「あいはて」が抜けない!

三澤洋史 

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「あいはて」が抜けない!
 自作ミュージカル「愛はてしなく」の群馬と国立の全公演が終わって、自分にとっての暑い夏が終わりを告げると、それに呼応するように気候も涼しくなってきた。電車や建物から外に出た時に、外気の方が涼しいって嬉しいね。でも、それだけに、なんだか祭りの終わりの淋しさが強調されるような気がする。
 新国立劇場では「トゥーランドット」の合唱音楽練習が始まった。アリウス役のの大森一英(おおもり かずひで)さん、ノアム役の阿瀬見貴光(あせみ たかみつ)さん、アンナ役の佐藤泰子(さとう やすこ)さんの三人は、新国立劇場合唱団の契約メンバーなので、僕と一緒に「トゥーランドット」に取りかかっているが、みんな「あいはて」が抜けないようで、体にメロディーがくっついて歩いているそうだ。大森さんは、お風呂に入るときまって、
「癒されぬ、胸の奥の深き傷跡~」
と歌っているそうだ。

 僕はずっと、なんだか気が抜けたようになっている。勿論やることはきちんとやっているのだが、「トゥーランドット」の練習している自分を、どこか別の所から他人のように眺めているもう一人の自分がいて、これって一体誰?って、ゆーか、どっちが本人?
 週の中頃になってやっと二人の自分が合わさってきた感じだ。夢の世界にいたような自分が、しだいに落ち着いてきて、日常生活に溶け込んできた。そうすると今度は、「あいはて」の本番に向かってもの凄いエネルギーを出していた頃の自分がまるで他人のように感じられてきた。遠い外国の遠い昔の出来事のようにすら感じられる。あれは一体なんだったんだ?あれは本当に今の自分と同じ自分だったのか?こんな風に思うなんて全く不思議な感覚だ。

許し、このはてしないテーマ
 「罪と許し」がテーマの「愛はてしなく」。終わってみてあらためてこのテーマの重さを考える。今さら種明かしをするわけではないけれど、「人間は他人を本当に許せるのか?」という問いに対しては、僕は、実はノーという答えを用意していた。ただし「人間には」という条件付きでね。それは、「人間は他人を本当に愛せるのか?」という問いと似ている。

 “愛”は美しい概念で、みんなが口にしているが、愛というものは本来、「そら、これが愛だ!」と人に見せられるものではないし、愛の周りには沢山の偽善やエゴイズムや欲望などのまがいものがある。人は愛を語りながら欲望に従い、それが愛だと勘違いする者も後を絶たない。純粋な愛など、この世では見たことがない。だから、人間は他人を本当に愛することは出来ないんだ・・・・・。
 うーん、それはそうなんだけど、では、愛というものはそもそも存在しないのかと言われると、みんな愛の存在を否定はしないだろう。この世においては、ものすごくゆがみながらでも、愛はかげろうのように存在しているし、人はそれをかいま見ることが出来る。 最初は欲望から入っていった男女の仲でも、ある瞬間、お互いの間に純粋な愛を感じ、それだけで感動したりもする。そして、そこから精神的なものが育ってきたりもする。

 “許し”もそれに似ている。だが許しの方がもっと複雑だ。「うん、許してあげるよ。」と、口では言っても、心のどこかでその人のやった行為に対して根に持ち続けている自分を感じる。人は他人のささいな行為に対しても違和感を持ち、自分にはこだわりを持ち、どんな小さな摩擦に対してもわだかまりが抜けない。人間は、とことんエゴイスティックであり、人を簡単に許すほど心が広くない。嫉妬深いし、自分が大切にされないと嫌だし、他人の心ないひとことがグサッと心に突き刺さったら、もうそれがトラウマになって、他人に寛容であるどころか、自分自身パニックに陥ってしまって飽和状態になり、人のことなど構ってられないではないか。

 もっと極端な例が「愛はてしなく」の台本にはある。自分の親を殺した本人が目の前に現れた場合、その人を許すなんてことが人間には出来るのだろうか?あるいは逆に、親の立場に立ってみて、もし自分の子供が殺されたら、自分はその犯人を許すことが出来るのだろうか?
 僕には無理だ。自分の子供を殺した犯人などぶっ殺してやりたいに違いない。でも、それは僕の信仰が弱いから?信仰が強くなれば、自分の子供を殺した犯人も、
「いいですよ。許しますよ。」
なんて許せるようになるのか?無理だろ。そんなの・・・・・。もし、そんな奴がいたら、そいつはそもそも最初から子供への愛情がその程度だったのだ・・・・・。

