暑くて長かった夏

三澤洋史 

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終わった!
 この原稿を書いているのは、8月18日の朝。
「愛はてしなく」最終公演が終了し、打ち上げで盛り上がって酔っぱらい、家に帰ってきてバタン・キューと寝て、今朝はすっきりさわやか目が覚めた。でも、愛犬タンタンの散歩をしながら、すべてが終わってしまったことに気づき、祭りの後の淋しさが僕の全身を包んでいる。
 今日の午後から、新国立劇場では「トゥーランドット」の合唱音楽練習が始まる。また、志木第九の会のドボルザーク作曲「スターバト・マーテル」演奏会や、名古屋のモーツァルト200合唱団のメンデルスゾーン作曲「パウロ」の練習など、いろいろが押し寄せていて、僕の音楽生活は、昨日で終わったどころか、少しも滞ることなく続いていく。
 本当は2,3日、温泉にでも行ってぼんやりもしたいところだが、逆に言うと、そんなことしたら本当にふぬけになってしまって、社会復帰出来なくなってしまうので、スケジュールで背中を突っつかれているくらいが丁度いいのだろうな。

 自作の上演というのは、他人の曲を演奏するのとは全然違うのだ。特に僕は、指揮者のみならず、公演監督でもあり、演出家でもあるから、作品も演奏も全ての面において責任を負っている。だからこちらから放出するエネルギーの量が違う。
 新町公演も合わせて、この半月というもの、毎晩練習が終わるとくたくたになって帰宅。誰よりも先にビールの缶を開けてグビグビっと飲み、酔っぱらってそのままベッドに倒れこむ日々が続いた。
 公演が終わるとすぐに別の仕事が待っているので、練習の合間を縫って、少しずつ今後の仕事のスコアの勉強や準備にかかってはいたが、やはり頭の中はこの作品のことで一杯で、なかなか能率が上がらない。しかも精神はかなりハイテンションな状態が続いていた。
 こんな状態がもし今後もずっと続くとしたら、確実に精神に異常をきたしてしまうだろうと思った。だから早く終わって、落ち着いた日常生活に戻りたいと思っていたが、同時に「ああ、もう終わってしまうんだなあ。」という気持ちが、国立公演が近づいてくるにつれて生まれてきた。
 不思議だね。こんなクレイジーな状態なのに、一方では「僕は、今、紛れもなく生きているんだ!」という生命の輝きも、バシバシ自分に降り注いでいる。

またまたBOSEの話
 「愛はてしなく」新町公演が終わった翌日、すなわち8月11日月曜日に話は戻る。くにたち市民芸術小ホールに行ってみると、舞台仕込みが始まっていて、舞台監督をはじめとしてスタッフ達がかいがいしく動いていた。
 芸小ホールに入っているアイジャックスの人達は、舞台スタッフとして確実に仕事をこなすだけではなく、作品にのめり込んでくれるから好きだ。照明も、こうなって欲しいと思うことを全て抜群のセンスでやってくれる。

 音響もそう。エレクトーンやシンセ・パーカッションの音を出すのには、専用のトーン・キャビネットがあるが、国立ではそれを使わずに、音響さんが一度楽器からラインで引き取って、劇場で用意したスピーカーから出してくれる。そのスピーカーが僕の好きなBOSEだというのが嬉しい。いや、嬉しいだけではないよ。これが本当に素晴らしい音がするんだ。

 エレクトーンの最新機種であるYAMAHA・STAGEA(ステージア)の音は案外難しい。音はきれいで派手なのだが、ひとつ前の機種EL900と違って、音色はポップス用に傾いている。それに、スピーカーによってかなり音質に差が出てしまうのだ。新町で使ってみて分かったのだが、専用のトーン・キャビネットとの相性もあまり良くない。これは、そもそもEL900用のものなのだ。
 また、音をきれいにするために、それぞれの音色にリバーブ(エコー)を多めに使っている関係で、STAGEAの音像は、ちょっと遠い感じがする。つまり、そこに楽器があるというよりは、むしろコンサート・ホールでその楽器を聴いている感じ。あるいはCDの演奏を聴いている感じといったらいいだろう。
 たとえば杏奈が吹くクラリネットのフレーズのすぐ後で、そのメロディをエレクトーンの演奏するフルートやオーボエで引き継いだ場合、同じ空間で演奏しているように感じられない。その点に関しては、プレイヤー達にお願いして、音色ごとにエコーを取るなどして、出来る範囲で改善してもらった。このように、音色ごとに自由に音色やエフェクトをエディット出来るのはEL900譲りだ。シンセサイザーっぽいのだね。ちょっと面倒くさいけど、便利ではある。

