合唱三昧の日々
新国立劇場では「ラインの黄金」の練習が順調に進んでいる。キース・ウォーナー演出の「トーキョー・リング」初演の時は、僕も準・メルクルの
アシスタントとしてしっかり練習に関わっていたが、今は合唱指揮者として専任のため、基本的には傍観者の立場。でも、あの不均衡な台形の舞台や、さかさに書かれたNibelheimの文字などがなつかしい。おもちゃ箱をひっくり返したような演出だけれど、アイデアが詰まっていて楽しい。
この後、「ワルキューレ」も続くので、合唱はしばらく舞台からはおあずけだが、読売日本交響楽団の定期演奏会、ベートーヴェン作曲「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)」の練習が今たけなわだ。この作品は第九と並ぶベートーヴェンの代表作だが、ソプラノの音域が異常に高いのと、決して歌い易くない音型とで、合唱団にとっては難曲中の難曲だ。 でもだからこそ、今の新国立劇場合唱団にはぴったりな曲だともいえる。彼らの実力を駆使して、どこにもないミサソレを奏でようと、例によって少人数で歌わせたりして練習に励んでいる。
ベートーヴェンのフーガは、バッハのフーガと比べると、作曲上いろいろアラが見える。バッハの場合は、主題だけでなくどの旋律も丁寧に処理が施されているのでソツがないが、ベートーヴェンの場合、取り残された声部というのがあって、(たとえば、分かり易い例で言うと、第九の二重フーガのテノール声部など)、その声部を歌う人達は気の毒だ。歌いづらいし、美しくない。でも、全体の中に入るとそのアラは目立たない。ミサ・ソレムニスの中のフーガもそうだ。それどころか、アラと同じくらい独創的な部分がある。
それに、なんというかベートーヴェンの異常なテンションというものがあって、どの部分にも作曲家の並々ならぬ情熱がほとばしり出ている。これはもう宗教曲とは言えないね。ではどのジャンルだ、と問われると・・・・うーん・・・要するに人間讃歌だな。
ベートーヴェンは、グローリアの中で、miserere nobis「我らを憐れみ給え」というテキストに思いあまって感嘆詞をつけてしまった。Ah, miserere nobis !というわけである。その事によって、テキストを一語でも変えることを許されないカトリック教会から、これを典礼のための音楽として演奏することを禁止されてしまった。勿論、典礼として禁止されただけであって、これを教会の演奏会として演奏するのはいっこうに構わないのだけれどね。
ベネディクトゥスの美しさはたとえようもないなあ。これをベートーヴェンの全ての作品の中で最も美しい音楽であると評する人もいるけど、同感だ。
さて、同時に「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の合唱練習が始まった。ショスタコーヴィッチの代表作であるこのオペラは、音取りはそんなに難しくない割には現代曲っぽく聞こえて、サウンド的にも独創的だしかなりの傑作だ。しかし我々にとってロシア語のオペラというのはハードルが高いなあ。子音の多いロシア語の発音は、あの独特の文字と相まってなかなかうまく読めない。特に歌に乗せるとなおさらだ。3回ほど初期練習があった後、しばらくお休みして、3月17日からまた稽古再開で、ダダダーッと10回ほどで暗譜まで持って行く。出来るかなあ?