 こんなことを考えていたら、僕は台本の構想に行き詰まってしまった。その結果、「愛はてしなく」の台本はしばらく中断した。この作品が完成までに数年を要しているのには、こうした試行錯誤や中断の時期が長かったからなのだ。その間、僕は考え続けていた。人間の罪と許しについて。それは人間と神の問題としてではなく、人間同士の問題として。だから袋小路に迷い込んでしまったともいえるのだ。

 分かってきたことがひとつだけある。人を許さなかったり、憎んだままでいるのは苦しいということだ。神は人間を、「他人を憎み続ける」ようには作っていないのだ。それに、完璧な人間はいないので、自分だって知らず知らずのうちに、他人から、
「あの人のあの行為は許し難い。」
と思われているかも知れない。それを考えると、人間は他人に対して「許さない」と思う資格なんてないのではないか。夫婦だって親友だって、
「あいつはこんな欠点があるけど、直るわけないし、仕方ないよな。」
と思いながら付き合っているのだろう。人は“許し合う”ことによってしか、この世においてその存在を誇ることは出来ない悲しい生き物なのではないか。それは分かっている。それは分かっているけど・・・・それでも・・・どうしても許せないということがあるだろう。そんな時は一体どうしたらいいのか・・・・。


 それからしばらく経ったある日のことだった。僕は、この作品の事も忘れかけて、日常の仕事に追われていた。ふと、ある聖書の言葉が頭をよぎった。

  それは人間にできることではないが、神は何でもできる
  マタイによる福音書19章26節 

 「あ、そうか!」と、まるで嘘のようにストーンと僕は納得した。人間には出来ない。でも神なら出来る。神はオールマイティ。そうだったのだ!なんだ。簡単なことじゃないか!

 そもそも愛や罪や許しなんてものはね、人間が触れるべきでない神の領域なのだ。人間が他人を愛することが出来るのは、神が愛だからなのだ。そうでなければ、人間は徹底的にエゴイスティックになって、自分の欲望の達成のためなら人殺しでも平気でする動物以下の存在に成り下がってしまうのだ。というか、愛がなければ、罪も、悔恨も、許しも、何も存在しないのだ。
 罪も神の領域だ。罪を犯した他人を自分が罰しなくても、その人はその人の人生の中で、あるいは人生を終わってからか知らないが、かならずその報いを受ける。何故なら、神は愛なので、その愛に背いた分だけ、人は神との不調和を起こすのだ。人間は、みんな至高なる存在とつながっていて、その意味で全ての人間は兄弟なのだ。
 人間は、この世に生まれ、肉体を得たことで盲目になってしまっている。肉体に惹かれて、愛を語りながら欲望のままに行動し、許しを語りながらも自己愛の方に傾いてしまうが、本当の愛や許しというものは、人間のちっぽけな意志や努力によって達成されるものではなく、もっと高次な神の世界からまるで贈り物のようにしてやってくるものなのだ。人間に出来ることは、ただ「愛したい」「許したい」と願うことだけ。つまり、言い方を変えれば、“ゆだねること”だけなのだ。

その悟りがイエスのセリフとなった。イエスは、最初アンナに向かって言う。

  許しなさい 許しなさい
  辛くても 苦しくても
  許しなさい

そしてマリアにはこう言う。

  ゆだねなさい 全てを
  今のあなたの そのままで

イエスは、本当はアンナに向かって、
「許したいと強く願いなさい。今は出来なくても構わないから。」
と言いたかったのだ。そして、マリアには、
「自分は許されない女なのだ、と決めつけることは、まだ神の前には傲慢なのだ。どんなに悪くても弱くても、神はみんなお見通しなのだから、お前は自分のありのままの姿をさらけだして、ゆだねるだけでいいのだ。心を開きなさい。」
と言いたかったのである。

 そして許すことも、許されることも、双方、神からやってくる恩寵によってのみ成就する。舞台の上では、イエスによってアンナの目が開くという奇蹟として表現されているが、僕が言いたかったことは、こうした奇蹟は特別なことではなく、我々の身に日々起こっていることなのだという事実。本当に、我々は毎日、愛をめぐって小さな奇蹟を起こしているのだ。ただ、それに気づかないだけなのだ。

