親父のこと

三澤洋史 

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親父のこと
 親父(おやじ)が死んだ。不思議と悲しいという感情はない。でも親が死ぬということはこういうことかと思った。音楽家という職業柄、親の死に目に間に合わないことも覚悟していたが、尼崎の「蝶々夫人」も、メンデルスゾーンの「パウロ」も無事指揮することが出来、さらに落ち着いて親父の最期に立ち会うことが出来てよかった。そして僕は生まれて初めて喪主というものになった。

 親父は大工だった。小学校卒業後、親方の元に弟子入りして飯炊きから修行を始めたという。一人前の大工になると、今度は弟子を取って自分の家に住まわせ、親方となって修行をさせながら仕事をしていた。つまりヨーロッパ徒弟制度を地でいくようだった。だから僕も、「マイスタージンガー」のザックスなどにとても親近感を覚えているし、自分自身音楽をやるにあたって、親父から受け継いだ職人気質を持っていると自負している。
 僕が小さい頃、家には二人の住み込みの弟子がいて、僕や姉たちをよく可愛がってくれた。僕の家庭は、小さい頃から朝は必ず7時過ぎにご飯を食べて8時から仕事開始、お昼は必ず12時、晩ご飯は6時といった規則的生活を決して崩さなかった。これが僕の性格に、何があっても決してパニックにならない安定性を与えたと思う。加えて親父は、母親や子供達に対し決して手を上げたりしない、きわめて温厚で陽気な性格だった。

 親父は、僕が中学二年の時に独立して、個人経営の建設会社を興した。会社を運営していくためには必ず銀行のお世話になって、借り入れをしなければならない。それまで一介の大工に過ぎなかった親父は、借金というものをしたことがないので、会社のために借金をしたまま年を越すのに抵抗感を覚えて、夜遅くまでお袋と二人でボソボソと話をしていたのを記憶している。

 僕は姉二人いる長男で、通常だったら親父の仕事を継ぐべきだった。お袋は僕に、
「お父ちゃんは小学校しか出ていないから二級建築士の免許しか取れなかった。お前は頭が良いから、一生懸命に勉強して大学の建築科に行って、一級建築士の免許を取ったらいい。」
と言っていた。僕もそのつもりでいたが、僕が高崎高校という進学校に進むようになると、親父は、
「別に大工にこだわらなくていいから、一生懸命勉強して弁護士にでも医者にでもなればいい。」
と言い始めた。でも内心は自分の後を継いで欲しいと思っていたに違いない。
 それを知りながら僕は、大工とも弁護士とも全然違う音楽家への道を選んだ。高校一年生の夏休み、僕は親父に音楽をやらせて下さいとあらためて頼んだ。反対するだろうと思ったが意外と親父は、
「そうか、分かった!」
と言ったので拍子抜けした。
 それからピアノを買ってもらい、レッスンに通わせてもらった。思いの外お金がかかるのでびっくりしたと思う。とにかく一介の大工に過ぎない親父にとっては、音楽家の世界など想像すら出来ないものだったろうから、反対するのにも情報がなさ過ぎたのである。

 こうして僕は、親父のお陰で音楽家になることが出来たのだが、僕のやることなすこと親父にとってはあっけにとられることの連続だったに違いない。キリスト教に興味を持って教会に通い出し、洗礼を受けたいと言い出した時は、
「仏壇と神棚はどうするんだ。お前は長男なんだぞ。」
と言った。今なら、それはそれでちゃんとやるからと割り切って言えるが、当時は若くて血気盛んだ。発想が直線的だから、
「そんなもの価値はないわ。」
と言って、ずいぶん言い争いをした。
 妻も教会で知り合ったので、結婚には随分反対された。僕は親を無視し、親なしで結婚式を挙げた。桐生の聖フランシスコ修道院で親しくしていたフレビアン神父が、当時、フランシスコ会の日本管区の管区長をしていて、六本木フランシスカン・チャペルセンターの院長をしていたので、事情を話し、ごく親しい友人達を呼んだだけのささやかな結婚式を挙げた。
 後で親父もあきらめて、今度は親父の仕事仲間や親族を呼んでの披露宴を一年後に行ってくれた。なんと、水上温泉にみんなを招待して一泊させて、夕食の宴会を披露宴にあてるという前代未聞のやり方を親父が発案した。
 勿論、親が反対したからといって、自分の信仰を断念したり、妻との結婚をあきらめたりはすることは出来なかったので、こうした言い争いや断絶にはやむをえないところもある。でも今だったら、もっと違うやり方で出来ただろう。何といっても若気の至りであったことは事実だ。でも、当時は当時で僕なりにも真剣だった。お袋もずいぶんハラハラしたに違いないが、まあ仕方ないなあ。親父、ごめんね!

