ジャコミーニにたまげた年始

三澤洋史 

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ジャコミーニにたまげた年始
 喪中なので「おめでとうございます。」という言葉が言えなかったのが最も辛いことだった。昨年の暮れは、27日(土)で仕事が終わり、28日(日)には国立の家の大掃除。29日(月)に群馬に帰って、群馬の家の大掃除。それからミュージカル「ノアの方舟」の台本を考えたり譜面を書いたりして過ごした。
 年が明けたら、今度は3月の「ヨハネ受難曲」のパート譜に、ボーイングや様々な記号を書き込んで、プレイヤー達に送れるように仕上げた。年末年始も何気なく仕事している。本当に貧乏性だなあ。
 いつも通り甥や姪達が1月2日には来て賑やかだったが、やはりおじいちゃんがいないのはちょっと盛り上がりに欠けたなあ。

 3日の夜に東京に帰り、4日は新国立劇場オペラパレス・ガラコンサートの練習。5日、6日と本番。テノールのジャコミーニの歌唱にぶったまげた。高齢なのに安定した歌唱。声の中になんともいえない表情がある。アンコールの「誰も寝てはならぬ」のH音は絶品だった。今年は春から縁起が良いって感じ!
同時進行で「蝶々夫人」の稽古。12日(月)にはもう初日だ。

 「ノアの方舟」は結末がひらめいて、いい感じになってきた。この週末でたぶん台本も楽譜も仕上がる。環境問題や文明批評を盛り込んだが、子供相手なので難しくなりすぎないように心がけた。映画「地球が静止する日」を見ていたのは、かなり参考になった。

カラヤンがクラシックを殺した・・・か?
 いろいろ読んだ本の中に「カラヤンがクラシックを殺した」宮下誠著(光文社新書)があった。著者は最初の方で、
「本書は故意にカラヤンの音楽をおとしめようとして書かれたものではない。」
と述べているが、結局はカラヤンの音楽に対し反対の立場をとることを前提に書かれた本である。
 カラヤンの音楽に少なからず影響された僕としては、必ずしも同意できない記述もところどころ見られる。でもだからといって、僕はこの本の悪口を言おうと思ってこの欄に紹介したわけではない。
 
 僕は演奏家だから、演奏を享受しっぱなしの聴衆と違って、他の演奏家からはいいとこどりだけして、不満を感じたら自分の演奏で発散できる。カラヤンの演奏にも不満を感じる点は少なくないが、宮下氏のように徹底的に反発するほど根に持っているわけではない。
 僕が興味を持つのは、どうしてカラヤンはこんな風に言われてしまうのかという点だ。カラヤン以外に「クラシックを殺した」などと言われる音楽家はいないからだ。

 最初に著者はカラヤンのどういうところに対して反対の立場を取るのかについて触れてみたい。それについては著者自身が明確に述べている。

カラヤンに代表される価値観、資本主義的競争原理における勝者の立場の影響力の大きさ、それに対する知的反省の欠如、私はこれらに対しては極めて明確に否定的立場に立たざるを得ない。

こう言うから、著者の意見はカラヤンの音楽そのものではなく、生き方や行動にあるのかと思うと、それだけではなく、やはりその発想は音楽から出発しているようだ。

音楽を、耳の快楽、感覚の歓び、と考える向きには、カラヤンの音楽は最上のアミューズメントを提供するだろう。

ここから先は、カラヤンの生前から沢山の評論家によって言われ続けていた意見が並ぶ。すなわちフルトヴェングラーの「神妙」で「精神的」な演奏と対極的な、「軽く」「手応えがなく」、およそ「表面的」で「快楽追求的」な演奏ということだ。

 精神性に欠けるという意見は、ある意味では当たっている。そのことについては後に述べる。その一方で、誰しもが認めるカラヤンのサウンド、つまりあの艶やかで豊穣な音を、単純に「表面的」とか「快楽追求的」とか言ってしまってその先の思考を停止してしまう態度は(それも昔から言われ続けていることだが)好きではない。というのは、まさにここにこそカラヤンの音楽の本質があるからだ。

