「ヨハネ受難曲」講演会無事終了

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「ヨハネ受難曲」講演会無事終了
 樋口隆一さんがあんな楽しい人だとは思わなかった。僕は樋口氏の「バッハ・カンタータ研究」(音楽之友社)という本をずっと愛読していた。この本は通して読んでも楽しいが、カンタータに関する様々な事柄だけでなく、「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ曲」それぞれの成立過程なども書いてあり、何かを調べる時の辞書代わりにも使える便利な本なのだ。
 それと最近小学館から刊行した「バッハの風景」という本も楽しい。こちらの方がくだけていて、ご自身のことや、樋口氏がバッハと並んで好きというシェーンベルクにまで話が及んでいる。

 本の中にもその人柄がなんとなくにじみ出ていて、少なくとも学者にありがちな人嫌いで偏屈という感じではないとは思っていた。でも今回の講演会の依頼をした時にまず聞かれたのは、
「ヨハネ受難曲というと、4つある版の第何稿でやりますか?」
という事だったので、おお、さすが学者は聞くことが違うなと思った。何度かメールでやりとりしている内に、とても気さくで良い人だなという確信を持つに至った。

 ところが、気さくなどころか、講演会が始まってみると、まあ、よくしゃべるわしゃべるわ。とどまるところを知らない。まるで落語を聞いているよう。第一部の講演は1時間15分の予定だったが、なんと1時間45分に及んだ。30分もオーバーしたわけだが、話の内容が興味深く、その語り口が楽しいので、時間はまたたく間に過ぎた。

 僕自身、ヨハネ受難曲についてはそれなりに調べているし、4つの異なった版についても本を読んだり(それも樋口氏の本だが)、ベーレンライター版スコアの付録を見て知っているので、それらの点については新しいことはないのだが、興味を引いたのは、樋口氏が主張するところの、バッハとライプチヒ市議会との駆け引きの話だった。

バッハが勤めていたトーマス教会のカントールという職は、いわば寄宿制の学校の先生だ。バッハは、芸術家という面と先生という面とで引き裂かれていて、ライプチヒ市議会の中には、「おとなしく先生として勤めてくれていればいい」という意見を持っている人が少なくなかった。「礼拝の音楽にオペラチックな要素を持ち込まないこと」など契約書の条項に書かれているにもかかわらず、バッハは、当時トレンドとなっていたオペラのレシタティーヴォとアリアなどの様式をカンタータや受難曲に持ち込んでかなり派手に作曲をした。教会に訪れる会衆たちは喜んだかも知れないが、やり過ぎたバッハは当局からとがめられることとなる。これが第二稿でハジけたバッハが第三稿でまた第一稿に戻った原因ではないかと思われる。
なるほど。現代から見ると、バッハの芸術家としての面しか見えないので分からないが、バッハとて時代の中で、様々な人間関係の駆け引きをしながら生きていたのだな。僕も自分自身のことを考えながら、音楽を職業として家族も食わせながら生きるということがどういうことなのかよく分かるし、楽聖バッハも霞を食って生きていたわけではないから、かえってそういう話を聞くと、バッハがとても身近に感じられる。

 第二部の「三澤洋史の爆弾対談」でも、実質的なバッハが実際の上演目的がないままに「ロ短調ミサ曲」を書くことはありえないとか、現実的なバッハの面が樋口氏によって強調された。それから話はシェーンベルクにまで広がって、これまた楽しかった。もっともっといろんな話をしたかっのだが、時間がおしていたので、やや心残りの閉会となった。そのくらい樋口氏との語らいは楽しく、内容のある講演会となった。

 東京バロック・スコラーズでは、演奏会の前にその演目にちなんだ講演会を行う。当団には二つの特徴がある。ひとつは、バッハを愛する団員たちが、演奏だけ行うのではなく、様々な角度からバッハにアプローチしていくこと。ふたつめには、団員とその指導者だけの閉じられた世界だけに閉じこもるのではなく、学者、評論家あるいは他団体たちと積極的に関わっていき、それによってバッハを愛する者たちのネットワークを作っていくこと。そのふたつの特徴を際だたせていくためにも、講演会は演奏会と同じくらい重要な要素となっているのだ。

 今年は夏にバッハのお祭りBACH TAGEを開催する。8月8日(土曜日)の午後がバロック・ダンスの講習会、夜は僕が講師で「初めてのバッハ」講演会。8月9日(日曜日)は、BACH FESTと称して、当団を含む5団体が参加し、それぞれバッハのモテットを一曲ずつ演奏する演奏会を催す。その後で、それぞれの団体がどのような美学を持ってバッハを演奏しているかといった内容のパネル・ディスカッションを行い、最後に僕の指揮で全団体合同でモテット第6番を演奏する。
 司会は前回の講演会「若き日のバッハ」の講師加藤浩子さんが担当してくれる。樋口隆一氏が指揮する明治学院バッハ・アカデミーも出演する。パネル・ディスカッションでは、僕、加藤さん、樋口氏も参加するので、ここでのバトルは必見ですぞ!

