テレビで映画三昧

三澤洋史 

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曼珠沙華
 自然は季節の到来をどうやって知るのだろうと、毎年曼珠沙華が咲く度に思う。夏がいつもより暑かったり寒かったりしても、残暑がいつまでも残っていたり、逆に雨が夏の匂いをいち早く一掃してしまったりしても、毎年、あたかも暦を見ているかのように、同じ時期に当然のごとくに咲き始める曼珠沙華。

 愛犬タンタンの散歩に出ると、いつもの緑の景色の中に、突然、不釣り合いな赤があるのに気づく。それは本当に突然青草の中から生まれ出るのだ。
「ああ、彼岸が近いのか!」
彼岸花とはよく言いました。
 この花の一群を見ていると、思わず吸い込まれそうになる。曼珠沙華のまわりは時空がゆがんでいて、彼岸の世界に体ごと入って行ってしまいそうな気さえする。

曼珠沙華、この不思議な花よ!

「ベン・ハー」を観ました
 月曜日の敬老の日は、新国立劇場合唱団のバス契約メンバーの結婚式に夫婦で出席した。僕は新郎の直接の上司だが、新婦のこともよく知っている。というのは、新婦は新国立劇場の助演として度々出演していて、昨年の「カルメン」公演で新郎と舞台上でカップルの役を演じ、その立ち稽古の間に愛を育んだということなのだ。
 舞台では常に惚れた腫れたのドラマが演じられているので、組んだカップルといちいち愛が芽生えていては、体がいくつあっても足りないというものだ。彼等二人が仲良さそうに演じているのは見ていたが、そんなものどこまでが演技だか分かったものじゃないので、結局は年が明けて、
「結婚することになりました!」
と発表を聞くまで、全く気がつかなかった。
 若いカップルの船出を見守るのは、いつも気持ちが良い。お二人とも、いつまでもお幸せで!

 さて、上品なイタリア料理をたっぷり味わって、白赤のおいしいトスカーナ・ワインをたらふく飲んで、すっかりゴキゲンで帰ってきたが、こういう日は晩になって時間が余っても、あらためて勉強する気にもならない。と、思っていたら、BSで「ベン・ハー」をやっている事に気がついて、テレビをつけてみた。

 久しぶりで見た「ベン・ハー」は、随分ストーリーを忘れていた。ああ、こんな物語展開だったっけな、と驚くことしきりだった。一緒に見ている妻は、ベン・ハーが仕えていた司令官の名前がアリウスだったり、キリストの山上の説教の場面やライ病人の谷(死の谷)が出てくるのを見ては、
「あなた、ここも『あいはて』でパクッたわね。」
などと言っている。
 言い訳に聞こえるかも知れないけど、「ベン・ハー」を見たのは、高校生くらいだったり、二十歳くらいだったりなので、こうした細かいことは「愛はてしなく」を作っている時には忘れていたのだ。でも、「ベン・ハー」のように、キリストという存在を主人公とからめてひとつの物語を作ろうという意図はあった。そういう意味ではパクッたと言えないこともない。
「これも、最後で奇蹟が起きるんだったわよね。」
なんていやらしい妻の言い方!ああ、そうですよ。「あいはて」でも同じように奇蹟が起きますよ。でも奇蹟の起こり方は「あいはて」の方が感動的だったぜ!

 ところが、「ベン・ハー」の奥深いところは別の所にあった。最後にキリストの十字架を見届けたバン・ハーが戻ってきて言うんだ。
「あの人が、亡くなる直前にこう言うのを聞いた。『主よ、彼等をお許し下さい。彼等は自分で何をしているのか分からないのです。』その瞬間、自分の心から怒りが消えた。」
まいったなと思った。つまり奇蹟が起きたのは、ベン・ハーの心から復讐心が消えた瞬間だったということだ。キリストと離れたところで無関係のようにして起こった奇蹟。だがベン・ハーの気持ちとつながっていて、映画を見終わった後で、いつまでも余韻を残すのだ。

 キリストの姿は、遠くから写したり後ろ側から写したりして、観ている者に顔を見せないような配慮がされている。それによってキリストの神秘性、抽象性を際だたせているのが心憎い。特に、ベン・ハーが奴隷となって過酷な扱いを受けている最中に、キリストが水を差し出す場面では、腕だけで演技される。こうした扱いは圧巻だ。
 「あいはて」では、初谷敬史君の顔を思いっきり見せてしまいましたけどね。まあ、僕の場合は怒りも悲しみもある「人間的なイエス」を描こうとしたわけだから、意図が違うんだ。