 カラヤンの指揮するオーケストラのサウンドは、それがどこのオケであれ美しい。それは事実であり、反カラヤンを自称する人たちも認めるところだ。でもそれを軽んじてはいけない。音楽において美しい音、あるいは個性的な音を持っているか否かというのは、とても大切なことなのだから。
 ベルリン・フィルというオケは、僕がベルリンに留学していた時代、世界一の機能美を誇るオーケストラであったばかりか、このオケ以外のどこでも決して聴くことが出来ない独特のサウンドを持っていた。それがカラヤンの死後、僕の印象では、どこでもあるようなただの一流オケに成り下がってしまった感がある。
 下手になったわけではない。相変わらずもの凄くうまい。でも、かつて僕を他のどこでもないベルリンという都市に留学させた決定的なものが、このオケから失われたことは事実だ。今僕が20代でこれからどこかに留学するとしたら、おそらくベルリンには行かないだろう。
 その、かつてあって、今は失われてしまったものを作り上げたのは他ならぬカラヤンだ。カラヤンは、その希有なサウンドを武器として、様々な作曲家の様々な作品と向き合っていった。そのサウンドが個性的であればあるほど、当然のこととして、そのサウンドと合う作曲家と合わない作曲家が出てくる。カラヤンはかなり広いレパートリーを持っていたが、実際に彼のサウンドに本当に合う作曲家は、決して多くなかったと思う。

 作曲家にはいくつかのタイプがある。バッハのように音の論理性を追求するタイプ。後に続く作曲家としてベートーヴェンやブラームスがいる。こういうタイプは、モチーフの論理的展開や楽曲の構築性の方に意識が向いている一方で、管弦楽の色彩感や表出性には割と無頓着だ。それでもベートーヴェンやブラームスは、ホルンのような特定の楽器にだけはこだわっていたりするけど・・・・。
 ベートーヴェンやブラームスを得意としているフルトヴェングラーの演奏がいまだに人気を誇っている背景には、極端な話、多少録音が悪くて音がきたなくても、聴衆にとっては別に問題ないという要素があげられる。精神性さえあればというところなのだろう。僕自身もフルトヴェングラーは尊敬しているし大好きだが、彼のベートーヴェンなどをずっと聴いていると、もっと良い録音で聴きたいと思う。本当は、ドイツ音楽だからきたない音で良いなどということはないのだけれどね。

 たとえばバッハでは、極端に言えばフルートをオーボエに変えても本質的なところでは損傷はない。現に同じ曲をパロディーとしていろんな楽器に転用している。けれど、たとえばドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の冒頭がフルートではなくオーボエで演奏されたらどうだろう。それでは違う音楽になってしまう。あの冒頭はフルート以外にはあり得ないし、さらに言えば、フルートのあの音域が持つあの音色以外にはあり得ないのだ。 ドビュッシーというのは、そういうタイプの作曲家なのだ。バッハとどちらが上で、どちらが下とかいう話は、しても無意味だ。
 モーツァルト、シューベルト、ドビュッシー、ラベルのようなタイプの作曲家では、そこに鳴っている音の音色あるいは色彩感も含めてのサウンド自体が、かなり本質的なところで作品の本質に関わっている。こういう作曲家の作品を聴く場合には、論理性や構造で聴かせるわけではないので、音色の魅力がないと退屈になってしまう。

 およそ演奏家と呼ばれる者になろうと思ったら、自分の音色を持っていないといけない。弦楽器奏者も管楽器奏者も、指が動いて速いパッセージが弾けるからプロになれるわけではない。音を持っていない人は、どんなに曲が見事に弾けてもプロにはなれない。まあ、早い話、声楽の例を出せばすぐ分かるだろう。
 アリア「誰も寝てはならぬ」を最後まで歌えるから一流になれるわけではない。パバロッティよりも音符に正確に歌えるテノールは世の中に沢山いる。ドミンゴよりも精神性が高いテノールも少なくないだろう。勿論それはそれで価値がある。でもその演奏家が一流かどうか問題にしたとき、最後の決め手となるのはやはり音色だ。音色はそれほど大事だし、ましてや誰も持ち得ないような美声を持っているとしたら、それだけで価値があるものだ。
 バッハの「無伴奏パルティータ」を演奏するヴァイオリニストは、音色が悪くてもまあ許されるかも知れないが、「タイスの瞑想曲」は夢見るような音色で聴きたいなあ。音のきたない演奏家が精神性だけで弾いた「タイスの瞑想曲」は、きっと退屈で仕方がないだろう。

 何が言いたいのかというと、カラヤンがあの音色を持っているということは、それだけの表現のキャパシティを持っているということなのだ。彼がベルリン・フィルからもウィーン・フィルからもあの音色を引き出したということは、彼の心の中に誰も想像できない確固たる音色のイメージがあって、それを誰も出来ない方法で伝達したということなのだ。