東響コーラスでは、西本智実指揮のマーラー交響曲第二番「復活」と、ユベール・スダーン指揮のシューベルト作曲「ロザムンデ」の練習が佳境に入ってきた。先日オーディションを行い、出演する人数を選別。これから本番に向けてサウンドに磨きをかける。僕が合唱で一番大切にしているのは、何といってもサウンドだからね。というか、合唱指揮者というのは、音取りをして指揮者に渡す「音取り屋」なんかじゃなくて、サウンドに対する哲学を持ったひとりの独立した芸術家なのだ。
「復活」は、宗教曲ではないけれど、宗教的な曲だ。身が引き締まる。一方、シューベルトはのどかで楽しい。
ヨハネ受難曲演奏会爆発寸前
いやあ、楽しいねえ!オーボエのKさんやファゴットのSさんの顔を見ると、つい表情がゆるむ。管楽器アリアの練習では、彼らは極上のサウンドを聴かせてくれる。2月28日土曜日は、ヨハネ受難曲の為のオーケストラ練習及びソリスト合唱団との合わせ練習。
しかし油断は大敵。オーボエのKさんが、
「三澤さーん、これって、さあ・・・・。」
とツッコミを入れると、これで予定していた時間が10分延びる。よーし、次の休憩までにここまでいけるぞ、と思っていると、また、
「三澤さーん、質問があるんだけど・・・・。」
ファゴットのSさんはSさんで、
「これ、フォルテだけ吹くのって恥ずかしくって・・・・弦楽アンサンブルの曲だから、いっそのことファゴットやめちゃおうか・・・・。」
「そんなことないですよ。今聞いてて違和感なかったですよ。」
「いや、今そう思って吹かなかったんですよ。」
「・・・・・・。」
ヤベェ、意識してなかった。聴いてなかった。それで適当なこと言っちゃった。どうしよう。
「ピアノのところも通しで吹いてみていい?」
「ああ、そうしてみましょう。」
で、もう一回やる。
「いいじゃないですか。ピアノのところでフォゴットの音が聞こえるのって素敵ですよ。」
なんて適当な指揮者。でもフォゴットの音が弦楽合奏の中で素敵に響いていたのは本当。指揮者といってもね、いつも全部の音をくまなく聴いているわけではないからね。バロック音楽以外では、譜面に書いてある音を弾こうか弾くまいかなんていう会話はそもそも成立しない。それがバロック音楽のファジーなところ。それがファジーなわたくしにはピッタリ。
合唱も僕の求めているサウンドになってきた。ドラマチックで、でもオペラチックではなくて、バロック的で、でも現代に通用する三澤バッハ・サウンドだい!
3月8日の演奏会では、もう炸裂するぞう!どこにもないヨハネ受難曲。全世界に向けて発信!
ヨハネ講座 そのⅣ 表情豊かなレシタティーヴォ
バロックと対立の原理
バロック音楽の美学として「対立の原理」が挙げられる。これはあらゆる面に行き渡っている。
バロック時代は「通奏低音の時代」とも言われる。通奏低音の原語はBasso Continuoだ。英語のContinueという単語で予測がつくように、イタリア語のcontinuoとは「絶え間ない」あるいは「連続した」という意味なので、日本語に訳した時に「通奏」と表された。 チェロやコントラバスなどの低声部が、楽曲全体に渡って途切れることなく、和声進行にのっとった旋律をきざみ、そのリズムが同時にその曲のビートを紡ぎ出していく。バロック音楽がジャズと似ていると言われるのも、この通奏低音の規則的なビート感の故である。
ルネッサンス期の対位法的楽曲においては、旋法を中心として横の流れが重視されていたので、各声部は同等の価値を持っていた。しかし、しだいに近代和声法が確立されてくるにつれて、バス声部の上に長調、短調の和声を組み立てるようになる。それによって声部の重要性に変化が生じる。バロック時代では、一番偉いのがバス声部、その次がメロディーである上声部、それから内声、という風に序列が生まれたのだ。
バロック時代には、フーガなどでも、バス声部が休みになると16フィートのコントラバスやチェンバロあるいはオルガンなどの鍵盤楽器も一緒に休みになるので、急に音が薄くなる。要するにバロックの対位法的楽曲のサウンドは、ルネッサンスと違ってアンバランスなのである。バス声部の結束力は堅くなり、バス対他声部という対立が、楽器構成においてすでに生まれているのだ。