 この頃は、コンピューター・グラフィックスもなかった時代。でも映像を観て時代遅れだとかダサイとか感じない。その代わり、現代ではもうこういう風におびただしいエキストラを使うことはないんじゃないか、と思わせるほど人件費にお金がかかっている。人数だけでなく、時間の使い方も鷹揚だ。馬車のレースの場面だけでも、出発前からレース中の場面まで延々と続く。
「まだかあ?」
という感じ。それがスケール感を醸し、映画の格調を高める。
 ひとつだけ古いなと感じたのは、音楽の使い方だ。きっちりと書かれた管弦楽が延々と続く。その量たるや半端な量ではない。同じように作曲を行い、スコアを書く者としては、その大変さが身にしみて分かるから同情するが、はっきり言って、ここはいらないんじゃないかと思われる箇所が沢山ある。
 これが当時のハリウッド映画の作り方だったのは分かるが、ずっと止まることなくBGMが続いていると、肝心な盛り上がりの場面とか、物語が急転直下変化する瞬間など、一番大事なところでちっとも効果的に響かないのだ。それに音楽自体もちょっと平凡。オーケストレーションや和声が古い。ただオスティナートで響く打楽器の効果は無視出来ないものがある。

 昔は、クリスマス時期になると、テレビでこうした宗教的な映画をよく放映していたっけ。「偉大な生涯の物語」も「十戒」も「ブラザーサン・シスタームーン」も、テレビで繰り返し観られたよき時代だった。こうした映画、もっともっとやってね。レンタルCD屋さんですぐ借りてこられるんだけど、そういう問題じゃないんだよなあ。

「ジーザス・クライスト・スーパースター」を観ました
 ここのところ追われている仕事があるわけでないので、晩になって家に帰ってくると、テレビでよく映画を観る。火曜日は「アニー」を観た。街を歩きながら、いきなり踊り出したり、歌い出したり、タップを踏み始めたり、といった典型的なハリウッド・ミュージカル映画仕立てには笑える。特に、日本人のテンションの低い日常生活からは、最も離れている世界のような気がする。まあ、大声を張り上げるオペラも似たようなものだ。
 イカれた孤児院長ハニガンや、賞金目当てでアニーの両親になりすまそうとするハニガンの弟達が、ミュージカル・タッチで描かれると、悪者といえども憎めず、かえって親近感を持ってとても楽しくなるから不思議だ。

 木曜の晩は「ジーザス・クライスト・スーパースター」が九時からあるので、「トゥーランドット」の舞台稽古が早く終わらないかなと期待していたが、なかなかそうはいかなかった。でも九時四十分くらいには家にたどり着いたので、それから観た。
 実は、この映画、家にはビデオがあるのだ。でも機会がないとなかなか観ないものなんだよ。

 「ベン・ハー」も観ながら「あいはて」とダブッていたけれど、「ジーザス」はもっと近い。この際だから白状するけど、「ジーザス」がなかったら「あいはて」も生まれなかったかも知れない。でもパクッたのではない。

 「おにころ」を作っていた頃、僕は随分ミュージカルの仕事をしていた。公演の指揮や歌唱指導で東宝ミュージカルをはじめとして、いろいろな所に出入りしていた。ホリプロが経営するミュージカル・スタジオでも歌を教えていた。そこで生徒が持ってくる曲にロイド・ウェッバーの曲が多かった。そこで僕も勉強しなくちゃと「ジーザス」のビデオを買って観たのだ。
 その時の印象としては、
「なんだ、この程度のものだったら、自分にもすぐ作れるわ。」
という感じだったのだ。

「ジーザス」の素晴らしいところは、「ベン・ハー」だって顔を写さなかったくらい、「救世主を描くことは大それた事」という常識を、いとも簡単に打ち破ったことだ。その軽はずみさが、逆に僕に「あいはて」を作る勇気を与えてくれたというわけだ。音楽的にも、もしワーグナーの「パルジファル」に匹敵するものを、なんて思ったら、恐れ多くておそらく一音も書き出すことが出来なかっただろうが、ロイド・ウェッバーの音楽のお気楽さが、僕に「自分の書けるところから」音符を書き始めるきっかけを作ってくれた。
 特に、ミュージカル・スタジオで人気が高く、みんながホリプロのレッスンに持ってきたマグダラのマリアのナンバー「I DON'T KNOW HOW TO LOVE HIM(あの人をどう愛していいか分からない)」などは、
「マグダラのマリアの真剣な気持ちを、こんなイージーな歌謡曲にして欲しくないな!」
と、怒りすら覚えたが、その怒りが、
「じゃあ、自分ならどういうマグダラのマリアを描く?」
という疑問となって発展し、「あいはて」の逆ギレ・アリアが生まれたとも言える。