 それにしても「愛はてしなく」で扱っているのは大きなテーマだ。この作品を初演した時は、まだ作った本人の悟りがそこまで追いついていなかった。今は追いついているのかと言われると、あんまり変わらないんだけど、それでも歳を取った分だけ違うような気がする。この作品って、きっと、僕がもっと悟ってくると、もっともっと感動的なものに仕上がってくるのではないかな。僕の悟りのバロメーターになるのではないかな。自分で言うのもなんだけど、とても不思議な作品だ。

 ここまで言ってもね、自分の子供を殺した犯人を許せるかと言われると、やはり許せないと答えるしかない。でもきっと、その犯人の生命も、至高なる存在とどこかでつながっていると信じることによって、
「そいつを俺の手でぶっ殺してやりたい!」
という気持ちは、少しは薄れるのかな?
うーん、でも、やっぱり、許せねえ・・・・!

またまたBOSEの話
 なにか大変な本番が終わるごとに、自分を褒めてやりたいとか何とか言っちゃって、どさくさに紛れて欲しいものを買ってしまう僕は、まだまだ悟りからはほど遠い境地にいる。

 国立の本番では、いろいろ持ち出しも多かったので、ギャラをもらってもほとんどチャラに近い。にもかかわらず、公演の次の日、僕は早速自分へのご褒美ということで、あるものをオンライン注文した。それは・・・・・。またまたBOSEなのだ。今度はノイズ・キャンセリングのヘッド・フォンだ。なんと4万円ちょっとする。

 ヘッド・フォンで4万円も出すのは、いくらなんでも馬鹿馬鹿しいと思っていた。それに僕は、職業柄、生音に接する機会が多いため、オーディオ機器にお金を費やすのはもったいないと思っている。家にリスニング・ルームを作り、100万円もするステレオを入れて、なんていう事は考えてもいない。でも最近BOSEのスピーカーを買ってから、やはり良い音はいいなと思ってきてしまった。残念なのは、僕は家のステレオを大きな音で聴く時間が少ないことなのだ。僕が一番オーディオに接する機会が多いのは、なんといっても、家で勉強する時や、仕事の行き帰り、あるいは新国立劇場の休憩時間に聴くi-Podなのだ。
 だから、その環境をグレイド・アップするのは、とても有効なのである。えっへん!ということで、中二日はさんで木曜日にとうとう来ました。BOSEのQuiet Comfort 2というヘッドフォン。早速聴いてみた。まず、ノイズ・キャンセリング機能が抜群!
 ところで、ノイズ・キャンセリングってなんだか知っていますか?外の騒音と逆の波形を出すことで、その波形でもって騒音を相殺し、静かな音環境を作り出すことなのだ。だから電車の中、特にトンネルの中でも静かに音楽が聴けるというヘッド・フォンなのだ。 
 特に優れていると思えるのは、機械音などはかなりシャット・アウトするのだが、車内アナウンスの声などはひろっているので、必要な情報は入ってくるのだ。それに、ヘッド・フォンとしての音が素晴らしい。最近は安いヘッド・フォンでも低音などが強調されていて、「おおっ!」と思うのだが、よく聴いてみると、強調された低音が不自然だったりする。
 BOSEは、低音もウリなのだが、高音、中音とのバランスが良くて、弦楽器などが惚れ惚れするようなサウンドを奏でてくれる。ジャズなどはもとより素晴らしいのだが、これを買ってからむしろクラシックを聴きたくなってきた。今は、i-Podにベートーヴェンの弦楽四重奏などが入っている。

 ただ唯一難点がある。これまで使っていたSONYのMDR-NC6という数千円のノイズ・キャンセリング・ヘッド・フォンでは、スイッチを入れなければただのヘッド・フォンとしてそのまま使えたのに、BOSEは、スイッチを入れないと、そもそも音が鳴らない。つまり、静かな環境でノイズ・キャンセリングが要らないところでも、強制的にノイズ・キャンセリングになってしまい、単四電池を無駄に消費してしまうのだ。
 そういう意味では、これまで使っていたSONYも、なかなか優秀だったよ。勿論BOSEにはかなわないけれど、コスト・パフォーマンスの意味では、BOSEよりも高かった。だから僕は、家でi-Podを使って勉強する時用に、まだまだSONYに活躍してもらうつもりでいる。
 数千円でノイズ・キャンセリングを味わいたい人には、このSONYがお薦め。金に糸目をつけずに地下鉄内でクラシック音楽を静かに聴きたいという人には、BOSEをお薦めします。でもたかがヘッド・フォンで4万円は高いよね。



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