二人の指揮者

三澤洋史 

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二人の指揮者
 今週は、新国立劇場で「椿姫」初日の幕が開いた。指揮しているのは、前にも書いた上岡敏之さん。ドイツの劇場でコレペティトールから叩き上げた人だ。そうした現場での経験の長さは随所に現れている。
 まず、当たり前だが、このオペラを隅々まで知り尽くしている。「椿姫」が、指揮者の立場から見てどこが難しいか、歌手達がどこでどうテンポを崩し易いか、オーケストラがどこでバランスを崩しやすいか、ずれ易いか、それをどう導いていけばうまくいくか、全て知っている。

 指揮者がスコアを読む時、紙の上だけだとどんな解釈も可能なのだが、実際にやってみると、テンポもフレージングもバランスも、「これで納得」と思わせる範囲というのはかなり限られている。シンフォニーでもそうかも知れないが、オペラではそれが顕著だ。
 どんなに才能があっても、経験のない指揮者はそこで失敗する。しかもそれが、歌手達が本気を出して歌った公演初日に初めて分かったりするのだから始末が悪い。

 オペラの経験が長いということは、そうした失敗例を沢山見ていることでもある。あるいは、場合によっては自分で失敗しているということでもある。僕も長い間の副指揮者時代に、反面教師として、
「ああやってはいけないのだな。」
という例を数限りなく見てきたし、自分で指揮していて思うようにいかず、
「次はこうしてみよう。」
と反省した経験も少なくない。
 また、歌手達が練習中にこうなっていたら要注意だけれど、この過ちは放置していても大丈夫とかの見極めは、経験を積まないと絶対に出来ない。その見極めを誤って失敗した例は数限りない。オペラでは、あらゆる種類の“事故”が起こり得るのだ。だからこそ、指揮者が大成するためには、コンサートだけでなくオペラも経験することが本来不可欠なのだ。

 上岡さんは、自分で失敗した経験は、僕とは違ってあまりないだろうが、ともかく今日に至るまで沢山の事故現場を見てきたことだけは間違いないだろうと思う。だから彼の解釈には、個性的な部分は沢山あっても、未熟さからくる机上の空論というものがひとつもないし、舞台上で起こる聴衆には分からない程度の小さなアクシデントに対する対処の仕方も全て適切だ。これが経験の勝利というものだ。
 彼の「椿姫」は、そういう風に演奏されてみると、当たり前のような自然な流れを持っているが、その中身を知っている僕にとっては、それだけで実は驚くべき事なのだよ。

 もうひとつの利点はバトンテクニックだ。彼は実に鮮やかに指揮をする。スコアは全部頭の中に暗譜していて、適切なところで適切に指示を出す。それでいて拍を刻むだけの指揮ではなく、音楽の目的地を示し、大きくフレージングを捉えている。カンタービレの所では棒を止めてしまう寸前まで動きを抑えながら、音楽の息吹を大切にしている。

 こうしたことの出来る指揮者って、日本人で一体何人いるのだろう。上岡さんにとっては、ドイツで仕事する方がやりやすいのかも知れないし、まだまだいろいろ彼なりの野望もあるようだから、彼が日本に帰ってきて腰を落ち着けるなんて、当分は望むべくもないが、こうした真の劇場人が、もっともっと我が国で仕事してくれるのを僕は望むなあ。

 一方、週の中頃、新国立劇場合唱団は、ダン・エッティンガーの指揮でひとつのコンサートをした。これは東フィルのスポンサーであるマルハンという会社の創立60周年記念コンサートで、横浜のみなとみらいホールで行われた。合唱団が歌った曲目は、タンホイザーより「歌の殿堂を讃えよ」、アイーダより「凱旋行進曲」などなど・・・・。
 でも、このコンサートの目玉商品は、日本人、韓国人、中国人の三大テナーの競演だった。日本人は福井敬(ふくい けい)さんだったが、彼の歌うカタリ・カタリ(うすなさけ)をオケで伴奏するダン・エッティンガーに感心した。

 先ほどの話とも共通するけれど、経験がものを言うオペラ指揮者という意味では、まだオペラ経験が長いとは言えない若手のダンだが、彼の場合は天性の勘の良さがあるのだろう。歌手のちょっとしたニュアンスを読み取る力に優れていて、その意向を汲みながら即興的に彼なりの味付けを加えていく。そうして出来上がってみると、きちんと首尾一貫した音楽になっている。

