バラコバマー

三澤洋史 

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バラコバマー
 新国立劇場の練習は基本的に午後からなので、お昼は大抵妻と食べる。その時にBSニュースをよく見ている。元々は長女の志保がフランスで見ていたアナウンサーが出ているというので見始めたのだが、同じニュースを報道しても、各国の扱い方が微妙に違うので興味深い。
 先日、フランス語のニュースの主音声を消して原語で聞いていたら、バラコバマーという言葉がやたら飛び込んできた。オバマ新大統領のことをファーストネームをつけて固有名詞化して呼んでいるわけだ。バラク・オバマなのだが、なんでもつなげてしまうフランス語で聞くと、バラコバマとなってしまうのだ。しかも文の途中では単語は尻上がりになるのでオバマのマがやたら高く、ちょっと長く聞こえるのでバラコバマーなのだ。

 アメリカという国は、世界の文明を背負っているような顔をしているけれど、その実、案外後進国だと思う。だって黒人の大統領が生まれただけでもあんなに大騒ぎするのだからね。国中には、まだ根強い人種差別が残っている。現に、白人至上主義のグループが反オバマの集会を開いたり、暗殺予告をしたりしている。まだこんな愚かな人達が存在しているんだとあきれてしまうよ。
 一方、黒人たちが踊りながら喜んでいて、オバマ氏を“自分たちの英雄”と祭り上げたりしているのを見ると、どこかでそれを、
「いい気になるなよ黒人たち!」
とねたましく見ている白人がいるような気がして、あまり彼等の反発を煽らないで欲しいなどと、僕は思わず変な心配をしちゃったりする。そしてまた、そんな心配をしてしまう自分が臆病なような気がして、何となく居心地が悪い。
 一体、白人たちは何を根拠に、自分たちが他の民族よりも優秀だと思うんだろうな。そこんとこが黄色人種の自分には全然理解できない。僕は、中学時代からジャズという音楽に傾倒した関係で、昔からアメリカの人種差別問題に関してとても敏感だった。同じ人間なのに、アメリカ人はインデアンを追いやってそこに自分たちの街を作り、さらにアフリカから黒人を買って、まるで家畜のように扱った。

 ジャズという音楽は、僕には、アメリカに人権問題を促すための神様の計らいのような気がしてならない。彼等に西洋の楽器を持たせたところ、彼等が奏でる音楽は、白人の発想からは考えられないものだった。こういうことが僕には愉快だった。それでもマイルス・デイヴィスをはじめ、沢山の黒人ミュージシャン達は、どんなにビッグになっても差別を受け続けていた。
「60年足らず前だったら、レストランで食事させてもらえなかったかもしれない父を持つ男が、神聖な宣誓のためにあなたたちの前に立つことができる。」
とオバマ氏が就任演説で自ら述べているように、黒人は、つい最近までレストランにも入れてもらえず、トイレも列車も白人とは別にさせられていたのだ。

 オバマ氏が、具体的にどんな政策を展開し、どのような業績をあげていくか、まだ分からない。でも、オバマ氏を選んだアメリカが、本気で今までとは違うアメリカを作りたいと思っているのは事実だろう。オバマ氏のミドル・ネームはフセインだ。この、かつてはブッシュ前大統領にとっては“悪の象徴であった名前”を持つ人物が、ブッシュ氏の後釜を務めることだけでも意味がある。アメリカが、対立の世界観から対話と融和、共存の世界観を持つ国へ変貌を遂げるのではと期待するのは、あまりにも名前からのムードに頼りすぎるだろうか?
 オバマ氏は、大統領就任演説で二者択一から離れることを強調していた。片方を悪、片方を正義と決めつけるブッシュ時代のやりかたは、物事を単純化し、分かり易い反面、独善的で一面的になりやすかった。そしてそれがアメリカのやり方であると世界中から思われていた。それに対し、オバマ氏はこう語りかける。
「なぜなら、私たちの多様性という遺産は、強みであり、弱点ではないからだ。私たちの国はキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、そして無宗教者からなる国家だ。世界のあらゆる所から集められたすべての言語と文化に形作られたのが私たちだ。」

 とはいえ、オバマ氏がどんなに頑張っても変われない現実はある。アメリカ中の、いや世界中の富を握っているユダヤ人が数多く住んでいるアメリカには、イスラエルという国の存続を否定することは出来ない。だからオバマ氏がアメリカの大統領である限り、そしてイスラエルとアラブ諸国が対立する限り、オバマ氏はイスラエル寄りの立場を取らざるを得ない。
 イスラム教徒、ユダヤ教徒がアメリカ内で共存しているのも事実だが、その中で大統領が中立でいられないのがオバマ氏の限界を示している。経済と様々な思惑が複雑に絡み合っている中で、世界はそう簡単に和平に向かって進むことは出来ないのだ。

 inauguration(就任式)という言葉を、今回新たに覚えた。英語でイナギュレイション、フランス語でイノギュラスィオンと読む。
これからしばらくはアメリカの動向から目を離さないでいよう。アメリカは怖い国だから、彼が暗殺などされないで政策を全うすることだけは祈りたい。でも、もしそんなことになったら、アメリカは世界で一番野蛮な国だと非難されるだろうな。  


