ルネサンスと宗教改革

三澤洋史 

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ルネサンスと宗教改革
 塩野七生さんの「ルネサンスとは何であったのか」(新潮文庫)を読んで、目からうろこが落ちる思いをした。ルネサンス関係の書物というと、一般的にはルネサンス期に生まれた芸術について語るものだが、この本が画期的なのは、そうした“描かれたもの”を語るだけではなく、その源泉になった“描かれなかったもの”について語り、もっと本質的な精神史における一現象としてのルネサンスを解き明かしたところにある。

 驚いたのは、“その描かれなかったもの”の筆頭として、華美なルネサンスとは最も遠いように思われた聖フランシスコの存在を挙げている。ルネサンスが、中世までのキリスト教支配からの脱却に始まるとすると、これはミスマッチではないかと思われるのだが、聖フランシスコの解き放たれた自由な精神が、時の権威主義の象徴であるローマ法王イノセント三世の心をも動かしていった事実に触れていくと、なるほど、このようにして物事は一見無関係な要素をも取り込んで発展していくのかと納得した。
 だからといって勿論、聖フランシスコがルネサンスを作ったとかいう話ではない。でも聖フランシスコは、民衆に理解不可能なラテン語を使う教会に対して、平易なイタリア語で教えを説いたり、俗世間に生きながら修道生活を送ることを認めた第三階級を作ることによって、かえって市民の経済効果を促進したという。清貧をモットーにした彼の精神は、教会にモザイクよりも質素なフレスコ画法を取り入れることを促し、それがジョットのフレスコ画を生み、ルネサンス絵画への道を切り開いたという。風が吹けば桶屋がもうかるという感じがしないでもないが、反論する材料もないし、僕は僕の霊名である聖フランシスコが褒められているので嬉しい限りだ。

 一方、神聖ローマ帝国皇帝のフリードリッヒ二世の存在は、ルネサンスの扉を開くことにもっと直接的に関係してくる。彼は、ナポリにキリスト教とは無関係なキケロ時代のローマの法律を教える大学を新設したり、本来教会的には敵であるイスラム文化に心を開いていって、キリスト教にとらわれない自由な考え方を推し進めていった。こうして教会支配による中世の闇は、しだいに曙に向かって開け始めてくる。

 そしてある時、押さえつけられていた“見たい知りたいわかりたいという欲望”が堰を切ったように流れ出る。そして、かつてギリシャ、ローマ時代に花開いていた人間賛歌の芸術が再発見され、大規模な芸術運動となって広がっていく。あとはおなじみのダ・ヴィンチやミケランジェロなど錚々たる顔ぶれが並ぶ。
 塩野さんは、美術論を語ることはあまりしないで、むしろ、フィレンツェで始まりローマに受け継がれ、言論の自由が守られていたヴェネツィア共和国に移っていったルネサンスの変遷を詳しく語る。
 さらに彼女はルネサンスを、メディチ家との関わり合い、グーテンベルクの活版印刷や、コロンブスなどがもたらした大航海時代と結びつけていき、ルネサンスといえども時代の流れの中で変革していく精神運動の一コマにすぎず、やがて爛熟から衰退を迎え、次の時代にその主役を譲って消えていく運命にあったことを強調する。このような塩野さんの、まさに血が流れ出るような生きた歴史を見せてくれる手法は素晴らしい。

 「クリスチャンとしてルネサンスをどう思いますか?」
と聞かれることも少なくないが、それ以前に僕は、クリスチャンとしてルネサンスというものにどう向かい合うべきか、考えることはよくあった。だからこういう本が本屋に並んでいると、つい手にとって読んでしまうわけだ。

