地球が静止する日
12月23日(火)はオフ日。久し振りに映画を見に行こうと思った。仕事が忙しかったので、息抜きするのにはあまり深刻な内容でない方がいい。ふさわしい映画を物色する時にはインターネットが最高だね。予告編まで見て比べられるからね。娘達は横で、
「パパ、それなら『ウォーリー』にしなよ。」
と言っていたのだが、僕は「地球が静止する日」に決めた。立川シネマ・シティ2。
映画は、はっきりいってたいしたことなかった。まあ、期待もそう大きくはなかったからいいんだけど・・・・。でも、僕って、どうしてこう、必要な時に必要なものが与えられるんだろう。この映画は、今リメイクしている「ノアの方舟」に大きなヒントを与えてくれることになったのだ。
地球滅亡系の映画というものは、ある意味みんな方舟的な啓示を含んでいるものだ。「地球が静止する日」もそうだ。宇宙を管理するエイリアンは、宇宙の中で危機的状況にある地球を守るためにやって来た。ところがそれは、人類を含めての地球ではなく、むしろ“地球にとって有害な人類”から地球を守るためにやってきたのだ。つまり人類を滅ぼすためということだ。
地上の至る所に謎の球体が降り立つ。その中に様々な動物が入っていく。つまりこれが方舟というわけだ。人類が残される。そして洪水が始まる。その洪水は水によるものではなかった。では何?それはネタバレになるので言わない方がいいね。それはあらゆるものを破壊していく。もはやそれを止める手だてはない。
ところが、最後がなんともありきたりな結末でがっかりした。エイリアンの唯一の理解者であるヘレンは、
「わたしたちは変われるわ。」と言い、エイリアンは、
「人類には別の面もあるのだ。」
と納得して、破壊を止めて去っていく。
ヘレンのセリフが安易なことは、現代の世界を見れば一目瞭然だし、一方、エイリアンのセリフは、そこまでいろいろ理解している宇宙人が、これまで人類に別の面があることに気づかなかったんかい、とツッコミたくなる。つまり、別の面がある人類だけど、変われなくてここまで来たのだから、滅亡させるんでしょ。それを、ちょっと素敵なヘレンの動向を見ただけで、人類全体の運命を左右するような決断を、こいつ一人が勝手に出来て、滅亡を途中で止めて帰って行くなんて、あっけなさ過ぎる結末だよ。
とまあ、ツッコミ始めたらきりがないので、この辺でやめておくが、オペラと違って、通常ツッコむ要素のきわめて少ない映画で、これだけツッコミたくなるのだからヤバイよこの映画は。
でも、地球を救うために人類を滅ぼすという発想は大いに気に入った。そこで、そのアイデアを「ノアの方舟」でパクろうかと思ったんだけど・・・・そのままパクッたらただの真似にしか過ぎないし、子供相手の作品なのにやたら複雑になってしまうのも良くない。で、いろいろ考えた。
ミュージカル「ノアの方舟」
洪水の後、やがて水が徐々に引いていき、新しい土地にいよいよ乗り込む。曲は「上陸のマーチと動物たちのサンバ」だ。どうしても僕の作品というのはサンバが一度は出てきてしまうんだ。動物たちが会場を練り歩くのさ。その最後に、いよいよノアが上陸という時になって神様に止められてしまう。
「見よ、お前達人間がいなければ、この地上は永遠に調和している。人間だけがその調和を壊すのだ。ノアよ、お前に正しい人間の国を造る決心があるかな?さもなければ上陸を許可しない。」
と神様はノアに問う。ノアは、
「分かりました。私は頑張ってこの地上を夢と希望に満ち溢れた素晴らしい国にしてみせます。」
と決心する。
そしてとうとうノアは上陸する。動物たちと一緒にテーマ・ソングである「新しい世界」を歌っていると、向こうの方からいろんな国の民族衣装をまとった人達が現れる。黒人もいる。白人もいる。彼等もそれぞれの場所から方舟を造り、ここに辿り着いたのだ。こうして民族を越え、人種を越えて新しい国造りをめざして歌い合うのだ。
だけど、これで終わりじゃないよ。物語の最初に登場した現代の小学生が、ノアの物語をずっと見ていて、また現代に戻って来るのだ。ちょっと「おにころ」に似ているんだけど、これは当初からの設定。
でも・・・・う~ん・・・・現代に戻ってきてもこの有様だろう・・・・。どう考えても今の世界って、あと滅ぶしか道がないように思うじゃないか。かといって「地球が静止した日」のヘレンのセリフのように、
「僕たちは変われるんだ!」
で終わるのも短絡的だしな。
ちなみに、「地球が静止する日」の映画の中では、英語で、
We can change !
と言うんだぜ。まさかこの映画、オバマ次期大統領の宣伝のために作ったんじゃないだろうね。
いっそのこと、その小学生に黙々と方舟を造らせて、現代社会の滅亡を暗示させるところで幕を閉じるか。でも、それじゃあいくらなんでも冷たいね。ということで結末を悩みながら年を越すことになりそうです。だれか良いアイデアを下さい。
ヤバい現代社会
話は変わるが、フランス革命の時のモットーである『自由』『平等』『友愛』のうち、最後の『友愛』については、とかく見過ごされがちだ。ところが本来、前の二つのモットーは、この『友愛』の上に成り立っている。というか『友愛』がなければ前の二つもなければ、そもそも何も始まらないのだ。
それまでの社会では権威が上から与えられていた。王侯貴族や教会が全てを支配していたのだ。それに対し、民衆が立ち上がった。
シラーが第九交響曲の元である「歓喜に寄す」を書いた1785年頃は、新しい世界の新しい秩序を、民衆が自分たちの手で造っていこうとしていた。
「ひとりでは出来なくても、みんなで力を合わせれば、もしかしたら実現できるかも知れない。仮に自分がその戦いで命を失い、その世界の実現をこの目で見ることが出来ないとしても、自分の子供達のためによりよい世界を準備してあげよう。自分はその礎になればいい。そのために互いに兄弟達と呼び合おう。」
だから第九の詩では「兄弟達」と歌われるのだ。
社会を構成しているひとりひとりが、少なくとも他人の幸せを歓び、人の役に立ちたいと思っているならば、その社会は健全でいられる。つまり『自由』『平等』『友愛』のモットーは自分にではなく、他者に対して向いているべきなのだ。
あなたが自由であるように。 あなたが差別を受けないで、ひとりの人間として平等に扱われるように。 あなたと力を合わせて生きていけるように。 |
自分がもっと勝手に生きられるように。 自分もあいつと同じ権利や利益を得られるように。 自分がもっと友達を利用できるように。 |