 指揮者の僕から見て、カラヤンは指揮の映像から最も多くのインスピレーションを得ることの出来る指揮者だ。彼の動きは、通常の指揮者のテンポを取るとか、表情を作るとかという動作ではなく、あの音色を作り出すために費やされているからである。
 オペラは別として、実際コンサートにおいては、彼の棒はもはやテンポをとってはいない。表情付けもリハーサルではつけているのだろうが、本番ではオケの自主性に任せて、彼がやっていることは徹底して音楽の流れとサウンド作りだ。最初それが分からなくて、不可解な動きの秘密を知ろうと、僕はわざわざベルリンにまで行ったのだ。
 彼の動きとサウンドの関連性については、今の僕はかなり理解しているつもりだ。残念ながら口で言ったり文章で書いたりは出来ないのだが、それはもの凄く高等技術で、世界中で誰も出来なかったことは確かだ。今でもカラヤンの他には誰もいないだろう。ああいうサウンドを持っている指揮者って・・・・。
 その点に限って言えば、フルトヴェングラーもクレンペラーもベームもクナッパーツブッシュも凡人の域だ。彼らは、カラヤンがこだわった意味での音色にはあまり興味なかったのだ。

 それについて「口当たりがよい」とか「表面的」とか「人工的」とか言うのは勝手だが、僕個人としては、それを言うなら、パバロッティの音色についても「口当たりのよい」とか「人工的」とか同じように言って欲しいなと思う。
 パバロッティがパバロッティなのは、あの音色があるからだし、カラヤンがカラヤンなのも、あの音色があるからなのだ。最も、パバロッティにもしあの音色がなかったとしたら、ドミンゴほど知的でない彼の歌は「表面的」と言われても仕方がないだろうな。でも「ベネデッティ・ミケランジェリーの音色がもしきたなかったら?」などというのは、考えるだけ無駄というものだ。

 まあ、要するにフルトヴェングラーとカラヤンとでは、武器とするものがそもそも違うと僕は言いたいのだ。カラヤンの音楽造りはその音色から始まりその音色の周りを回っている。それでチャイコフスキーなど演奏すると、その響きでもって誰も出来ない世界を構築するのだ。
 ムラビンスキーなどロシア系の指揮者が演奏するチャイコフスキーはゴツゴツしていて、ロシアの自然の厳しさが浮き彫りにされるが、カラヤンのチャイコフスキーは限りなく華麗だ。厳しい自然に立ち向かう人間の苦悩の代わりに、都会的な感傷が支配し、むしろそれが自殺未遂まで遂げたチャイコフスキーの心の闇に案外迫っていたりする。

 シベリウスの交響曲は、他の指揮者で聴くと構造的な脆弱性が感じられ、しかもやぼったいのであまり好きになれないが、カラヤンでだったら聴ける。実はこういう作曲家が何人かいる。
 シベリウスの場合は、断片的なモチーフが解決することなく終楽章まで持ち越され、しかも終楽章でさえ、なんら解決を見るわけではない。だがカラヤンの演奏で聴くと妙に納得させられてしまう。個々の場所の響きが素晴らしいので、それぞれの管弦楽の醸し出す情景に酔うことが出来、興味が曲の構造ばかりに集中しないからだ。
 こうやって音色の多彩さを使って、曲の上に新しい世界を構築できるカラヤンの才能は素晴らしいのだ。フルトヴェングラーやクレンペラーでは絶対に出来ない芸当だ。

 断言するけれど、ベートーヴェンは、本当はカラヤンから最も遠い作曲家だ。にもかかわらず何であんなに何度も録音したのだと僕は思う。ここから先はかなり宮下氏と意見が一緒かも知れない。つまりカラヤンは、ドイツ・グラモフォンとグルになって、資本主義原理にのっとってレコードを出しまくり、良くもない音楽をあたかも権威づけられたかのように市場に垂れ流ししたというわけだな。
 誰かカラヤンの近くに本当のことを言う奴はいなかったのかな。
「あんたのベートーヴェン、良くないから、もうあまり演奏しない方がいいよ。」
ってね。
 