 ひとつ気になることは、塩野さんが、ルネサンスと、マルティン・ルターに始まる宗教改革とを関連づけることに消極的なことだ。だが僕は、この二つは、人間の意識が近代的自我に目覚め、近代的精神に変容を遂げる上で必要不可欠な現象であったのだとずっと思ってきた。
 つまり当時の教会の絶対的な権威主義とそのあり方に「ノー!」と言わずして、その後の人類の精神活動は何も始まらなかったのだと思うのだ。だから僕には、このふたつは同じ時代の空気から生まれた兄弟のようにも思えるのだが、塩野さんの考えはちょっと違う。彼女は、ローマのルネサンスが衰微した原因は宗教改革かという問いに、直接の原因ではなかったが遠因ではあったと言っている。つまり彼女曰く、宗教改革はルネサンスにとってはマイナスに作用する要素なのだ。
  動機が良ければすべて良し、で突き進んだ人々が起こしたのが宗教改革ではなかったか、と私は思っています。とくに、ルターから五百年が過ぎた今の時代になっても、人間性はいっこうに改善されていない現状を見ればなおのこと。
 たしかに人間性は改善されていないかも知れないが、それを言っちゃあおしめーよ、とも思う。人間性はとりあえずわきに置くとしても、社会はかつてよりずっと自由で民主的になった。そうした世の中を作るために人類は、ルネサンス、宗教改革、フランス革命と一歩一歩ステップを踏んで努力してきたのだ。日本だって、鎖国していた江戸時代は、それはそれで国内は平和だったかも知れないが、やはり世界に向かって開かれた見識を持つためには、明治維新は必要だったろう。
 僕はカトリックに身を置いているけれど、宗教改革当時、ルターよりカトリックの方が良かったとは決して思わないし、ルターは実際ああするしか他に方法がなかっただろうと信じている。それにルターが出てきたから、カトリック教会もそのままではいられなくなったのだ。
 ルネサンスの側からのみ物事を見ると、ルネサンスは宗教改革によって遠回しに迷惑を被ったという話になる。つまり、宗教改革が起こったことにより、カトリック教会の内部に危機感が生まれ、その結果、今まで寛容だった教会が自由よりも締め付けに傾いた。それによって自由の中で花開いたルネサンスにも秋風が吹き荒れた。
  ルネサンスは、反動宗教改革によって殺された、と私は考えています。
 それはそうかも知れない。でもこうも言えないか?クラスにいたずらっ子がひとりいた。先生は大目に見ていたが、もうひとりいたずらっ子か出てきた。そこで先生は、いよいよこれはなんとかしなければと思い、
「いいかげんにしなさい!」
と言って、ふたりとも懲らしめた。ところが最初のいたずらっ子は、ふたりめのことを、あいつが出て来たから僕まで怒られてしまった、と文句を言った。
 だからルネサンスも宗教改革のせいで自分たちが衰退したと文句を言うのはやめましょうよ。同じ穴のムジナなのだから。要は、いたずらっ子が出てくる土壌があったってことだからね。いずれにしてもルネサンスも宗教改革も、教会が油断していたごく限られた時代をねらってつかの間現れたいたずらっ子なのだ。ルネサンスは素晴らしい作品群として残ったから最大限に評価されているけれど、宗教改革は形の残らない精神運動だから、その後近代から現代になって人間の宗教心が落ちてくると、塩野さんによって「人間性はいっこうに改善されていない。」と簡単に言われてしまうのさ。

 こんな風に、この本を読みながら、いろいろ考えるのはおもしろい。その最良のオカズを与えてくれる塩野さんには本当に感謝しているよ。その勢いで塩野さんの「ローマ人の物語」も読みたいんだけれど、膨大なのでとても今の僕に読破できる自信がないなあ。長くてもひとつのストーリーを持つ小説だったら読めるのだけれど・・・・。

いつか老後のために取っておこう。

「愛はてしなく」スコア執筆中
 なるべく家にいたい。朝起きてタンタンのお散歩をすると、二階に上がって愛機Super Wish君(自作パソコン)を起動するのが楽しみだし、仕事が終わると家に帰るのが楽しみだ。我が家に新しく赤ちゃんが生まれた時とか、タンタンがはじめて家にやってきた時の気持ちに似ているよ。
 なんでかっていうと、今、夏に上演する自作ミュージカル「愛はてしなく」のスコアを執筆中なのだ。この作品は1995年に一度、新町歌劇団で上演したが、その時はピアノと補助的に使ったキーボード一台だけの伴奏で行った。だからオーケストレーションするのは今回が初めて。
 僕のミュージカルは、例によって様々なジャンルの音楽が見境なくまぜこぜになっている。特に今回の作品は、キリストの時代のユダヤというだけあって、アラビアンな民族色豊かなのだ。