 驚いたことに、STAGEAでは、スピーカとの相性によっては、音色の印象がガラリと変わる。芸小ホールのBOSEのスピーカーから出る音は、専用のトーン・キャビネットとは全く違うサウンドに聞こえた。BOSEのスピーカーは元来臨場感に優れているため、音像がずいぶん近く、リアルに聞こえるのだ。
 僕はSTAGEAのクラシック系の音色にかなり懐疑的だったのが、今回、BOSEのお陰で、初めてSTAGEAの良さを味わうことが出来た。まあ、優秀な電子楽器であることは間違いないのだが、うまく環境を整えないと、その真価を発揮出来ないということだな。
 オーケストラ・ピットの中で落ち着いて音作りが出来たことも手伝って、サウンドに関して言うと、国立において、僕が書いたスコアが初めて忠実に再現された感がある。またまたBOSEの素晴らしさを再認識!

間に合わない!
 月曜日の午後に舞台スタッフの素晴らしさに嬉しくなっていた僕であるが、その晩になって、ミュージカル・ワークショップの人達との練習が始まってみて愕然とした。準備が全然出来ていない!
 それもそのはず、主役のキャスト達は全員新町と同じなのだが、合唱は、新町公演は新町歌劇団が、そして国立公演では、ミュージカル・ワークショップのメンバーがつとめることになっている。つまり全く別の人達だから無理もない。

 僕は、前の週、群馬入りして新町公演のためにかかりっきりになっていた。新町歌劇団が、本番のために数日かけてラスト・スパートをかけ、レベルアップを遂げていったとしても、国立のためには何の役にもたっていなかったということは、頭では分かっていた。でも本番を終わった僕は、どうしてもそのテンションのままで国立入りしてしまう。すると、レベルだけでなく、志気の盛り上がりという意味でも、そのギャップは予想以上だった。

 さらに追い打ちをかけたのが、人が集まらないということ。勿論アマチュアなのでこちらから強制は出来ないのだが、国立公演をお盆直後に持ってきたのは、その時期なら、普段の練習に忙しくて参加できなかった人でも、最後の週の少なくとも午後6時から始まる通し稽古には参加してくれるのではないかという淡い期待からだった。
 だが僕の目算は甘かった。東京の人は忙しいのだね。特に主要な所を演じなければならない男性キャスト達が、仕事で全然来れない。そしてこの状態がなんと週末まで続くそうなのだ。彼等が今の時点で完璧に出来ていればまだしも、とてもこのままでは舞台に出せる状態ではない。僕は絶望的になった。

新町歌劇団への要請
 そこで僕は決心した。練習終了後ただちに駄目もとで、新町歌劇団の事務局長のところに電話した。
「国立の公演がピンチなのです。熱心党の党首と用心棒とローマの役人など、もし来られる人がいたら、土、日だけでいいから来て公演を助けてもらえませんか?」

 つまり、新町の人達に急遽出演してもらう要請である。本当は、昨年の10月から練習しているミュージカル・ワークショップの人達を全員生かして、彼等だけで上演したかった。しかしそうは言ってられない。東京の場合、来る観客の方も辛口批評の人が多いし、みんな目も耳も肥えている。やたらなものは見せられない。

 新町歌劇団事務局長は、早速手配してくれた。熱心党の党首の女性などは、ピアノ教師をしているが、週末の十数人の弟子を断って国立入りしてくれることとなった。前の週だって新町公演のためにレッスンが滞っていたのだろうに・・・・なんて奇特な人・・・・って、そう無理矢理頼んだのは誰ですかあ?
 で、結局男性3人と女性2人の出演者。それに付き添いで、合計8人の人達が群馬から来てくれることになった。

 ふうっ!これでやっと公演が成立する。新町の人達、自分たちの公演をするだけでも大変だったろうに、これでやっと平穏な日々が戻ってきたと思ったら、またかり出されて週末全部使われてしまうなんて、踏んだり蹴ったりだね。でも、こうして僕が困った時、彼等は、自分たちのことはさておいても助っ人に駆けつけてくれるんだ。なんて有り難い人達!
 新町歌劇団を結成して20年以上経ったが、その間に培ってきた絆の強さは、僕の人生において最も誇れる財産だと確信した。