エロいロザリンデ
 新国立劇場では24日土曜日の公演で「蝶々夫人」が終わった。蝶々さんを歌ったカリーネ・ババジャニアンはよく頑張った。よく頑張ったという表現を使ったのは、ババジャニアンの歌手としての力量には何の疑問もなかったのだが、やはり「蝶々夫人」というオペラは、蝶々さんの日本的な物腰や仕草が演技のポイントになっていて、それに外国人のピンカートンや領事のシャープレスが惹きつけられるというドラマなだけに、蝶々さん自身が外国人だったから、そこのところが来日直後はかなり気になっていたのだ。

 たとえば第一幕最後の愛の二重唱で、栗山民也氏の演出では、蝶々さんが、
「あたしをしあわせにしてください。」
というところで、彼女を横たわらせる。そこに背後からピンカートンがやってきて、蝶々さんの手を掴む。その瞬間蝶々さんがハッ!とするのだが、立ち稽古が始まった頃、ババジャニアンはハッ!として嬉しそうにピンカートンの方を向いてしまった。
「あちゃーっ!」
と僕は思った。
 確かにヨーロッパ人はそうするだろうよ。だって愛する人が自分の手を取ってくれたのだから。だけど、それではドラマが違ってしまうのだ。ここは蝶々さんはハッ!と感じながら決して相手を見てはいけない。前を向いたまま、そして恥じらいながら、自分の胸の奥でだけ歓びを感じなければいけない。それが欧米人から見て少し不可解で新鮮な魅力を醸し出すのだから。
 でもそういうことを再演演出の田尾下哲(たおした てつ)君が、ひとつひとつ丁寧に説明していったし、ババジャニアンも必死でついてきた。おそらくヨーロッパで蝶々さんを歌っていた時には、問題にされたこともなかっただろう。だが、ここは日本だ。聴衆の厳しさはヨーロッパで「蝶々夫人」を上演するのとは比較にならない。彼女もむろんそのことは覚悟の上だったと思う。

 聴衆は出来上がったものだけを見て判断するが、劇場内ではお客の前に出すまでに、こうした様々なケアが必要とされる。では日本人だったら放っておいてもいいかというと、最近はみんな現代っ子だから、着物着ても平気でガニ股で歩くし、いろいろ大変なのだよ。 日本で「蝶々夫人」を上演するにはこのような苦労が多いが、やはり僕は日本での「蝶々夫人」が、世界に対してもひとつの規範となって欲しいと思っている。カルロ・モンタナーロのエネルギッシュな指揮も秀逸で、公演は大成功に終わった。

 同時進行で「こうもり」が進んでいて、今日はこれから最後のオケ付き舞台稽古。1月27日火曜日から公演が始まる。ここでの最大の魅力はロザリンデのノエミ・ナーデルマン。なんといってもその仕草、たたずまいがエロい。特にチャルダッシュの後半で速くなるところの腰の動きがたまらない。いいねえ。稽古の初日に前から見ていたら、ノーブラで踊っていて、薄いブラウスから乳首は丸見えだし、もうどうしようかと思ったよ。
 ロザリンデがエロいと、「こうもり」というドラマはこんなにも楽しくなるのかと発見した。それにアイゼンシュタインのヨハネス・マーティン・クレンツレも芸達者で、助平な感じがよく出ている。マスクをしてハンガリーの婦人になりすました自分の妻を口説こうと、アイゼンシュタインがロザリンデにすり寄る。ロザリンデは精一杯色気を振りまき、自分の胸の鼓動をアイゼンシュタインに聞かせる。このあたりの演技はマジヤバイ。アイゼンシュタインはロザリンデの胸に顔をスリスリと押しつける。
 指揮者のアレクサンダー・ジョエルも悪ノリして、いつの間にか演技指導に入っている。
「もっと色っぽく、マリリンモンローみたいにやっちゃおうよ。」
おいおい、そんなことはいいから自分の本分に戻りなさい!

 往年のキャラクター・テノール歌手ハインツ・ツェドニックが演出したこの「こうもり」は、合唱団員の衣裳も舞台美術もクリムトの絵から飛び出してきたようで、ハッと息をのむほど美しい。でも、この衣裳であの激しいポルカ「雷鳴と稲妻」を踊るのは本当に大変なのだけどね。

それにしても、人間のエネルギーの源泉はエロスですなあ。あははははははは!



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