 冒頭の「娼婦の館」という曲は8分の7拍子というお得意の変拍子。エレクトーンに割り振った音色はチターなどの民族楽器。シンセ・パーカッションも、トルコ風タイコやインドのタブラ・バーヤなどが活躍する。かと思うと、ショパン風のメランコリックな音楽やバルトーク、ストラヴィンスキー風の原始的リズミと複調的和声を持つ音楽が交差する。 キリストの出てくる場面では(ネタバレしてしまうけど)、Rシュトラウスの「サロメ」のヨカナーンの場面と、ワーグナーの「パルジファル」からパクッた和声を組み合わせた。今でもこの場面になると冷や汗が出る。でも料理してあるので意外と気がつかれない。
 と思うと、娼婦の馬鹿騒ぎの場面では、ディキシーランド・ジャズに乗って、娼婦達がチャールストンを踊る。その直後ローマ兵が娼婦の館に踏み込み、ローマ司令官アリウスとマグダラのマリアの二重唱になるが、この部分はトスカとスカルピアのパクリ。おお、いいのかなこんなにバラして・・・・。なのでアレンジは、とても悩むのだけれど、とても楽しいのだ。

 この土日は新町歌劇団の練習のため群馬に行ったから中断しているが、現在第一幕「ハヌカの祭り」を終わったところ。まだ最初の方だね。ローマ帝国に支配されているユダヤの民の鬱憤が、祭りの興奮の中で暴動に変わる。
 この場面を最初に構想した頃、「湾岸戦争」に胸を痛めていた。その後の9.11と「イラク戦争」を経た現代では、さらに大きな意味を持っており、今この作品を上演するのはタイムリーとも言える。この二千年もの間、中東は何一つ変わっていないのだ。

 祭りの暴動のさなかに、マリアは隠れるようにして現れ、恋人である熱心党指導者ノアムとすれ違いざまローマの情報をノアムに流す。ノアムと落ち着いて逢いたいと告げるマリア。だがノアムは自分の使命にとても忙しい。
 彼女はローマと熱心党との間を行き来する二重スパイ。情報を得るためとはいえ、ローマ人に抱かれる高級娼婦であるマリアを許せないノアムの苦悩。マリアは、ただノアムとの愛のために、ローマと通じているのに・・・・。この場面をアレンジしていて胸が熱くなった。この出口のない恋路。うーん、切ない・・・。

 「愛はてしなく」の物語は98%僕の創作だ。マグダラのマリアに関する記述は、聖書の中ではとても少ない。ダヴィンチ・コードで語られているように、彼女が本当にイエスの妻だったので、意図的に削除されたのではと思うほどだ。だから、本当のところ、彼女が七つの悪霊を追い出された女であることと、キリストが十字架にかけられた時と、復活の時にそばにいたという事以外は何も分かっていないのだ。

 その上に僕が2時間半もの作品を作り上げたのだから、まさに砂上の楼閣。嘘八百。まあ、何とでも言ってくれ。

 もうひとつの特徴は、この作品ではキリストが登場する。なんと初谷敬史(はつがい たかし)君がやるんだよ。かつてドクター・タンタンをやった彼は、今でもミュージカル・ワークショップの練習で僕に、
「タンタンじゃないんだから!」
と怒られる。でも本番近くになるときっとキリストっぽくなってくるだろうと期待している。僕は、ここで熱狂する民衆とキリストとのギャップと、キリストの内面の孤独を描き出してみたい。

 このミュージカルのテーマは「赦し」だ。人が人を果たして赦せるのか?「カラマーゾフの兄弟」でも取り上げられた重いテーマだが、僕はそこに自分なりの結論を表現してみた。その結論を知りたかったら、作品を見てもらうしかないのだが、キーワードは、
「それは人間にできることではないが、神は何でも出来る。」(マタイによる福音書第19章26節)
だ。
 どうにもならない袋小路に陥ったまさにその瞬間、奇蹟が起きる。この瞬間、きっとお客様は泣いてくれるだろうと思う。ガンで亡くなってしまった新町歌劇団のかつての団長福田淳さんが、前回の公演が終わった後、
「奇蹟が起きた瞬間、どうにも涙が止まりませんでした。理屈ではありませんでした。」
と言ってくれたのを忘れない。

 さあ、これから夏に向かってまた新国立劇場での仕事と平行して多忙な日々が続く。5月18日には、六本木男声合唱団倶楽部がサントリーホールで新日本フィルハーモニーを使って演奏会をするし、その一週間後には東京バロック・スコラーズの演奏会がある。6月末にはオペラシティでガーデン・プレイス・クワイヤーによる「マタイ受難曲」の演奏会。7月は子供オペラ「ジークフリートの冒険」。
 その間を縫ってスコア作成は続くよどこまでも・・・・。あああ、僕には休息というものは許されないのか。でもまあ、楽しい人生だからいいか。

 ええと、ゴールデン・ウィークは、済みませんがやることがあるので、一週間だけ「今日この頃」をお休みさせて下さい。次の更新は5月11日になります。



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