やっとエンジンが・・・
 さて、新町歌劇団からの助っ人の話をミュージカル・ワークショップのメンバーにしたら、彼等の間でも緊張が走った。僕が、彼等のレベルにショックを受けて絶望的になっていたことは、彼等の側からしてもショックだったに違いない。

 これから週末の公演にかけて、オフィシャルには全て18時から練習が始まるが、誰ともなく自主練習をしないと間に合わない、と言い出して、毎日13時から練習を開始することとなった。おお、やっとみんなもやる気になってきたね!
 イエス役で出演している初谷敬史(はつがい たかし)君と、振り付けの佐藤ひろみさん、それに練習ピアニストの木住野睦子(きしの むつこ)さんも、急遽昼間の練習に来てくれることとなった。みんなみんな損得抜きでこの作品につきあってくれる。本当に有り難い。
お陰で、練習は急ピッチで進んだ。みんなの志気は一気に盛り上がってきたぞ!

降りてくる・・・
 自作なので、これから話すことは、人によってはとても傲慢に聞こえてしまうかも知れないが、こうした精神性、霊性の高い作品を上演する場合、僕自身、ある特別な精神状態になる。
 それは、この作品の台本を制作していたり、作曲をしていた時にすでに始まっていた。体全体が、なにか暖かいものに包まれているようになるのだ。子供の頃、自分が夢中で遊んでいて、ハッと気づくと、遠くの方から母が自分を暖かいまなざしで見つめていることがよくあったが、それに似たまなざしを感じるのだ。ゆったりとして静かなまなざし。それは神のまなざしなのか・・・・?でも、そんな時は、自分が何故か神に愛されていることを確信出来るのだ。

 それが公演における演奏行為となると、そのまなざしはもっと強烈で、その臨在感ははっきりした現実味を帯びる。つまりは、よく言われるように“降りてくる”という感じになるのだ。僕だけにではなく、会場全体にそれは“降りてくる”。
 特に、初谷君の演じるイエスが、会場の後方から静かに現れる瞬間から、新町でも国立でもそうだったが、会場の内部に強力な磁場が生まれるのを感じた。霊感の強い人なら誰でも感じられるが、実際僕のもとにも、公演後、そう言ってきてくれる人が何人かいた。
 普段はおちゃらけていて、かつての「ナディーヌ」のドクター・タンタンが抜けない初谷君なのに、イエスのコスチュームを身にまとった瞬間から、何故か豹変する。衣裳というのは、霊的なものを呼び起こす力があるんだね。今回初めて分かった。
「さいわいなるかな、心の貧しき者」
と説教をする場面などは、初谷君だと分かっていても胸にこみ上げてくるものを感じる。って、ゆーか、その降りてくる実体というものがあまりにも高く、もしかしたらキリスト本人?とさえ思えるほどだ。そして、その実体によって、会場内の空間自体が清められるのを感じた。

 話は飛ぶが、ワーグナーが「パルジファル」に舞台神聖祝典劇と名付けたのは、こういう意味なんだなと理解した。ワーグナーも「パルジファル」で、空間を清めたかったのだ。
「ここでは時間が空間となるのだ。」
このワーグナーの台詞の意味を理解することの出来る人は、空間の本当の秘密を知っている人だ。
 空間というものは、本当は、時間と一体となって実は幾層にも重なり、音楽とドラマの力を得たりすると、それによって別のステージへと高められ、清められ得るものなのだ。

 この作品を観て、大勢の人が泣いてくれたが、ここで涙を流せる人は、魂の中に研ぎ澄まされた霊性を持っている人だ。それが呼び覚まされたのだ。みんな、悲しくて泣いたわけではないからね。だから泣いた人は自分の魂がピュアーであることを誇っていい。みんなみんな神の子なのだ。

 暑くて長い夏は終わった。生命がはじけて、飛び散った。ばらばらになった破片をゆっくりと拾い集めて、静かな日常の中に格納しよう。そしてまた、次の輝く瞬間のために充電をしておこう。

この公演に関わった全てのみなさん、本当に本当に素晴らしい夏をありがとう!



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