 こんな風に、他の団体だったらやらないようなことを東京バロック・スコラーズは行う。そのプロジェクト名は「21世紀のバッハ」と呼ばれる。いつか僕は、何人かの学者、評論家を集めて「朝まで生テレビ」のような討論会をやりたいと思っている。学会のような閉じられた世界ではなく、バッハに親しみながら、
「そこんとこ、どーなんですか?」
という感じで、対立する学者たちの意見を煽りながら、熱い議論を仕掛けていく。出来ればテレビ局も巻き込みたい。こんなことって、たぶん日本中で僕しかやろうと思わないし、出来ないだろうと、密かに自負しているんだ。

まあ、その前に、目前に控えた「ヨハネ受難曲」を仕上げなければ。またいろいろ報告します。

きつねと私の12か月
 この「今日この頃」をお読みになっている皆さんに命令します。新宿ピカデリーなどで現在上映中のフランス映画「きつねと私の12か月」(オフィシャル・サイトhttp://kitsune12.jp/index.html:次の写真は引用)を見に行って下さい。 もしかしたら、皆さんが行く頃にはもう上映してないかも知れません。何故って、上映初日に次女の杏奈が行った時で観客は10数人だったそうで、僕が行った時なんかは、わずか5人くらいだったから。
 こんな良い映画がこんなに人気がないなんて許せないんだ。今、CAFE MDRには、かなりの読者が訪れてくれているようだから、これを総動員して映画館を満員にして、ランキングNO.1にして欲しい。なんならオフ会を新宿ピカデリーにしようか・・・・。
(事務局注 オフィシャルサイトは消滅のため2021リニューアル時にオフィシャルブログを追加)

 ある日、学校帰りに少女は森できつねに出遭う。その瞬間、少女はきつねに恋をする。彼女は、くる日もくる日もきつねを求めて森をさまよう。きつねはとても用心深い。犬や猫のようには人間になつかない。でも少女は根気よくきつねとの距離を縮めていく。とうとうきつねは少女と仲良しになった・・・・と少女は勘違いした。そして少女にとって現実を思い知らされる事件が起きてしまう。

 登場人物は極端に少ない。って、ゆーか、映画のラスト・シーンをのぞけば、ほとんど少女ときつねだけだ。その代わり、やまねこ、オオカミ、はりねずみ、カエルなど、森の動物たちがふんだんに登場する。
 画面いっぱいに映し出される自然の描写が素晴らしい。冒頭のクレジットが出る時の明け方の映像だけで美しさに涙が出そうになるよ。真っ暗からうっすらと朝焼けにそって山並みのシルエットが映し出される。それがだんだん明るくなっていき、やがて太陽が昇る。木々や草原が映し出される。そのさわやかさ!
 まるでドキュメンタリー映画のように、動物たちの生態が描かれる。でも、動物たちをありのままに撮ったのではなく、すべてが物語に組み込まれている。特にきつねの“演技”が素晴らしい。CG(コンピューター・グラフィックス)などでどうにでも作れるこの時代に、特撮を一切使っていないこうしたローテクの手法が逆に新しい。
「え?どうやって撮ったの?」
と思うことしきりだ。よくこんな風に出来上がったものだ。

 それに音楽と音響が素晴らしい。ドルビー・デジタルの4チャンネルのサラウンドなんて、いつも映画館に行く度に、
「これって、人をたまげさせるだけで、本当は必要ないんじゃない?」
と思っていたけれど、森の中のシーンで右や左や背後からたえず聞こえる鳥のさえずりに身を委ねていると、自分が今大自然に包まれている疑似体験をすることが出来る。こんな使い方ならサラウンドもいいね。

 きつねの可愛さには確かに癒されるけれど、これは安易な“癒し系”のお話しではない。自然は容赦なく厳しく、森はやすらぎの場ではない。動物たちはみな必死で生きている。そばかすだらけの少女リラの表情はたまらなく愛らしいが、手なずけたきつねテトゥに首輪をし、綱をつけて“自分の意のままに”扱おうとする行為には、人間のエゴがすでに隠れている。

 映画を見ながら、僕は「星の王子様」とカブる部分を感じた。王子がきつねと出遭うシーンだ。王子がきつねに、
「遊ぼうよ!」
と言うが、きつねは、
「君とは遊べないよ。まだ“飼い慣らされて”いないから。」
と答える。
この“飼い慣らす”という意味のフランス語apprivoiserに関しては、かつてこの「今日この頃」でも書いたことがあるが、今回の映画でも冒頭の方のナレーションで、
「私はこのきつねを手なづけようと思った。」
というような字幕が出たところでapprivoiser という単語が聞こえた。
 「星の王子様」でも出遭った者同士が少しずつ少しずつ距離を縮めていって、やがてお互いがかけがえのない存在となるプロセスが描かれていた。王子は、きつねの言葉を聞いて、自分の星に残してきた「とても大切に思っているのだけれど、うまく付き合えないバラ」のことを思う。そのバラは、著者のサンテグジュペリと彼の妻との関係を背後で物語っていた。

 お互い、とても大切に思っているのだけれど、一緒にいられない。あるいは、一緒にいないことがお互いのため、という悲しい現実が、この映画でも描かれている。別れがくる。でも、愛したということは消えない。

「aimer愛することとposseder所有することは違うのよ。」
成長して母親になったリラが、ラスト・シーンで息子に向かって言う。あんなに強くテトゥを愛したリラなら、またその溢れるような愛でもって息子を包んでいるに違いない。愛する辛さを経験して、人はまたひとつやさしくなれるのだ、と作者は言いたいのだろうか。 息子は母親に向かって言う。
「でもママ、きっとテトゥもママのこと愛していたに違いないよ。」
う~ん、それはどうかな。リラの一方的な愛だったかも知れない。でも、それでもいいじゃないか。人生では、愛することの方が愛されることよりも価値があるのだと聖フランシスコも言っているじゃないか。
ともあれ、このラスト・シーンは、映画をここまで観てきた者に忘れ難い余韻を残すのだ。

 全くよう、フランスでは240万人を超える動員数を記録したというのに、日本ではなんてザマだい!本当に価値の分かんない国民だよ。みなさん!だから行ってね。セリフが少なくてゆっくりなので、フランス語の勉強にも最適だよ。僕は後でDVDが出たらそれを買って勉強に使おうと思っているんだ。

(事務局注 2021リニューアル時に追加)



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