オペラに追い立てられる日々からの解放

三澤洋史 

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オペラに追い立てられる日々からの解放
 今日(2月1日)の「こうもり」千秋楽が終わると、新国立劇場合唱団にとっては5月の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」までオペラ公演がない。劇場ではその間に「トーキョー・リング」前半、すなわちワーグナーの「ラインの黄金」と「ワルキューレ」公演があるのだが、この2演目には合唱がないので、団員にとっては3月、4月の2ヶ月間は、ぽっかりと穴が開いたようなのである。
 とはいえ、新国立劇場合唱団は、そのあいだに読売日本交響楽団の定期公演、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー指揮ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」(3月16日)に出演するし、「ムツェンスク」の音楽練習は2月中に始まるので、まるで閑というわけではない。でも追い立てられるようにオペラ公演の準備や本番に明け暮れる日々からしばらく解放される。

 東京交響楽団が抱えている東響コーラスは、以前は毎公演で合唱指揮を担当するほど親密に関わっていたが、僕が新国立劇場にしっかり勤務するようになってから、なかなか行けなくなってしまった。それでも少ない練習回数でもこなせる第九だけは関わっていたが、2007年暮れに新国立劇場合唱団が読響と第九をするようになって、完全にスケジュールが重なってしまってからは、それもかなわなくなってしまった。東響コーラスは、アマチュアといってもハイ・レベルだし、みんなやる気満々なので、行けなくなってしまったのは残念だった。
 それが、「トーキョー・リング」のおかげで、ユベール・スダーン指揮のシューベルトのオペラ「ロザムンデ」(3月21日)の合唱指揮を担当出来ることになった。先日の1月30日金曜日を初日として、2月から3月にかけて東響コーラス通いが始まる。
 「ロザムンデ」は、タワー・レコードなどでオペラのコーナーで探してもない。この作品は未完成で、序曲と9曲の独立した音楽から成り、一般曲あるいは劇音楽のコーナーに分類されている。合唱曲も3曲だけ。オペラ合唱というよりは、東大アカデミカ・コールなどでよく演奏するシューベルトの合唱作品という感じなので、東響コーラスにはぴったりだと思う。
 シューベルトって、ベートーヴェンの作風を踏襲しているけれど、ベートーヴェンとは正反対でノーテンキな音楽だ。でも、心地よくてひとなつこくって、僕は大好き!特に「ロザムンデ」は、そんなシューベルトの最も良い面が素直に出ている佳作だ。

(事務局注 試聴へのリンク  2021リニューアル時に追加)

 それに先立つ3月8日には、東京バロック・スコラーズで「ヨハネ受難曲」を指揮するため、2月中から合宿をはじめとして忙しくなる。なんだ、そんなこと言っていると、新国立劇場に行かないだけで、ちっとも閑ではないじゃないの。

「ノアの方舟」堂々完成
 年末からリメイクしていた「ノアの方舟(はこぶね)」が台本、楽譜とも完成した。題名は「ノアの方舟」から「子供のためのオペラNOAH」に変えた。譜面作成ソフトのFINALEは、書いた楽譜をPlay Backして音で鳴らすことが出来る。それをMIDIファイルで打ち出して、シーケンス・ソフトで音色や定位、バランスを整え、さらに自分の歌声を重ねて録音し、音資料のCDを作った。
 セリフも歌も全部ひとり。僕自身の声を何層にも重ねて「ひとり合唱」をやる。やり出すと完璧を望むようになり、いくら時間があっても足りない。でもそれを売り出すわけでもないので、適当に妥協しながら作った。で、関係者に配って曲の感じをつかんでもらうわけだ。
 全く便利な世の中になったよ。高額のお金をはらって録音スタジオを借りなくても、自宅で簡単に録音が出来るんだよ。でも時々、来客のピンポンや、それに反応する愛犬タンタンの鳴き声や、家の前の木に巣を作っているカラスの間の抜けた「カーカー」という鳴き声が録音に入ってしまう。救急車やヘリコプターや、灯油を売りに来る「月の砂漠」のオルゴール音など、生活の中には様々な音があるものだな。それらが通り過ぎるのを待っていると、なんだかイライラしてくる。
 やはり録音するなら完全防音室に工事するべきだね。でも一年中録音しているわけではないので、録音スタジオを借りた方がいいかという話になっちゃうな。うーん、世の中うまくいかない。

