ツッコミどころ満載の「リゴレット」

三澤洋史 

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ツッコミどころ満載の「リゴレット」
 オペラの台本というのは、そのオペラをよく知れば知るほど、ツッコミどころが出てくるものだ。以前、京都ヴェルディ協会で「アイーダ」の講演をした時にも、そんな話が出たが、ヴェルディ前期の最高傑作である「リゴレット」も、大いにツッコミどころ満載だ。

 一番笑えるのはジルダ誘拐の場面だ。マントヴァ公爵の宮廷の廷臣達は、公爵の道化リゴレットの娘であるジルダを、リゴレットが秘かに囲っている愛人だと勘違いしていた。そこで、いつも不快な思いをさせられるリゴレットに仕返しをするために、その愛人を誘拐して女好きな公爵の処に渡してしまうのがいいと考え、リゴレットの家にやってきた。
 彼等は梯子を使ってリゴレットの家の塀をよじ登り、閂を開けてジルダを奪おうとしていた。そこへ運悪くというべきか、運良くというべきか、リゴレット本人が帰ってくる。

「ヤバイ!本人が帰ってきた!」
とみんな浮き足だった。だが、廷臣の一人マルッロは、逃げるどころか、
「ちょうどいい、あいつを騙して二倍仕返しをしてやろうぜ。」
という。ツッコミどころはここからだ。

 リゴレットは、自分の家の前に廷臣達が集まっているのを見ていぶかるが、マルッロはリゴレットに、第一幕の舞踏会で公爵が誘惑しようとしていたチェプラーノ伯爵夫人をこれから誘拐するところだと嘘を言う。チェプラーノ伯爵邸はリゴレットの家のすぐ隣という設定だ。リゴレットはまんまとその嘘に乗せられて、
「それなら手伝おう。」
と言う。
マルッロは、
「みんながマスクしているように、お前もしろよ。」
と言ってリゴレットにマスクをする。

 そこからが間抜けだ。リゴレットはマスクだけでなくさらに目隠しもされてしまって、あたりが真っ暗になってしまったと思ってこう言う。
「この闇はきついぜ。」
マルッロはさらに、
「梯子を押さえていろ。」
と言って、リゴレットに自分の家の壁に掛かる梯子を一人で押さえさせ、その間にジルダをさらって逃げて行ってしまう。リゴレットはいつまでも梯子を押さえている。
「助けて、お父様!」
という舞台裏のジルダの叫びを聞いてもまだ自分が騙されたことに気付かないリゴレットは、
「まだ終わらないか。」
と言って目に手をやると、なんとマスクの上にさらに目隠しをされている。
「目隠しをされているぞ!」
と、ようやく気付いたリゴレットは、家に入ってみるとジルダがさらわれてもぬけの殻。彼は呆然として叫ぶ。
「ああ、呪いのせいだ!」

 それは違うだろう・・・・。みなさんに、この際だからはっきり言います。それは呪いのせいではありません。単にリゴレットが間抜けなだけだよ。普通、目隠しをされたら即座に気がつくでしょう。闇のせいっていったって、そばにいるマルッロ達さえ見えなくなってしまうそんな闇なんてあるわけがない。それが第一の間抜け。
 それと梯子の位置関係に気がつかないのが第二の間抜け。リゴレットは目隠しをされたとはいえ、自分の家の塀に掛けられた梯子を持たされたことに本当に気がつかないのか。歩数で分かるだろう。昔の長屋ではあるまいし、チェプラーノ邸の塀はそんなにリゴレットの塀と接近しているのか。
 そして、みんなが自分を置いて去っていくのに気がつかないのが第三の間抜け。目隠しをされて目が見えないといったって、見えない分今度は耳が働くだろうから、みんなが去っていく気配には、いくらなんでも気付くだろう。
 最後の間抜けは、そうやって騙されたのに、それを呪いのせいにして、自分の間抜けさをうやむやにすることだ。

ジルダ~父と娘の関係
 そんな間抜けな道化を父親に持つ清楚で心優しく美しいジルダは、父親を全面的に信頼し慕っている。この設定も苦しいなあ。父親となって娘を持ってみれば分かるが、娘なんて思春期に入れば、父親のいろんなところが気になって仕方なくなるものだ。
「パパ、パンツ一丁で部屋の中歩かないでよ!」
なんてね。この点では僕はプロなのだ。
 外ではあんなに嫌なヤツが、家の中では非の打ち所がない父親でいられて、娘の絶対的な信頼を得るなんてあり得るのかい?子供の目というのは鋭いんだよ。親の言動のどんな小さな矛盾点でさえ見逃さない。まあ、わざと美女と野獣的あり得ない設定から物語を始めるのが、この作品の特異なところだから、この設定自体にはあえて目をつぶろう。