 三人のテノールは、合唱団のバックに乗って「フニクリ・フニクラ」や「女心の歌」、「誰も寝ては」ならぬ」などを交代しながら歌っていたが、最後には腰越満美(こしごえ まみ)さんのソプラノが、三人の男性を従えて「椿姫」の「乾杯の歌」で締めくくった。それらのダンのサポートも、どれも秀逸。

 ダン・エッティンガーという指揮者を最初に発掘したのは、新国立劇場前音楽監督のノヴォラツスキーだ。なんでもテルアビブのホテルで偶然会い、いろいろ話している内に、ピンときたということだ。そこで、
「お前は自分のことを良い指揮者だと思うか?」
と訊いたところ、なんのてらいもなく、
「そうだ。」
と答えたので、新国立劇場に呼んで「ファルスタッフ」を振らせたそうだ。
 それから間もなく、彼はバレンボイムの招きでベルリン国立歌劇場に呼ばれた。そして今度はマンハイム歌劇場の音楽総監督になることが決まった。

 ダンには注目しておいた方がいい。彼は人なつこく、しなやかで、少しも威張ったところがないが、潜在的には物凄く才能がある。休憩時間に彼の楽屋に行くと、いつもピアノを弾いている。そのピアノがとても音楽的でうまい。歌を歌えばきれいな声だ。
 彼は理詰めで音楽を構築するタイプではない。ある意味、ひらめきを大切にし、即興性に優れているが、彼の最大の長所は、それでいてブレないということだ。それは最初の「ファルスタッフ」の時からそうだった。舞台上で何が起こったとしても動揺することなく自分の音楽をする。必要な時には、必要な手を差し延べる。これは通常、経験豊かな指揮者にして初めて到達できる境地なのに、ダンの場合、最初から軽々とその境地に達している。

こんな若者が時代を動かすのかもしれないと、僕はダンを見ながらいつも思っている。

編曲者の地味な歓び
 さて、マルハン・コンサートのアンコールでは、マルハンの社歌である葉加瀬太郎作曲の「NEXT」という曲が演奏された。この曲では実は苦労したのだ。届いた譜面では、オーケストラ用のアレンジは施されていたのだが、歌の声部は、前奏と後奏に合唱用のパートが書いてあるだけで、それ以外はソロ歌手用の主旋律が書いてある。でも、そのポップス調の曲を歌うようなソリストはいない。
 勿論、合唱団にそれをユニゾンで歌わせるという選択肢もなくはなかった。でも、せっかく新国立劇場合唱団が歌うのに、ずっとユニゾンというのも悲しいものがある。そこで、東フィルのマネージャーとも相談の上、僕が合唱用のアレンジを引き受けて、全体をもっと華やかに仕上げましょうということになってしまった。それが東京バロック・スコラーズ(TBS)演奏会の数日前。
 このように、僕の場合、気がつくといつも忙しい時にもっと忙しくするようなことを引き受けてしまうんだな。こういう風に、おせっかいの果てに貧乏クジを引くというのが、僕の人生における宿命なのか・・・・。

 スコアが、オケの編曲者によってパソコンの譜面ソフトFINALEで作られていたので、それを添付ファイルとして自宅のメルアドに送ってもらって、その上に合唱譜を編曲していった。仕上がったら、それを今度は添付ファイルにして送れば、先方はプリントアウトして製本し、合唱団用楽譜として仕上げる。全く、便利な世の中になったもんだよ。電気が譜面を運ぶのだ。しかもFAXのように劣化しないのだからね。
 ただ残念なことに、TBSの演奏会が近かったので、編曲に多くの時間は割けなかった。だから、あまり凝らずにシンプルに仕上げた。それが合唱練習初日の前の日。
「もっと懲りたかったんだけどな。」
と団員達に言ったら、
「初見で歌う我々にとっては、このくらいでやめといてもらって助かった。」
とみんな言っていた。

 でも合唱で実際に音を出してみたら欲が出てきた。これでも悪くはないのだが、後半、テーマが繰り返されるところで、同じ編曲をコピー・アンド・ペーストしただけだと、盛り上がりに欠け、面白くないのだ。
 すぐに直したかったのだが、TBS演奏会はレクチャー・コンサートで、そのスピーチする原稿が後回しになってしまっていた。特に最後に合唱団とオケが舞台に登場するきっかけのセリフだけは、早く係の人に教えなければならない。編曲の直しは脇に置いておいて、急いでスピーチ原稿を仕上げた。でも今回は自分の書いた原稿を覚える時間がなかった。
 僕の場合、原稿を覚えなかったからといって、話に詰まるようなことは起きない。そうではなくて、心配はむしろ、原稿を作らないと話が止まらずに果てしなく伸びてしまうことにあるのだ。まったく、自分で思うけど、口から先に生まれてきてしまった。前回の「バッハとパロディ」演奏会では、原稿を読んでいても予定時間より伸びて主催者をハラハラさせた。
 で、結局覚えられなかったままだったのけれど、今回はスピーチは一カ所だけだったし、多少伸びても構わなかったので、かえってくだけた感じで自然に話が出来て、評判は前回より良かった。