 ノアと子供達が方舟を造っているシーンでは、合唱団が輪唱の「トンテンカン」という曲を歌う。この曲くらいは女性の声が欲しいと思って、娘達にひとりひとり声をかけて、
「ねえ、ねえ、パパを手伝ってよ。」
と言ったが、
「忙しいからダーメ!」
と二人とも断られてしまった。そうしたら妻が見かねて、
「やってやろうか?」
と言ってくれたので、この曲だけ女声入り。中央、右側、左側と定位をつけて、三回ずつ録音したので、僕と妻がそれぞれ三人ずついる。ちょっと面白いので「音楽館」のコーナーにアップしてみたので聴いてね。
妻は、
「結婚する時、あたしに歌のレッスンしてくれるっていう約束だったのに、未だになんにも面倒見てくれないじゃない。話が違うわ。だからこれ以上うまく歌えないからね。」
と開き直っている。

 NOAHでは、テーマをエコロジーに絞り込んで、子供でも分かるように噛み砕いて表現した。最後にノアが新天地に乗り込むところでは、世界中の民族衣装を着けた人々や、なんと宇宙人も登場する。上演は8月2日。群馬の新町歌劇団。実はこの原稿、群馬で書いている。さっき、洪水の後で方舟がゆらゆらと漂う「バルカローレ」の練習をして帰ってきた。8月が楽しみ!

「余命」を読んで
 「これはひょっとしたら、女性読者にも増して男性読者をこそ畏怖の念と感動で打ちふるえさせる作品ではないだろうか。白状すると、読み進めるうち不意に胸の奥深いところを揺さぶられて目頭が熱くなり、ページの途中で止まっては、気を取りなおして立ち戻るということをぼくは幾度もくりかえした。」
 これはフランス文学者野崎歓氏が、小説「余命」谷村志穂著(新潮文庫)の巻末の解説で書いている文章である。僕も同感だ。

 読書とは、意味のある単語をつなげて文章として認識し、さらに文章の意味する情景なり描写なりをつなげていって、虚構の世界を脳裏に描き出す行為だ。そのリアリティを作り出すのは読者の心の中。映画のように、映像が外から迫力をもって否応なしに心に入り込んでくるわけではない。でも自分の想像力を駆使すればするほど、無限の広がりを持つ映像が自己の内面に広がる。読書とはなんて創造的な行為なのだろう。
 だから文学の感動は、心の奥底から静かにじわじわと湧き上がってくる。時には押さえようもなく涙が溢れ出てくる。電車の中などでそれが起こると、とても困る。映画のように直接的でない分、本から目を離しても容易にはおさまらないからだ。そんな時はなにか別のことを考える。それから静かに内容に戻り、読書を続ける。でも、これこそ小説を読む醍醐味だなあ。

外科医、百田滴(ももた しずく)は、結婚十年目に妊娠した。喜びも束の間、彼女は乳がんの再発を知る。まわりに知れると、がんの治療のために生まれてくる子供を犠牲にするよう強いられると思った彼女は、夫にも告げず、治療もせずにひとりで子供を産む。
 ありがちな設定で、どうやったって感動を獲得できそうな気もする。がんという、死に向かって仮借なく自分を蝕んでいくものと、妊娠という、新しい命をこの世に送り出す行為との対比は、それだけで我々読者に「いのち」とは何かという問題を投げかけてくれるのだろう。そう思って読み始めた。でも著者は、そのシチュエーションに甘えることなく、読み始めた読者を決して本から引き離さない緊張感をもってストーリーを進めていく。その手腕に舌を巻いた。