 僕には二人の姉がいる。僕や姉たちが結婚し子供が出来ると、親父はその孫達をとても可愛がってくれた。孫達もおじいちゃんをとても慕って、盆と正月をはじめとして事ある毎に実家に集まって孫達同士の交流もさかんに行っていた。
 今はその孫達もみんな大きくなり、その内二人は結婚している。その主人も二人ともとても良い人で、すぐに孫達の輪の中に入ってきてみんなでわいわいやっている。その中でも最初に生まれた次女の娘貴子(たかこ)は、おじいちゃんに特別に可愛がられた。

 貴子はおじいちゃんの容態が悪くなったと聞いて一度病院に駆けつけたが、仕事が忙しく、数日後にまたお見舞いに来ようと思っていた。ところが亡くなる前の晩、夢の中にずっと現れてきていたので気になって、朝出社したものの、仕事を切り上げて早退し、病院に駆けつけた。
 病室にいた僕達が、貴子が来るという連絡を受けた時は、まだ親父の容態が急を要するものだとは誰も認識していなかったので、どうして会社休んでまで来るのだろうといぶかっていた。だが実際には、貴子が到着してわずか3時間半後に親父は息を引き取った。貴子の夢の話を合わせて、親父がそれほどまでに貴子を大切に思っていたのだとみんな納得した。

 親父が死んだことは勿論悲しかったが、親父の子供達やその連れあい達、それに孫達がこんな風に全員集合することなど、盆や正月でもあり得なかったので、葬儀が終了するまでの数日間は、不謹慎かも知れないがとても楽しい語らいの時を過ごすことが出来た。しかしそこには、たった一人だけ欠けていた。それは、いつもその輪の中心にいたおじいちゃんだった。

 親父はずっと肺気腫を病んでいた。肺がだんだん機能しなくなって、しまいには吸っても吸っても酸素が欠乏して窒息に近い形で死んでいく恐ろしい病気だ。少しずつしかし確実に病気は進行していた。2年くらい前から歩くのにも困難なほどになってきて、特に今年に入ってからは、寝床とトイレと居間を往復するだけの生活になった。それでも入院だけはしたくないと頑強に言い張っていた。
11月に入って検診に行った時、医師から、
「すぐ入院しないといけない。」
と言われたが、親父は、
「絶対に入院しない!」
と拒否して帰ってきたという。
 しかしそれからすぐ動くことも出来なくなって、やむなく入院となった。11月14日のことである。その時、僕はまだ尼崎にいた。
 それを聞いた時は正直ホッとした。自宅にいたのでは満足な治療も出来ないだろう。なにせ自宅にある酸素吸入器だって、うっとうしいと言ってちゃんと使わないくらいなのだから、今度こそはきちんとした治療体制の中で、安心して医師に任せていられると思った。しかし僕の読みは甘かった。なぜなら、入院してわずか12日間で亡くなってしまったからだ。それほどまでに病気は死の扉に迫っていたのである。途中痰がからみ、さらにそれを除去するのに苦しんだが、親父の最期は安らかだった。
「痰が出なくなりました。」
と医師に告げると、
「もう痰を出すほどの機能も肺がしていないのです。」
と言われた。

 それにしても臨終を迎える前の静けさにくらべて、人って、死ぬやいなやお祭りみたいに賑やかになるものだな。生まれて初めて喪主になってみて、いろんなことが初めてだらけだったが、随分勉強になった。
 葬儀屋さんを呼び、いろんな打ち合わせをする。棺桶の材質や形を決め、骨壺の色やタイプを決める。葬儀の後のお浄めの料理の数と種類を決める。僕は比較的冷静だったから葬儀屋さんも楽だったろうが、気が動転している喪主だったら大変だろう。自分がイベント屋になったような気がしたくらいだ。
 弔問客がひっきりなしに訪れ、わさわさしている間に通夜となり告別式となり、支払いをしたり挨拶をしたり、やれ何だかんだといっている内に、気がついてみると全て終わっていた。あっけないものだ。

 お袋はきっとこれから淋しくなるのだろうな。それを思うと可哀想でならない。勿論いろんなフォローはするつもりだけれど、僕は基本的には東京に住んでいるから、なかなか手が届かない。それでもお袋は、東京になんて出てくるつもりはなくて、しばらくは住み慣れた家に住むと言っている。当然だろうな。

 今日(30日の日曜日)は、チョン・ミュンフン指揮の東フィル演奏会。新国立劇場合唱団は、前半のプログラムであるモーツァルトのヴェスペレで参加した。僕は一週間前に基本的な合唱練習をつけていたので、大きな混乱はなかったが、昨日は、大事なマイストロとのオケ合わせに告別式が重なってしまって、東フィルにも新国立劇場合唱団にも迷惑をかけてしまった。でも、合唱団は頑張ってくれて、お陰様で良い演奏会が出来た。
 朝、群馬から出てきたら、ヴァイオリンの音や合唱の歌声がとても新鮮に感じられた。ああ、僕は日常に戻ってきたのだなと思った。わずか数日間離れていただけなのに、なんだか随分長い間、別の世界にいた気がする。

 ゲネプロが終わって、本番までの間に街に出ると、青空の下、道玄坂に枯れ葉が舞っていた。それを見ながら人の命のはかなさを想った。でも虚無感を感じなかったのは、僕に信仰があるからだ。永遠の命を知っているから、諸行無常を冷静に受け止められる。あの枯れ葉のように命が枝から離れても、魂は消えはしないのだ。

 魂は永遠だ。親父の亡骸を見ても、もはや蝉の抜け殻と同じようにしか感じられなかった。静かで、恐さも何も感じない。遺骨に至っては、もはや物体としてしか感じられない。親父の魂はもはやこんなところにはいない。でも、もうこの世では二度と会えないのだと思うと、なんだか体の一部を失ったような喪失感は感じる。

 とにかく親父は、僕にとっては世界一のかけがえのない親父だった。僕は親父のことを誇りに思いながら、これからも生きていく。



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