 でも第二幕で、廷臣達にさらわれてきたとはいえ、あれほど慕っていたマントヴァ公爵と一緒の時を過ごしたのに、リゴレットに向かって即座に、
「お父さん、あたし辱めを受けたの。」
と言うとは信じられない。

間抜けな殺し屋
 新国立劇場での立ち稽古が終わった帰り道。殺し屋スパラフチーレ役の長谷川顕さんに会った。僕は即座に長谷川さんに言う。
「長谷川さんのスパラフチーレは、ゴルゴ13みたいでカッコいいね。でもさあ、殺し屋としては失格だよ。」
「・・・・・。」
「妹に説得されたくらいで、殺す相手を変えたりしちゃ駄目じゃないか。」
「あははははは、そうだね。」
「そんなことしたら信用なくなって、殺し屋やっていけないと思うよ。」
「その通りだ。すいません・・・・。」
長谷川さんは笑いながら帰って行った。

 それにしてもスパラフチーレの、
「それじゃあ、真夜中になる前に、ここに誰か来たら、代わりに死んでもらおう。」
というセリフは一体何だ!意味ねー!
 まあ、これは、ジルダが盗み聞きをしていて、その言葉を聞いた瞬間に自己犠牲の気持ちに目覚めるためのモチベーション作りということだな。めちゃめちゃわざとらしいストーリー展開だこと。おほほほほほほ・・・・。

 だってジルダって公爵に遊ばれているわけでしょう。だから彼女の自己犠牲はなんの実りもないのだ。公爵はその後も享楽の生活をやめる気配もないんだから。そんなお馬鹿な犠牲行為をして、殺されて、それを見つけたリゴレットが、
「呪いのせいだ!」
って、この物語、一体どうなってるんだよう。

自業自得
 言わせてください。これは呪いのせいではないのです。もっと適切な言葉があります。それは「自業自得」あるいは「因果応報」という言葉です。

 だいたいリゴレットは、妻を寝取られそうになっているチェプラーノ伯爵をあざけり、娘がマントヴァ公爵に陵辱されて苦しむモンテローネにもひどい言葉を浴びせる。だからモンテローネに「呪われよ!」と言われても何の不思議もないことをしているのだ。
 その本人が、今度は自分の娘をさらわれ、陵辱されたのだ。これでモンテローネの苦しみが初めて分かったはずだし、これまでの自分の行為の愚かさを思い知って反省すると思いきや、殺し屋を雇って公爵に復讐をしようと試みる。挙げ句の果てにそれが失敗すると、それをモンテローネのかけた呪いのせいに転嫁してしまうなんて、リゴレットはどこまでも自己チューだ。

 でも、僕は思ったね。もしかしたら西洋人は、僕達東洋人が当たり前のように思っている「自業自得」「因果応報」「情けは人のためならず」という哲学的認識は持っていないのかも知れないとね。それでいて、相手に良い言葉を与えれば良い結果をもたらし(Benedictus)、逆に悪い言葉を浴びせれば悪い結果を引き出す(Maledictus)といった、言霊信仰の素朴なアニミズムだけは民衆に浸透しているのだ。
 キリストは、これを釈迦の「因果の法」のような宇宙の法則として説かずに、
「もっとも小さい者に成した事は、私に対して成した事なのだ。」
という風に表現した。それでもいいんだけど、自己と宇宙との間にキリストという第三者が入ってしまうと、問題がキリストを信じるか信じないかに集約されてしまい、我々東洋人のように因果の法が体の中に染みついてはこないんだな。

 釈迦の宇宙に対する認識と、それを自然に受け入れている東洋人の感性って、もしかしたら西洋人より優れているのか。といっても、東洋人でも、どこまでも自己チューや懲りない愚か者は無数にいるのだから、人のことは言えない。
 問題は、こんな呪いの物語が、ヨーロッパでは自然に受容されているということだな。あまりこれまでツッコミを入れる人はいなかったしね。なんてったってヴェルディは最初このオペラを「呪い」というタイトルにしたかったということだから、あきれるんだ。

それでも、このオペラは素晴らしい!
 こんな風に容赦なくツッコんでおいて、今更言うのもなんだけど、これがね、ヴェルディの音楽と一緒になると、こうした台本の脆弱さが気にならなくなるのだ。それほど、ヴェルディの音楽は素晴らしい。

 ヴェルディが求めていたのは、設定ははっきり言ってなんでもいいから、自分の音楽と相まって劇的効果をいかんなく発揮できる題材だったのだ。猟奇的で、美と醜の対比を持ち、人間の内部のどろどろしたものを圧倒的な表現力で描き切る。そのためには、まさに「リゴレット」というリブレットはぴったりだったというわけだ。この題材を得て、ヴェルディは当時のオペラ界に真っ正面から切り込んでいった。そしてオペラ界における不動の地位を手に入れたのだ。

