「お試し版」はうっかり入れてはいけない

三澤洋史 

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SP3 RC版
 週刊アスキーを読んでいたら、Windows VISTAのサービスパック(以下SP)1がすでに発表されていると出ていた。ということは、Windows XPのSP3も出たのかと思ってよく読んでみると、なになに?XPのSP3は6月までに発表予定だって。ふざけんじゃねえ!こっちはCore2 Quadの性能がかかっているんだい!
 SP3にしないとCore2 Quadは、その威力を充分に発揮出来ない。発揮出来なければCore2 Quadをわざわざ買った意味がないわけ。そうすると名古屋のモーツァルト200合唱団に迷惑がかかるのだ。風が吹くと桶屋が儲かるのだ。どうして分かってくれない、Microsoftよ!分かるわけないか・・・・。
 えーと、まだ書いてあるぞ。SP3については、すでにRC版すなわち「お試し版」が出ております、だって・・・・。おおっ!

お試し版とは・・・
 ところが、この「お試し版」という奴がくせ者なんだ。何故なら、正規版の発表を待ちきれなくて、いち早く「お試し版」を入れてしまうユーザーこそが、まさに敵の思うつぼ。彼らは好むと好まざるとにかかわらず、不具合発見の為にMicrosoft様に自己犠牲的に奉仕するモニターとなるのである。
 パソコンというのは、あらゆる可能性があるので、エラーを事前に予測できない。そこでユーザーに使わせてみて、出るべき不具合をどんどん出させてみてからその情報を収集し、対策を考え、それを元にして正規版を作り上げて発表するわけだ。つまり「お試し版」ユーザーとは、一番先に敵の弾の餌食になる最前線の歩兵であり、人身御供であり、お毒見係なのだ。だから、不具合のためにユーザーのパソコンが壊れようがどうなろうがMicrosoftの知ったことではない。なんとエゴイスティックで資本主義的考えなのだ!

 だから「お試し版」に手を出すなんて愚の骨頂なのだが、それを知っていながら、一方で僕はSP3が待ち遠しくて仕方なかった。そう、こんな時の僕は、まるで子供のよう。それに、話によるとVISTAのSP1よりもXPのSP3の方がはるかに高速ということだ。
「へへへ、ざまあ見ろVISTAめ!それにしても、入れてみたいなあ、SP3!正規版発表の6月までなんてとても待てないや!」
 まるで絵に描いたような愚か者の僕は、それから数日間、インターネットでSP3を入れた人の報告の記事を読んだり、Microsoftのダウンロード・ページを覗いたり閉じたりを繰り返していたが、ある時とうとう決心した・・・・そして決行・・・・僕は、震える手でSP3「お試し版」ダウンロードのボタンを押した・・・・。

ゲッ!エラー続出!
 ダウンロードはなんなく出来た。ところがインストールしている最中に、突然、バシバシバシーッとエラーの画面が出まくり、強制終了を余儀なくされてしまった。
「うわあ、なんだこりゃあ!」
マウスをクリックしてもキーボードを操作してもうんともすんとも動かない。仕方ないので電源を無理矢理切って終了。あらためてスイッチを入れる。すると青い画面が出た。

 嫌だねえ、この青い画面。
英語で、
「あなたは不当にもセット・アップを途中で止めましたね。止めてしまいましたね。あーあ、あとは知りませんからね。自業自得、うふふ・・・。」
みたいなことが書いてある。
 なんて意地悪な言い方。おい!セット・アップを止めたのは僕のせいじゃないぞう。あんた、自分で勝手に止めておいて、そーゆー、善良で気弱な一般市民をいたぶるようなこと言わんといて!

 それからパソコンは勝手に起動を始めたが、
「このエラーをMicrosoftに報告しますか?」
という表示がいくつも出てくる。これがウザい。ほれほれ敵の思うつぼ。そのくせ、こちらの為になる情報というのは一切くれない。原因となったファイル名というのは出せば出るのだが、そんなもの見てもチンプンカンプン。つまり何が原因でセット・アップが中止に追い込まれたかは、ついに分からず終い。
 それでいながら、コントロール・パネルから「プログラムの追加と削除」を開いてみたら、すでにSP3がメニューに入っている。セット・アップは中止したのに、厚かましいやっちゃな。まだインストールしていない内からエラー続出の「お試し版」なんて、恐ろしくてとても使えたしろものじゃないので、即削除することにした。
 ところが削除中でもエラーが出た。なんだこりゃあ。入れることも能わず、出すことも能わずかよ。頭に来たので、無視して先に進んでみた。すると、なんなくアンインストール終了、あれれ・・・・。

