尾高さんとオペラ

三澤洋史 

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尾高さんとオペラ
 尾高さんと会うのは久し振りだ。あれから随分と偉くなったから、偉そうになっているかなと思ったら、以前と全く変わらす、気さくで人なつこくて、他人への気配りを怠らない尾高さんがそこにいた。

 新国立劇場オペラ部門次期芸術監督の尾高忠明さんが僕も交えてお話し合いをしたいということで、多少緊張して行ったのだ。少しは良い格好をしていった方が良いかな?でもいきなり背広を着ていくのもわざとらしいし・・・・と迷ったあげく、まあ普段着よりはマシだが、カジュアルさも残した格好で行ったら、向こうはジーパンで来たから、あららと拍子抜けした。

 尾高さんが次の芸術監督に決まった時、
「ええ?オペラ劇場の芸術監督で大丈夫なの?」
とか、
「オペラの経験がほとんどないだろう。」
とかいう声があちらこちらでささやかれたが、それは全くの杞憂であることをこの際断言しておきたい。何故なら、僕こそは尾高さんが二期会で立て続けにオペラを指揮していた80年代の終わりの時代に、全て副指揮者として彼の元で働いていた生き証人なのだ。
 演目は、順不同になるが、「こうもり」「タンホイザー」「カルメン」「トスカ」で、ドイツものやイタリア・オペラやオペレッタなど、それぞれの分野を網羅している。

 僕の脳裏に鮮烈に残っているものとして、「こうもり」のオーケストラ・リハーサルに立ち会った時の記憶がある。彼の振る序曲に僕は舌を巻いた。う、うまい!少しも無駄のない動き。それでいて必要なサインはすべて与えている。なんて合理的な指揮だろうと思った。

斉藤メソード
 僕はそれまで、小澤征爾さんはじめ沢山の指揮者を育てた桐朋学園の斉藤秀雄メソードというものに対しては、ある意味懐疑的だった。僕が指揮者になろうと思い始めた頃、日本では桐朋に行かなければ指揮者にはなれないという雰囲気だったが、僕はあえてそれとは全く関係ない山田一雄先生の門を叩いた。だが、目の前で尾高さんの指揮を見ている内に、これはそんなこと言っている場合ではないぞ、この中には自分が学ばなければならないものがいろいろあるではないかと謙虚な気持ちになった。
 僕がその時強く思ったことのひとつに、斉藤メソードは、オペラとは遠いメソードのように認識されているけれど、むしろオペラで最も威力を発揮するメソードではないかということだ。
 そもそもメソードというものは、それが優れているものであれば、下手な指揮者をまあまあなレベルまで持って行くのに最も威力を発揮するし、下手なオーケストラにまあまあなアンサンブルをさせるために最も威力を発揮するのだ。だとするならば、ズレそうな要因が満載のオペラでは、音楽性よりもなによりも、まず指揮のしっかりしたテクニックが要求される。コンサートでは目をつむり最小限の動きでオケを操るあのカラヤンだって、オペラではかっと目を開き、時には完璧なタタキをするのだ。
 そんなわけで斉藤メソードの長所を、僕は尾高さんによって存分に見せてもらった。尾高さんの元では、オケも歌手達も決して乱れることなく安心してアンサンブルが出来た。そのもうひとつの原因として、彼の抜群のテンポ感が挙げられる。

オペラの様々なノウハウ
 彼は彼の体の中に完璧なメトロノームを持っている。一度この曲はこのテンポと決めたら、その日の気分によって変わるということがほとんどない。これはオペラではもしかしたら一番大切なことかも知れない。歌手達が立ち稽古で演技に集中している時、音楽は彼等の背景に徹しなければいけない。つまり安定した音楽を提供しなければいけないのだ。そのためには当然、その前の音楽稽古で、歌手達とのコンセンサスを取っておかなければならない。理想なのは、その音楽の方向がオーケストラになっても変わらないことだ。
 尾高さんがオペラをやる時、驚くべき事は、音楽稽古初日から本番まで、ほとんどテンポが変わらないことだ。これは何を意味するかというと、歌手達はもうずっとそのテンポに乗って演技もつけているので、本番で何も気にすることなく演技に没頭しても、何もアクシデントが起きないということだ。
 当たり前のようだが、これが出来る人は本当に少ない。勿論指揮者は機械ではないから、本番で突然インスピレーションが湧き出て、突然全く違うように振るなんていう方が人間味あるように見えるだろう。だが、コンサートではいいが、オペラではまず良い結果になったためしがない。それでアンサンブルがガタガタと崩れる例を僕はこれまでに何度見てきたことか。