「対立の原理」はバロック音楽のシンボルだ。ソロ楽器とオーケストラが対立する協奏曲(Concerto)が生まれたり、二つ以上に分かれたオーケストラ同士を離れたところに置いて対峙させたり、対立の効果はあらゆる方向で追求された。
チェンバロやオルガンなどでは、鍵盤を変えたりレジストレーションを変えたりして、フォルテとピアノ、あるいは音色同士が対立するものとして呈示される。ダイナミックスはロマン派の楽曲のようにゆるやかに移行するものではなく、瞬間的に変わり、その対立を楽しむものなのだ。同じフレーズをフォルテとピアノで交差させる「エコー効果」などはその典型的な例である。
大規模な楽曲になると、「対立の原理」は曲構成に顕著に表れる。たとえばヨハネ受難曲では、福音史家のテノールはセッコ・レシタティーヴォと呼ばれる最小の楽器構成を従えて歌う。それからアコンパニャートaccompagnato(伴奏付きの意味。ヨハネ受難曲ではアリオーソArioso)と呼ばれる弦楽器や管楽器の伴奏を伴ったレシタティーヴォがあり、少人数のオブリガートを伴ったアリア、大編成のアリア、ほぼ全合奏によるコラールや群衆合唱、さらに第一曲目のような大規模な楽曲と、まさに様々な楽器編成や異なった楽曲形式の音楽が並んでいる。
こうした互いに異なった編成の音楽が、ゆるやかに移行するのではなく、隣接して突然変わることでダイナミズムを生み出していくのがバロック音楽の手法だ。チェリストと、鍵盤楽器奏者、それに福音史家の三人だけの場面があると思うと、次の瞬間にはトゥッティで合唱曲が来る。ワーグナーの楽劇のように、だんだん奏者が増えていくとか、美しいアリアを歌っていたと思ったら、しだいに楽器が減っていって、いつの間にかレシタティーヴォになっていた、ということは決してない。
異なった編成の曲をわざと隣接させ、断層を作り出し、対立を煽ることこそがバロックの美学なのだ。
福音史家のレシタティーヴォ
さて、その最小の構成で演奏されるのが福音史家のセッコ・レシタティーヴォRecitativo Seccoだ。レシタティーヴォrecitativoという言葉は、イタリア語の動詞recitare(唱える、朗読する)から来た言葉で、リサイタルrecitalの語源ともなった言葉だ。リサイタルは、元来詩などの朗読会を意味していたが、転じて独演会を指すようになり、さらに音楽会以外の意味がしだいに消えて、独唱会、独奏会の意味となっていったのだ。
一方、セッコseccoは「乾いた」という意味。よくオペラの立ち稽古などで、
「セッコでやってみよう。」
と言うと、伴奏をつけないで、メロディーを口ずさみながら動きに集中した練習をすることを指す。こうした事から考えるに、セッコ・レシタティーヴォとは派手な伴奏なしで、簡素に行うレシタティーヴォを意味するのだろう。
だからレシタティーヴォは歌うというよりは朗誦に近い。メロディーはあるにはあるが、いわゆる普通の歌のようにメロディックではなく、全て言葉の抑揚に従っている。日常会話での抑揚の幅は、音楽の幅から比べると少ないので、レシタティーヴォでは言葉の抑揚がデフォルメされた音程幅となる。
この音程幅がバッハの場合半端じゃない。譜例を見ていただきたい。
音符の調節
バッハのレシタティーヴォは、全て杓子定規な4分の4拍子で書かれている。これはその時代の慣習に従ったのだと思われる。そして単語のアクセントはほぼ全て拍の頭に来て、文章の中で強調したい単語は大抵1拍目か3拍目に来る。だから、そうでない単語は、そのために“音符を調節”させられる。
どう調節させられるかというと、たとえば先ほどのwusste den Ort auchを見てみると16分音符で書かれている。これを、その前後の8分音符の倍のテンポで歌って歌えないことはないが、とても窮屈だ。