 ふぅーっ!くわばらくわばら!しかし最悪だね。「お試し版」を入れようなんて気を起こすものではないね。やっぱり正規版が出るまで待つべし。
 それより気になるのは、いろんなSP3関係のサイトを見ても、SP3でCore2 Quadの性能が良くなるとはどこにも書いてないんだけど・・・。あれえ、話が違うぜ。おおい、僕のニキュッパ返せ!

カラマーゾフの兄弟を読み終わって
 読み終わって一番最初に感じたことは、訳者の亀山郁夫氏のキャラクターの強い本だということ。光文社古典新訳文庫「カラマーゾフの兄弟」は、5巻に分かれているが、従来の分け方と大きく違って、ドストエフスキーが分けたそれぞれ4つの部(章)とエピローグとから成っている。それはいいのだが、第5巻に収められているエピローグは、わずか55ページしかない。それだけでは本が成り立たないので、その後亀山氏による「ドストエフスキーの生涯」、「年譜」、「解題『父』を『殺した』のはだれか」、「訳者あとがき」が300ページばかり延々と続く。つまり第5巻は、ほとんど亀山氏の本と言ってもいいのだ。
 それだけでも過剰な感じがするのに、さら第1巻から第4巻までの末尾には、それぞれ亀山氏による「読書ガイド」がついている。この「読書ガイド」は、どうやらその巻を読む前に読んで欲しいようなのだ。それが証拠に、たとえば第2巻の「読書ガイド」では、その前の巻である第1部のあらすじが語られている。それから注意するポイントが語られていて、
「さあ、それでは第2巻を読んでみましょう!」
という雰囲気なのだ。

 ところが読者からしてみると、新しい巻に入った時は、一刻も早く本編を読みたいから、いつもこの「読書ガイド」は後回しになる。すると、その巻を読み終えてから読む「読書ガイド」は、僕にとっては間の抜けたものになってしまうのだ。つまり第3巻を読んでから、第2部のあらすじを読んでも仕方ないわけ。

読書ガイドは蛇足?
 亀山氏は、「カラマーゾフの兄弟」をなんとか普及させたいと並々ならぬ情熱を持っている。彼は第5巻の「訳者あとがき」で次のように述べている。
  わたしはいつしかこんな夢を見るようになった。
日本のどこかで、だれかが、どの時間帯にあっても、つねに切れ目なく、お茶を飲みながら、あるいはワインを傾けながら、それこそ夢中になって『カラマーゾフの兄弟』を話し合うような時代が訪れてほしい、と。
 その気持ちは分かるし、亀山氏がそれほどまでに入れ込んでいるから、これほどの名訳が生まれたのだとも思うが、だからといって僕には、この「読書ガイド」を全面的に認める気にはなれないのだ。
 どんなに中立的な立場から客観的に説明しても、そもそも作品についてなんらかのコメントするということは、相手に先入観を植え付けてしまう危険性を免れ得ない。しかもここで説明している人が、今まさにこの小説の誰よりも近くにいて、この小説の一字一句と向き合っている訳者ともなれば、それは「一個人の見解」というものをはるかに超えて絶大なる権威を持ってしまう。あたかも、もうこれ以外の解釈はしてはいけませんと言ってるかのような印象を読者に与えてしまうのだ。だから人に導かれることの嫌いな僕には、「読書ガイド」は蛇足であると思えて仕方がない。

 こう言い切っている僕も、「カルメン」のあらすじや聴き所を分かりやすく語った後で、ハイライト・シーンを上演する、オペラ初心者のための「初めてのオペラ」という企画で解説をやった経験がある。そのアンケートを見て、大部分の聴衆は、
「三澤さんと小塩圭子さんのナビゲートにより、自然に内容に入っていけて、よく分かりました。」
と褒めてくれたが、中には、
「解説は蛇足だと思う。」
という意見を言う人もいて、ちょっと頭にきた。
「そんなら全曲版の本公演を見ればいいだろう。」
と思ったものだ。