 尾高さんの元で副指揮者として務めていたあの頃、正直言って振り方にかなり影響を受けた。東フィルとか指揮する機会があった時も、楽員に、
「チュー(尾高さんのこと、忠明のただがチューと読めるから)にちょっと似ているね。」と言われて、
「うわっ、バレてるか、ヤバイな!」
と思ったくらいだから。

 オケピットと舞台上でアンサンブルが乱れた時に、感情的な振り方をただちにやめて、腕を伸ばしてとにかく分かりやすく振ることに徹する、などというやり方は、彼から教わって今でも踏襲している。最も、現在までの間に、バイロイトでレヴァインやバレンボイムなども同じやり方をするのを見ているから、尾高さんだけの真似でもないのだが、少なくとも初めてそのやり方を見て、ほうーっと感心したのは、間違いなく尾高さんなのだ。

 副指揮者を長くやっていると、どうしても意識が歌手寄りになる。だから自分が指揮する側になって、本番中に歌手がずれると、ヤバイと思って無意識に合わせようとしてしまうんだ。そうするとオケにとっては突然違うことをやり始めるわけだから、対応しきれなくてズレる。オケがズレると歌手は次に入るところが分からなくなってしまい、傷はますます深くなる。
 こんな時は、むしろ一瞬ズレた歌手を見棄てて、オケのアンサンブルをいつも以上に整然とさせて、次に歌手が入ってくるための努力をしないといけない。オケが整然としていれば、歌手はいつか気づいて入ってくる。それでも入って来れなかったら・・・・もう知らない(笑)、というわけでもないが、少なくともオペラ指揮者は、歌手に合わせるところと合わせてはいけないところとを瞬時に見極めなければいけないんだ。これも、後年バイロイトでペーター・シュナイダーやシノポリやティーレマンなど、優れたオペラ指揮者がやっているのを見てなるほどと思ったが、最初に学んだのは尾高さんからだ。

 つまり僕が言いたいことは、尾高さんがオペラ指揮者としての天性の素質を備えているということ。これだけオペラ経験が長い僕が言うのだから間違いない。それにしても、あの二期会を振った頃こそ、尾高さんはオペラ経験ほとんどゼロだったはずなのに、よくまあそういういろんなプロのノウハウを知っていたと感心する。
 でも今回話を聞いてみたら、ウィーン留学時代に、毎日国立歌劇場に通ってオペラ三昧の日々を送っていたという。オペラを知らなかったわけではないのだ。

 というわけで、褒めすぎでねえのと言われそうだが、僕は別に新国立劇場の回し者なのでこういう言い方をしているわけではない。僕は尾高さんの音楽も人柄も好きだし、尾高さんが新国立劇場芸術監督になるのが個人的に嬉しいだけだ。
 今回の話し合いは、具体的に何についてというのではなく、ざっくばらんに日常会話から入っていって、そんじゃよろしくという内容だった。でも勿論次期監督としての抱負も語っていた。今まだここで言うべきでないのだが、いろいろな事を考えておられるようで、ますます頼もしい。
 僕のやっている合唱団のことは最大限に評価してくれていて、今後もお互いコンタクトを取って仲良くやりましょうね、と言われた。
「今度、一緒に飲みましょうね。」
と言って別れたが、後になんとも言えない爽やかさが残った。 