これはどうしてこういう書き方をしているかというと、verriet「裏切った」という単語のアクセントrietを小節の1拍目に持ってきたかったのと、JesusのJeを次の小節の1拍目に持ってきたかったことで、残りの音符を調節させられたのである。
現代だったら8分音符で書いて、その小節だけ4分の5拍子にすればいいのだが、この当時は慣習的にそうもいかない。そこで半分の16分音符で書いたというわけだ。案外安易に処理しているのである。だからwusst den Ort auchは、書いてあるように16分音符の早さで歌う必要はないのである。
バッハのレシタティーヴォは、特別な場合を除いて3連符や5連符なども存在しないので、8分音符の下はその半分の16分音符となってしまう。だから譜面づらを忠実になぞって歌ったら、朗誦という目的からすれば四角四面になってしまう。
言葉というのはもっと自由なものだ。自然な朗誦の表現をめざすならばイン・テンポというのはあり得ない。故にバッハのレシタティーヴォをイン・テンポでやるほど愚かなことはないということなのだ。
バロック時代の記譜と実際の演奏
さて、譜例にはところどころ+印がついている。これはアポジャトゥーラappoggiatura(前打音あるいは倚音と訳される)と言って、フレーズの終わりを書いてある音ではなく一音上げて演奏する印である。この+印はバッハが書いたのではなく僕がつけた。
アポジャトゥーラは、楽曲の中ではよく長前打音のように書かれるが、レシタティーヴォでは特に書かれず、演奏者によって判断される。当時は、あまりに当たり前の事だったので、あえて譜面として書かれなかったのだ。
バロックと即興演奏
たとえば、福音史家の声部の下を支えるバッソ・コンティヌオ(通奏低音)は全音符などの長い音符で切れ目なく書かれているが、せっかく福音史家がテンポも語り口も変えてドラマチックにやっているのに、このまま弾いたら変化もなく、とてものろまっぽくなってしまう。
でも、言っときますが、この通り演奏するかどうかは分かりませんよ。なにせ即興精神がバロックのモットーなのだからね(笑)。
様々な表情
福音史家のレシタティーヴォは、基本的には客観的に物語を淡々と運んでいくが、バッハはその時その時で実に様々な表情を織り込んでいる。
福音史家~超絶技巧の語りべ
こうした福音史家の自在性はマタイ受難曲においても受け継がれていくが、バッハの福音史家のレシタティーヴォは、音楽において「語る」ということのひとつの極限まで追求された感がある。福音史家は「語りべ」としての表現力を要求され、彼が受難曲全体のドラマ的緊張感の鍵を握っている。
それにしても、高音から低音まで急激に飛び回るこの福音史家の音符を歌うだけでも大変なのに、様々な感情の交錯する受難劇のドラマチックな表現力を要求されるわけだから、これに答えられるテノールの人材はとても限られる。
イタリア・オペラのアリアは上手に歌えるのに、福音史家は歯が立たないという人を、僕は知り過ぎるほど知っているのだ。
福音史家に要求されるのは、超絶技巧とも言える高度な声楽テクニックもさることながら、何といってもドイツ語に対する深い知識と、語感に対する鋭敏なセンス、そして受難物語に対する共感、宗教的感性など、バッハの福音史家に要求するレベルには果てがない。
バッハが、フーガのような絶対音楽や大規模な楽曲において、華々しく作曲家としての力量を発揮していることは沢山の人が評価している。だが、レシタティーヴォのような音楽的に地味に見える楽曲でこれほどの才能を見せていることに、あまり言及する人がいないのはとても残念だ。これこそがバッハの独創性の極地なのに!
歴史上では、彼の福音史家レシタティーヴォの境地に肩を並べる天才がたったひとりだけいる。それはオペラ・ブッフォにおけるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトだ。これについては、またいつか別の機会に述べようと思う。
さて、いよいよ来週は演奏会となるにつれて、ヨハネ講座も来週が最終回。