 僕もそれに乗せられて、買っては後悔し、それでもまた新全集が出ると、もしかしたら今度は良いかなと期待してまた買っては裏切られた。それだけではない。白状するけれど、最近も性懲りなく失敗した。
 先日、タワー・レコードで1982年のベルリン・フィル100周年記念演奏会「英雄交響曲」DVDが二千百円で売っていたのでつい買ってしまったのだ。いいわけがましいが、かつてベルリン留学中の僕は、その演奏会にちょうど居合わせていた。そのライブだというので、もしかしたら自分が映っているかなと思ったし、なによりもなつかしかったのだ。
 で、聴いてみたが、第2楽章の葬送行進曲があまりにさっぱりと思い入れなく演奏されるのに腹が立った。英雄を失った痛みをベートーヴェンが心を込めて譜面に書き留めたというのに、全く理解していない!本当にカラヤンは、こういう音楽に関して言うと、全くの不感症だ。
 確か、あの時の記憶では木管楽器がみんな倍の数で、弦楽器も、第一ヴァイオリンがなんと20人もいた。わざわざそんな多人数にしてどうしたかったというのだ。
 
 それにしても二千百円という安さで店頭に大量に並んでいるんだぜ。誰だってつい買いたくなってしまうじゃないか。もうひとつ白状してしまうと、同じく二千百円で「田園交響曲」と「第七交響曲」のカップリングのDVDも買った。この「田園交響曲」も、田園風景からはほど遠く、一体何考えて振ってるんだようと腹が立つ。
 要するにベートーヴェンでは、美しい音はそれだけでは何の効力も持たないのだ。それが理解できないカラヤンは愚かというしかない。でも、断っておくが、それでも「美しい音が悪いわけではない」ということだけは強調しておきたい。彼が曲の本質に迫れないことのみが批判されるべきなのだ。

 ブラームスも、ある意味バッハやベートーヴェン型の作曲家だが、ブラームスの場合、ロマン派だけあって、響きのセンスを受け入れる包容力がある。なのでカラヤンのブラームス交響曲は、弦楽器の響きの奔流が心地良く、全体としてはかなり優れているといえる。 今、交響曲第一番を勉強し始めたところなので、カラヤンの最後の来日の演奏をi-Podに入れて聴いている。第一楽章はかなり良い。第二、第三楽章はまあまあ。だけど、第四楽章に関して言うと、音楽が停滞していて、ブラームスの終楽章特有の異常な高揚感がない。なんで?
 こうなると美しい音で流れている分、しらじらしさや空しさが漂う。宮下氏がこの演奏会をサントリー・ホールの外から聴いていたらしいが、彼の感じた後味の悪さや気味悪さの正体は、これだけ豊穣に響きが充満しているにもかかわらず、内的緊張感の欠如を感じたからだろうと思う。カラヤンの体の中には、もうエネルギーがなかったのかも知れない。

 一方、オペラでのカラヤンは素晴らしい。ヨーロッパでカラヤンが最大限の評価を受けている原因は、彼がオペラのレパートリーを持っており、そのどれもがある水準に達していることにある。
 フルトヴェングラーの時代のドイツの指揮者と違って、ヴェルディやプッチーニなどイタリア・オペラの分野でも、納得のいく演奏を聴かせる点こそ、カラヤンのカラヤンたるゆえんである。
 彼の歌手の人選はやや変わっている。そしてそのことで賛否両論を呼んでいたが、彼のめざす、歌手を含めてのトータル・サウンドを理解すれば、他の指揮者よりもリリックな歌手を好んで使う彼の嗜好には不可解な点はない。この点に関しては、いつかくわしく書こうと思う。

 結果的に僕がいいたいことはこうだ。カラヤンとて、一人の指揮者として、ある特定の個性を持ち、その個性故に曲によって向き不向きがあったのだ。おびただしいレパートリーを持っていたといったって、現代音楽は不得意だったし、マーラーも苦手だった。
 その意味では、他の指揮者同様、良いものは良いと評価され、良くないものは良くないと評価されるべきであったろう。そしてそれは、宮下氏が怒る前に、すでにカラヤンの生前に本人が報いを受けていたのだ。

「カラヤン君、悪くないぞ、みんなが言うほど悪くない!」

この、クレンペラーがカラヤンに直接言った言葉が、カラヤンを取り巻く本質を言い当てている。

ひとつ。カラヤンはみんなに悪く言われていた。
ふたつ。その割には悪くなかった。

結局、カラヤンはそれ以上でもそれ以下でもない演奏家だったというわけだ。



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