 まあ、だから自分で自分の首を絞めないためにも、これ以上言わない方がいいね。ええと、つまり、僕の言いたいことは、「読書ガイド」は読みたくなければ、読まなくていっこうに差し支えないということです。

有意義な第5巻
 それにひきかえ、第5巻のエピローグの後の亀山氏による「ドストエフスキーの生涯」や論文は、僕にはとても面白かった。最初はむしろ、55ページしかないエピローグをわざわざ別の巻にして629円も取りながら、その実亀山氏の論文ばかりというのがなんとも解せないでいたのだが、論文の内容を見て考えが変わった。
 さすがドストエフスキーという作家と翻訳を通してしっかり向かい合っているだけに、作家の人物像というものが明快に描き出されていて、僕にとって作品への理解がぐんと深まったのだ。

 たとえば、ドストエフスキーは革命運動に荷担した罪で死刑判決を受け、処刑寸前で恩赦によって助かる体験をしているが、その後生涯にわたって革命運動に対して気持ちが揺らいでいたという。同時に、彼は生涯にわたってずっと秘密警察からマークされ続けていた。彼が逮捕されるきっかけとなった秘密結社の会合で述べた朗読の文章のいくつかは、「カラマーゾフの兄弟」で社会主義に染まっている少年コーリャ・クラソートキンのセリフとなっている。
 ドストエフスキーの小説では、トルストイのように主人公達の言動が整然としていないで、亀山氏がポリフォニーと呼んでいるように、いろんな人がそれぞれバラバラに自分の意見を述べたままで放置してあるが、その理由のひとつとして、登場人物の意見を自分の意見として述べてしまったら即秘密警察の検閲が入ることを警戒していたと考えることは出来ないだろうか。
 もちろんそれだけではない。ドストエフスキーの小説の中では、人物が本当に生き生きと描かれているが、きっとあるキャラクターを作家が与えると、自分で勝手に動き始めるのだろうな。

矛盾する要素
 ドストエフスキーの中では、いくつかの矛盾する要素が交錯している。彼は浪費家であり、賭博にのめり込んでしまうと、多額の金を一瞬にして使い込んでしまう性癖を持っていたという。また、元来無神論的世界観から出発した共産主義、社会主義思想と矛盾するかのように、信仰への想い、とりわけキリストへの想いが根底に流れている。彼はこう語る。
  キリストより美しい、深い、好感のもてる、理性的な、雄々しい、完全なるものは何もないと信じること。(・・・・)もし誰かがキリストは真理の外にある、とわたしに証明してみせたとしても、そして事実、真理はキリストの外にあるとしても、わたしは真理とともにあるより、キリストとともにあることを望むでしょう。
 なんという熱いキリストへの想いを彼は表明しているのだろう。このキリストへの愛と、社会主義的価値観を同居させることはあり得ないことのように思われるが、ドストエフスキーの生きていた頃の激動の社会にあって、おそらく社会主義思想とは、彼らの前に突然現れて広がった夢のような世界観であったと思われる。
 それどころか新約聖書の使徒行伝の中でも語られているように、原始キリスト教信者の社会は、ある意味徹底した共産主義社会だった。みんな自分の財産を共同体に投げ出して信者になり、全てのものを共有しながら共同生活を行っていたのだ。だから、もしかしたらドストエフスキーの中では、社会主義思想とキリストへの愛は矛盾していなかったのかもしれない。
 ただ、彼は自己の内部を赤裸々に眺めれば眺めるほど、社会主義思想の理論の完璧性と人間の実存とのギャップに向き合わざるを得なかった。仮に平等に富を分配しても、彼自身のように賭博で一瞬にして失ったり、ドミートリー・カラマーゾフのように一夜で散在してしまう浪費家がいる限り、理想的社会は決して達成されないということを身をもって知っていたのだ。
 また、子供を虐待する親や領主の逸話などによって、人間の幸福を阻む要素が、社会ではなく、人間自身の内部の『闇』の部分にあることを指摘するドストエフスキーは、政治革命を達成しさえすれば幸福が訪れるなどという安易な理想主義には懐疑的だったのだ。
 
 とにかく「カラマーゾフの兄弟」の中で表現されている世界は、淫蕩であって神聖であり、無神論的虚無感に支配されていながら信仰への熱狂性を持ち、イデオロギーを議論しているかと思えば素朴で無知な民衆を描き出す。分裂的で収拾がつかないほどのテーゼのるつぼ。だがこれこそがドストエフスキーの魅力なのである。

