの弾く「ベートーヴェン後期ピアノ・ソナタ集」。学生時代、一時期ポリーニに凝ってずいぶんレコードを集めた。ショパン・エチュードなど目が回るくらい素晴らしいテクニックに唖然としたものだったが、ベートーヴェン後期ピアノ・ソナタは、ポリーニには合わないんじゃないか、と勝手に思っていた。
 まだ音楽がよく分かっていなかった時だから、いろいろ先入観が多いのだ。たとえばベートーヴェンを演奏するなら、バックハウスとかケンプのような内面的で偉大なピアニストでないと駄目だと思い込んでいた。
しかしこの歳になってくると、人間が鷹揚になってくるというかいい加減になってくるというか、視野が広がってくるというか、より客観的で混じりけのない目で物事が見れるようになる。するとね、ポリーニのベートーヴェン後期、なかなかいいじゃないかと思えるのだ。

 テクニックはもとより完璧なので、たとえばハンマー・クラヴィーア・ソナタの終楽章のフーガなどは、めちゃめちゃうまい。でもポリーニの良さはそれだけじゃない。彼の造形力とバランスの素晴らしさは比類がない。
 ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタは、独特の構成をもっていて、中期までのアプローチが全くきかない世界なのだ。ソナタ形式の制約からは離れているが、彼独特の美意識と論理によって曲が進んでいく。変奏曲やフーガなど、かつて使い古された楽曲様式を彼は頼りにする。ソナタ形式から、彼の意識は離れつつある。ポリーニは、楽曲をアナリーゼし、思い切った強弱の切れ込みで、曲に正面から切り込んでいく。これが僕にはたまらなく新鮮なのだ。
 彼の弱音は、美しいが甘いわけではない。硬質で、どちらかというと冷たい。だから僕は、彼のモーツァルトはあまり好きではない。でも、フォルテの音の立ち上がりの快感は何にも比べ難い。これらの要素が、不思議とベートーヴェンにマッチしているのである。

「ジャン・クリストフ」の影響もあって、僕は今、ベートーヴェンにかぶれている。
2月2日土曜日。中古のCD屋で、ポリーニのベートーベン・ソナタのCDを沢山売っていたので買ってきた。これで後期と合わせてほとんどのピアノ・ソナタが揃った。これからそれらは僕のi-Podを賑わすことになる。ベートーヴェンって、やっぱり素晴らしい芸術家だ!弦楽四重奏のCDも買ってきたので、これから僕はしばらくベートーヴェン漬けの毎日を送る。



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