 イエスは、バッハの受難曲などでは、荘厳な雰囲気を持つバスで描かれるのが普通だが、聖画などで描かれている顔つきや骨格からすると、テノールに違いないと僕はずっと思っていた。それが「ジーザス」でかなりヒステリックなテノールで歌われるのを聴いて、
「自分もこの線でいこう!」
と、「あいはて」のイエスのイメージが固まってきたとは言えるだろう。
 でも僕は、あえて歌の中のイエスは常に優しく描いた。イエスは、エルサレムの神殿の前で商売する店を全部ひっくりかえすなど激しい人だったのは事実だが、「ジーザス」で、自分を裏切るユダとのやりとりを、あのように歌でエキセントリックに描くのは好きではないな。自分より弱い者に対しては、イエスはもっと優しかったと思う。まあ、これは僕の個人的な考え。

 映画の「ジーザス」は良く出来ている。砂漠にユダがひとりでしゃがんでいる。沈黙の中、砂丘の向こうから何本もの煙突のようなものが立ち上る。やがてそれは全貌を現す。戦車部隊がユダの方に向かってくるのだ。望遠レンズで撮っているので、ユダと戦車はもの凄く近く見える。突然、それまでの沈黙を破って戦車の轟音がゴーッと響き渡る。こうした音の処理は見事だ。
 その後すぐに、ユダは大祭司達の所に行き、イエスを引き渡すための情報を流す。それから、ユダの上空に二機のジェット戦闘機が轟音を発して飛ぶ。こうした描き方に僕はとても新しさを感じる。
 ヘロデ王を思いっきりサイケデリックなあんちゃんという感じで描き、ラグタイムの音楽で彩ったアイデアも馬鹿馬鹿しいながら素晴らしいね。これが「行くあてのない暴走列車」になったんじゃない?って訊かれたら、あえて反対はしません。
 ホザンナのアイデアは、はっきり言ってパクリました。「ジーザス」で、Hosanna Heysanna Sanna Sanna Hoなんて、めちゃくちゃ言ってるのを見て、
「ほう、なんでもアリだね。」
と思ったのは事実。でも「あいはて」の音楽のアイデアは、ロイド・ウェッバーではなく、むしろプーランクやカール・オルフ、ストラヴィンスキーからパクッている。うぬぼれて言うけど、「あいはて」のホザンナの方が良く出来てると思わないかい?

 今回の「あいはて」再演において、イエスが喜び踊っている群衆と無関係に登場する仕方は、もうかなり前に、テレビでBSの宣伝をやっている時に、たまたま「ジーザス」のホザンナの映像がちょっとだけ流れて、そこに群衆とは無関係に孤独な姿をさらしているイエスがいたのを目にした瞬間、思いついたことだ。「あいはて」でもね、もっとイエスの孤独とか出したかったのだけれど、あまりイエスに焦点を当てすぎると、テーマがぼけてしまうので、やめといた。

 こんな風に、僕が映画を観ると、どうしても作る側の立場に立って観てしまう。一場面一場面のコマの取り方や、アングルを味わい、音楽の入れ方を吟味し、ここはうまく出来たとか、ここはもっと良く出来たのではないかなどと、野次馬根性を丸出しにして映画に向かう。だから見終わるとすごく疲れるんだ。楽しむという意味では、誰よりも楽しんでいるとも言えるのだが、もっとボーッと観れたらいいのになと思うことも少なくない。

「篤姫」が楽しみ
 NHKの大河ドラマ「篤姫」を、ある時ふと観始めたらやみつきになってしまった。正規の時間帯ではなかなか観ることが出来ないのだが、BSや再放送などを利用すると、案外観ることが出来る。
 僕は、自分が前世幕末に生まれていたのではないかと思えるほど、幕末の志士たちの国を想う気持ちに胸を熱くする。その動乱の時期に篤姫の様々なる思いを重ね合わせて、毎回どこかでウルウルッとさせるドラマに仕立て上げているのはさすが。
 先週は小松帯刀(尚五郎)とのかなわぬ恋心にウルッときたよ。小松を演ずる瑛太の一途なまなざしが胸を打つ。

 篤姫を演じている宮崎あおいは、子供っぽ過ぎて最初物足りない気がしたが、どうしてどうして、その堂々とした演技に感心してしまう。特に堺雅人の演じる徳川家定とのやりとりが圧巻だったが、家定がすぐ死んでしまって残念。堺雅人の演技、よかったねえ!

さあ、これからどうなるのかな。目が離せない今日この頃です。




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