 まず主人公が外科医という設定がいい。たとえば彼女は、虫垂炎で入院した患者を手術する。しかし開腹してみたら、盲腸ががんに蝕まれており、しかも腸からリンパへと広範囲に広がっていた。それを家族にどう告知しようかと彼女は気を重くしている。
 こうした医師としての日常を送っている彼女にとって、がんはある意味身近な存在なのだ。そして、がん患者達がどんなにはかない希望を抱いたとて、その進行を止めることは出来ず、遅かれ早かれ医師が余命を告知したとおりに死んでいくしかないという現実を冷徹な目で見ている。所詮自分には被害の及ばない対岸の火事として・・・・。
 そんな彼女は、ある時早朝に病院に出掛けていき、自分で超音波の器械を動かして乳房を診察する。そしてがんの再発を、誰でもない自らの現実として知る。告知者は自分自身であり、医師である彼女にとって、今の自分は、これまで無数に見てきた単なるがん患者のひとりに過ぎない。しかしその単なるがん患者のひとりひとりには、ひとりひとりのそれまでのかけがえのない人生があり、愛する人がいて、やりたいことがあって、人生の幕をそう簡単に降ろすことの出来ない様々な事情があることに気付く。もはや傍観者ではない。彼女は絶望に打ちひしがれる。
 すると彼女は医師のくせに医師が望むところの患者とは全く違う行動に出る。彼女はがんの治療を拒否し、さらに自分ががんであることをまわりにバレるのを恐れて、妊婦の検診にも行かない。毎月の検診を受けていないと、病院では飛び込みの出産患者はなかなか受け入れてもらえないことは、医師である彼女が誰よりも知っているのに・・・・。
滴がタクシーで行ったのは、落合にある聖母子病院というカソリック系の病院だった。
 面白いのは、総合病院に勤めていた彼女が、自分の飛び込み出産のために、本能的にこうした病院を選んだことだ。総合病院では即座に断られるか、嫌がられるかするのを彼女は誰よりも知っている。だから、シスターが看護士をしているようなこうした病院でなら、自分を受け入れてくれるに違いないと彼女は密かな期待を抱く。
 キリスト教では、マザー・テレサの例を出すまでもなく、困っている人には“何も問わず”助けるのだ、という美学があることを、みんな暗黙の内に認識しているのだな。

 僕が一番泣いたのは出産シーンだった。僕自身、長女の志保が生まれた時には、ベルリンの病院で出産に立ち会っていて、溢れる涙を抑えられなかった経験を持つが、こうして読んでみると、あらためて女性って凄いなと尊敬してしまう。それに「自分の子供を産むんだ!」という主人公の執念が、もの凄い迫力をもって迫ってきて、男性である自分を圧倒するのだ。
 子供を産んでからの彼女は、主人のいない自宅に帰ってまさに孤軍奮闘。ここまで自分を追い込まなくても、とも思うけれど、こういうところが、あり得そうであり得ない、あるいはあり得なそうであり得る小説の面白いところだ。友人の女医である保井きり子が自宅に訊ねてくる場面では、はじめてホッと息がつける。
「このままでは死なせませんよ。友人にだって、何かさせて下さい。」
こういうセリフにもウルッとくる。おお、よく来てくれたよ。やはり持つべきものは友だ。

 この小説の題名にもなっている「余命」ということについて考える。余命なんて、本当は健康な人にだってみんなあるんだ。
死を見つめたときから、人は皆、別の時計を手に入れるのかもしれない。『モモ』が皆に授けたような、もう一つの時の刻まれ方だ。
その時計の針が動き出すと、一瞬一瞬が大切に輝きはじめる。
 別の時計を手に入れるきっかけが余命を告げられた事による、というのがこの小説なのだけれど、人によっては余命が告げられなくても別の時計を手に入れることは出来るのではないか。いや、最初から別の時計を持っている人もいるのかも知れない。人によっては宗教を通して別の時計を手に入れる人もいるだろうな。
 でも、間違いなく言えることは、どんな人の人生だって限りがあるということだ。僕の文章を今読んでいる人で、百年後に生きている人は、おそらく誰もいないだろう。余命なんて告げられても告げられなくても、一度この世に生まれてしまったら、あとはみんな死ぬ時までの日々がすべて余命なのだ。

 ただこういうことは言えると思う。期限を与えられたとき、その人にとって余命は一瞬一瞬がかけがえのないものとなるのだ。愛するものと過ごす一瞬一瞬は二度と帰らない。愛するこの顔を二度と見ることがないかも知れない。ならば、今確かに自分の目の前にあるものを、心からいつくしもう。そんな気持ちになった時、生ははじめてその本来の輝きを我々の前に見せてくれるのではないか。この本は、そんなことを気づかせてくれる。

 何か良い本はないかなと探している人がいたら、この本を是非お薦めします。映画化され、2009年2月7日からロードショーとたすきに書いてあるけど、小説を読むのは絶対に映画を観る前にして欲しい。これは、まず文学として味わって欲しい作品。文章は簡潔で美しいし、それでいて自分に酔っているところがない。やっぱり翻訳物と違って、オリジナルの文章を同じ日本人としてとことん味わえるっていいなあ。



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