シラーへの傾倒
 亀山氏が指摘した事柄の中で、とりわけ興味深かったことに、ドストエフスキーのシラーへの傾倒が挙げられる。特に「ドン・カルロ」と「カラマーゾフの兄弟」との共通点を語るところは興味をそそった。第2巻でイワンによって語られる「大審問官」の話は、「ドン・カルロ」の宗教裁判長を想起させるし、この二つの物語は、ともに一人の女性をめぐって父親と息子とが対立するストーリーを持つ。
 シラーの戯曲「群盗」や「ドン・カルロ」、また詩の「歓喜に寄す」の中に表現されている、民衆による新しい世界の創造という理念も、「カラマーゾフの兄弟」では、ロシアの民衆に未来を託すことで読者に予感させている。

大地讃頌
 その際、特筆すべきは、ロシアの『大地』への想いだ。ゾシマ長老は、その生涯を閉じる時、
  床にひれ伏して両手を差しのべ、歓喜に酔いしれ、大地に口づけし、祈りながら、しずかに、嬉しそうにして神に魂をあずけた。
という。
 その後、アリョーシャにも同じような場面が訪れる。第3巻に収められている「ガリラヤのカナ」という場面は、この小説の中でも最も美しい箇所だ。ゾシマ長老を失い、心の支えを失ったアリョーシャは、長老の遺体のわきで夢を見る。イエス・キリストが最初の奇蹟を行ったとされているガリラヤのカナの婚礼の夢だ。
 夢から覚めたアリョーシャの中では、何かが変わっていた。ドストエフスキーという作家は、自然描写がきわめて少ないことで知られるが、ここでは素晴らしい自然描写で読者の心に鮮烈な印象を残す。
  微動だにしない、すがすがしい、静かな夜が大地を覆っていた。(中略)地上の静けさが、天上の静けさとひとつに溶けあおうとし、地上の神秘が、星たちの神秘と触れあっていた・・・・アリョーシャは立ったまま、星空を眺めていたが、ふいに、なぎ倒されたように大地に倒れこんだ。
なんのために大地を抱きしめているのか、自分にもわからなかったし、どうしてこれほど抑えがたく、大地に、いや大地全体に口づけがしたくなったのかさえ理解できなかったが、それでも彼は大地に泣きながら口づけし、むせび泣き、涙を注ぎながら、有頂天になって誓っていた。大地を愛すると、永遠に愛すると・・・・。
 この一帯の文章を全部引用したいが、そうもいかない。とにかくこの章だけでも「カラマーゾフの兄弟」は人類に遺された限りない世界遺産であると言い切れる。大地への想い、それこそが、あれゆるイデオロギーや宗教を超えて人類がひとつになれるキーワードなのかも知れない。

アリョーシャへの想い
 ドストエフスキーや「カラマーゾフの兄弟」に関して言いたいことは山ほどある。この小説を読み終わって、僕は、出来ることなら仕事なんかやめてもっと「カラマーゾフの兄弟」の世界に浸りきっていたいと強く思った。この小説を何度も何度も読み返し、聖書の箇所をそらんじるように、全ての箇所に精通し、「カラマーゾフの兄弟」を自分の血や肉にしたいという欲求にかられた。そして長い論文も書きたいと思った。
 だが僕は音楽家だし、残念ながら他にやることがいっぱいある。そろそろ行き帰りの京王線でもi-Podを復活させたいしね。

 ひとつだけ・・・・。他の兄弟達と同じようにカラマーゾフ的性質を持ちながらも、全てから解放されていて、その思いにおいて根底的に善良であり、その行動においても善以外の何ものをも産み出し得ないアリョーシャという人物像は、かつて学生時代の僕の指針であった。今、数十年の時を経て、再びアリョーシャに向かい合って、細かいところではかつてといろいろ違った印象を持ったものの、依然アリョーシャ的生き方が僕の指針であることに変わりがないと思った。

 それどころか、もしかしたら、ゾシマ長老がアリョーシャに、
「この修道院の壁の外に出て俗世で過ごしなさい。」
と言ったから、僕も修道院に入らずに俗世で生涯を送ることになったかも知れないと思っている。あの頃の僕は本当に「カラマーゾフの兄弟」の世界に生きていたし、アリョーシャを本当に愛していたんだ!



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