ドン・ジョヴァンニ快調
 新国立劇場「ドン・ジョヴァンニ」の評判がすこぶる良い。何といっても歌手達の粒が揃っているのが一番の原因だ。エルヴィーラのアガ・ミコライが良いことは先週述べたが、ドンナ・アンナのエレーナ・モシュクも良いなあ。今だから白状するけれど、彼女は舞台稽古の頃、風邪を引いて体調を崩していたので、本番になるまで劇場でフル・ヴォイスで歌ったのをほとんど聴いたことがなかったのだ。
 で、本番が始まってみたら、なんとスーっと伸びるまっすぐな声でモーツァルトの様式にも合っているし、今回のオリジナル楽器風ノン・ヴィブラートのオケとも相性バッチシの音楽的な歌唱を繰り広げている。
 主役のルチオ・ガッロは、圧倒的なドン・ジョヴァンニ像を作り上げている。声も圧倒的。ただ、奔放でやんちゃでワルな感じが過ぎるため、レポレッロのキャラと下手をするとダブッてしまう。レポレッロのアンドレア・コンチェッティの印象がもし薄く感じたとしたら、この際だから言っておきます。ガッロに押されて何気なく歌っているように見えるけれど、あんな素晴らしいレポレッロもなかなかいないのだよ。
 このドン・ジョヴァンニのキャラクターは、ガッロによるだけでなく、演出家のアサガロフの意図でもある。第一幕で農民の合唱の直後、ドン・ジョヴァンニがツェルリーナを見て彼女を誘惑しようと思い立ち、マゼットを遠ざけようとする。抵抗しようとするマゼットに対し、
「言うこと聞かないと・・・・・」
と言って剣を半分鞘から抜きかける。それを農民達が見ていて、
「ああいうやり方は好きじゃないな。」
という表情をさせる、などワルを強調するのはアサガロフの指図だ。
 貴族的で上品な面がないと、一幕後半でドンナ・アンナがドン・ジョヴァンニの仮面の下の本性に気づくまでの長い時間が不自然になるのだが、それでも今回のようにワルを前面に押し出した方が、最後の地獄堕ちの説得力が増すなあ。
 騎士長の亡霊の長谷川顕さん。白塗りの化粧は地獄堕ちの場面では効果的だが、地明かりの下でカーテン・コールで出てくると、いつも観客に笑われて可哀想。でも外人歌手達の強豪に囲まれても全く遜色ないその声と威厳のある歌はさすが。

迷惑をかけてあげよう
 今頃になって、親父が死んだのが身に応えてきた。もうこの世では会えないのだなあ、と思うと、日が暮れる頃など、体の内部から淋しさが湧き出てくる。僕もそうだが、お袋はもっと気の毒だ。これまでずっと朝起きてから寝るまで親父の世話をしていたのに、突然広い家にたったひとりになって、時間をもてあましている。
 元々お袋は、和裁で多少の稼ぎをしていた上に、お茶、お華、俳句などいろいろな事に興味を持っていたが、親父のせいであまり自由に外出も出来なかった。それがいきなり絶対的自由を確保しても、今はとまどうばかりだ。まあ、そのうち落ち着いてきたら、また動き出すのだろうが、まだその気力もないようだなあ。

 僕は、たまにお袋の所に行く。練習が夜早く終わる日に群馬に行って泊まり、次の仕事までに東京に帰ってくるだけだけど。
そうするとお袋は、
「お前が来るんじゃ、なんか作んなくちゃなんないから、面倒だな。」
なんて言っている。全く群馬の女というのはかわいげがないなあ。でもそう言いながら本当は嬉しいに違いない。電話の向こうから聞こえてくる声で分かるよ。
 そうやって誰かが来ると張り合いも出てくるが、誰も来ない日は何を食ってるか分かったもんじゃない。
「自分だけじゃ、おいしいもん作ってもしょうがないからね。」

 今年の暮れは仕事が早く終わるので、早めに群馬に帰って長くいよう。そうしてお袋にいっぱいおいしいもん作らせて、迷惑をかけてあげよう。孤独よりかは迷惑の方がマシなのだから。いや、もしかしたら迷惑という言葉は、言い方を変えると「張り合い」とか「生き甲斐」とか言えるのかも知れない。人は、他人と関わることで生きていける動物だから。



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