 演奏会が終わった次の日、僕は早速「NEXT」の楽譜に手直しを加えた。メロディをテノールとアルトに割り振り、ソプラノには高い音域を歌ってもらうことにして、後半かなり盛り上がるようになった。
 合唱団員達は、
「ええ?!また初見に戻るわけ?」
ととまどっていたが、練習をすると納得してくれた。

 その「NEXT」を最初にオケ合わせで響かせた時の感動は、アレンジャーじゃないと分からないだろうな。ダンは、最初この見知らぬ日本のポップス調の曲がよく分からなくて、指揮棒を振り上げてから腕を止め、おっとっとっととあわてる楽員を前にして、
「ええと・・・僕、この曲よく分かっていないんだけど・・・・フランツ・・・テンポどのくらいだっけ?」
と言って、楽員を吉本風にコケさせていた。でも一度通したら、
「結構いい曲じゃないか!合唱の編曲もなかなかいいぜ。フランツ、やるじゃん。」
と言ってくれた。

 その曲が全国から集まってきたマルハン幹部やお客様達の前で演奏されたのだ。しかも初めて大管弦楽とプロの大合唱でみなとみらいのホールいっぱいに響き渡ったわけだ。自分で言うのもなんだけど、なかなか感動的だった。
 合唱団員達は、次の日「椿姫」初日に会った時、口々に、
「NEXTが頭から離れない!」
と言ってくれた。「おにころ」の「愛をとりもどせ」と全く同じ下降形バスを伴った和声進行を持っている葉加瀬太郎作曲の原曲もいいんだ。
 こういうのって、ある意味、地味な喜びかも知れないけれど、編曲者の幸福感というものがあるんだということは、皆さんにもちびっと知っていて欲しいな。

國光ともこさんのマリア
 自作ミュージカル「愛はてしなく」の主人公マグダラのマリア役の國光(くにみつ)ともこさんと初めて合わせをした。國光さんは、元来僕好みの柔らかい声だし、バルバリーナなどで演技力も評価していたが、マリアの役は、語りっぽく歌う箇所で意図的に低い音域が出てきたり、通常のオペラとはちょっと曲の雰囲気や形式が違うため、どういう風に取り組んでくれるのかやや不安だった。
 でも、合わせをしていながら、そんな心配が無用などころか、むしろ理想的なマリアが出来る予感に満たされて、ワクワクしてきた。

 音楽や台本、あるいは作品のテーマに対し、彼女がひたむきに取り組んでくれる姿勢がまず嬉しかったし、なにより彼女の人間性からにじみ出るなんともいえないやさしさが、この作品に深みを加えてくれる気がする。途中で盲目の少女アンナ役の佐藤泰子さんが加わって、二人の場面を練習した。

 恋人であり熱心党の首領であるノアムが殺されて、生きる希望を失っていたマリアは、孤児である盲目の少女アンナと出会う。マリアはアンナの母親代わりになろうと決心するが、実はアンナは、マリアがローマとユダヤの二重スパイをしていたせいで両親を殺されていて、妖女マグダラのマリアを憎んでいたのだ。

 愛情と憎悪。罪と悔恨。そして赦しと罰。そうした重いテーマを背負っているこの作品の成功を握る鍵は、マリアとアンナの二人の歌と演技力にかかっていると言っても過言ではない。でも、みなさん、絶対これは感動的な公演になりますよ。二人とも素晴らしいですよ。佐藤泰子さんも、いつも通りの体当たりの歌と演技で迫りますからね。

 来週になると、いよいよアリウス役の大森さん、ノアム役の阿瀬見さん、モレブ役の北澤さんなどの練習が開始する。また報告しますよ。楽しみ、楽しみ!

 でも・・・・オーケストレーションが・・・・マタイ受難曲などの準備の合間にやっているんだけれど・・・・間に合うのかな・・・・毎年夏になるとこんな心配しているなあ。
 まあ、毎年、なんとか間に合っているのだから、今年もきっとなんとかなるでしょう・・・・と・・・・ノーテンキなこと言っていて、後で血みどろの日々が待っているのも・・・・・毎年の夏のことですなあ・・・・本当に・・・・いつになっても・・・・懲りないですなあ。



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