 「リゴレット」の音楽って、中期や後期の音楽と違って、単純そのものだ。まるで一度、四度、五度の基本和音以外使ってはいけませんという、飛車角抜きで将棋をさせられるような状態で作曲をしたかのような単純和音の連続。それでいて、表現はまさに単刀直入。
 リゴレットのアリア「悪魔め鬼め!」を聴いてみるがいい。その衝撃的な表現力に心を奪われるではないか。僕は、個人的にはここにベートーヴェンの激情との共通点を見る。前半の叩きつけるような音楽と、後半のチェロの独奏に伴奏された哀れを誘う曲想との対比が素晴らしい。このアリアは、オペラに新時代の到来を告げるのだ。いいなあ。

 僕は国立音楽大学時代、声楽を勉強していたが、もしテクニックがあって可能なら、舞台で歌ってみたいアリアが3つあった。ひとつは「ドン・カルロ」の「ロドリーゴの死」、次はやはり「ドン・カルロ」からフィリップ国王の「ひとり淋しく眠ろう」、そして「リゴレット」の「悪魔め、鬼め!」だ。こう考えると、歌いたいアリアはヴェルディばっかだな。作曲的には、僕はプッチーニの方が好きなんだけどな。

「リゴレット」は、10月25日、新国立劇場で初日の幕が開いた。11月6日まで5回公演。  


「蝶々夫人」のオーケストレーション
 いやあ、ハマッてます。って、今更言うのもなんだけど・・・・プッチーニのオーケストレーションって、天才以外の何ものでもない!

 「蝶々夫人」は、新国立劇場鑑賞教室で、もう12回も指揮しているのだよ。それでも、今回、尼崎の公演を控えて、あらためてスコアの勉強を始めて見ると、まるで始めて見たかのように興奮する。
 第一幕、蝶々夫人登場直前。シャープレスがピンカートンと話している。ウィスキーを注いでもらいながらシャープレスが、
「遠く離れた貴方の家族のために飲みましょう。」
と語る場面では、コントラバスを抜いた弦楽器の低音を支えているのは、なんと二本のファゴットのみだ。でも、これがとても効果的なのだ。この弦楽器を、僕はなるべく柔らかい音色で響かせよう。
 第二幕二場への間奏曲。プッチーニの書いた最も優れた器楽曲のひとつ。弦楽器に続いてファゴットがメロディーを取る。それを支えている最低音は、なんとクラリネット。その後、ヴィオラのメロディを支えている和音も、最低音がクラリネットの最低音域で、その上にファゴット二本が乗っている。うーん、考えられない。でも鳴らしてみると納得。クラリネットの最低音って、深みがあってふくよかでとても良い音色。その長所をプッチーニは良く知っていたのだな。

 例を挙げるときりがない。いろんな楽器の特性に熟知していて、すべて効果的に生きるようにスコアにしたためている。僕は思うんだけど、少なくともオーケストレーションにおいては、「蝶々夫人」は、プッチーニの中で最も完成された作品ではないかな。
 元々ワーグナーの影響を受けて、はっきりしたライト・モチーフという使用法を取らないまでも、象徴的なモチーフの使用をしていたプッチーニは、「トスカ」で、随所にドビュッシー風の平行和音を用い始める。
 それが「蝶々夫人」では、もう全面的に古典的機能和声から解放されて、いわゆるモード奏法で作曲をし始めるのだ。ジャズの用語を使うから嘘っぽく聞こえるかも知れないが、「蝶々夫人」の和声法は、ほぼ全てモード理論で説明可能だ。勿論、機能和声に近づくところも少なくないんだけど。全音音階の使用も、全音音階モードという風に捉え、パレットの上に画家が絵の具を重ねていくように自由に音を重ねていく。
 まるでマイルスとハービー・ハンコック達が作り出した60年代プログレッシヴ・ジャズのようにスリリングでイカした響きがここでは聴かれるのだ。僕はもう身も心もシビレっぱなしだ。

 どこかの映画評論家ではないが、いやあ、音楽って本当にいいですね!僕は指揮者をやっていて、生きててよかったと思うことが最近多いよ。こうした天才の息吹に簡単に触れられるんだぜ。勿論スコアを通してだけど・・・・。
 自分でまがりなりにも作曲するので、余計その凄さが分かるんだ。そして、作曲家がこの音符を書き記した時のときめきや情熱が、まるでリアルタイムで今生まれ出たように、僕の胸に溢れ出てくるんだ。

 この歳になって、やっと少し音楽の入り口に立ったような気がするんだ。僕の人生はまさにこれからだな。僕の「蝶々夫人」は、自分で言うのもなんだけど、結構イイぜ!



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