ごんぎつねの故郷で合宿
今、名古屋から東京に向かう新幹線の中でパソコンに向かっている。今週末は名古屋市民管弦楽団の合宿だったので原稿が書けなかった。名古屋には昨日来た。合宿所は名鉄の知多半田駅の近くなので、僕は名古屋駅に着くと名鉄名古屋駅に向かった。
この名鉄名古屋駅というやつは、俗に日本で一番分かりにくい駅と言われているとんでもない駅だ。行く先の違う電車が2分間隔くらいで全部同じホームに来る。うっかり間違えると、飛んでもないところに連れて行かれてしまう。外人が1人でなんてとても怖くて乗れない。僕も外人みたいなので乗るまではとても怖かった。
僕は合宿所のある知多半田までゆっくり行こうと思っていたので、指定席のある特別車のチケットを買った。すると車掌に3番線に行きなさいと言われた。行ってみると他の客達はみんな反対側のホームにいる。どうやらこの特別車の客だけこちら側から乗るらしい。電車が来るまでとても不安だったが、それでもなんとか乗れた。乗ってみると楽ちん楽ちん。でも新美南吉の故郷の半田を味わう時間なんて全くない。練習練習だからね。
肝心の合宿であるが、やはり合宿というのはまとまった時間を取って練習に専念出来るから有意義だね。リヒャルト・シュトラウスの「死と変容」は、弦楽器にとってはリズムも音程も難しいところが沢山あるし、管楽器にとっても高い音域で速い動きをしたり、なかなか難曲だが、二日間の練習でかなり良くなってきた。シュトラウスのオーケストレーションって本当に素晴らしいね。もう陶酔の極みだね。
逆に最初は案外良いじゃないかと思っていたブラームスの交響曲第一番は、やればやるほどボロが出てきて、本当に難しいのはこっちなんだなと再確認。3連符と8分音符の同時進行はブラームスのお得意の技だが、これをソルフェージュのようには出来ても、合わせながら「音楽的に」演奏するのはなかなか難しい。
それに第1楽章などでも、ベートーヴェンだったらイン・テンポで押し通せるものを、ブラームスだとそうはいかない。で、テンポを揺らせ始めると、アマチュアの場合崩壊し始めるのだ。めんどうくせえからイン・テンポにしちゃうか、というのは指揮者の陥りやすい誘惑。それをぐっとこらえる。
自分のやりたいことをとことん追求する。出来ても出来なくても、あそこまで行くのだと高き目標を掲げる。ワガママなようだけど、それが自分のためにも相手のためにも一番良い道だ。みんな、そのために来ているのだから。
それと、もうひとつ気をつけなければならないことがある。それはアマチュア向けの棒になってしまう誘惑だ。分かり易く振ることは必要だが、相手がどんな団体でも、自分の振り方がブレてはいけない。
「うーん、難しそうだから振り分けてあげようかな。」
とか、
「レガートで振ると合わないからタタイてあげようかな。」
は禁物。合わなくてもレガートで振る。で、
「合わせろ!」
と要求する。これもワガママなように見えるが、棒のレベルを保つためには必要不可欠なのである。勿論、練習の段階では振り分けても何してもいい。でも、最終的にはこうなるのだということだけは伝えておかなければならない。妥協し始めるとね、棒ってすぐ荒れるのだよ。もし若い指揮者がこれを読んでいたら、肝に銘じて下さいね。
夜の懇親会は楽しかったけれど、僕は最初の一杯だけビールを飲み、あとはウーロン茶で話の和に入っていた。気付いたことは、今まで自分が一番最初に酔っぱらっていたのが、最後まで冷静だったこと。きれいどこがいっぱい近くに来てくれたが、やらしいおじさんにはとうとうなれなかった。というのは冗談で、いつだってやらしいおじさんになったことなんてないです。でも、
「先生!だ、だいじょうぶですか?」
と言われたことは、これまでで何度かある。
昨晩は真面目にシュトラウスやワーグナーなどの話に終始してしまったよ。きっとみんななんて真面目な先生だと思ったろう。やっぱり、あれだねえ。懇親会は飲まなくっちゃね。早く血糖値を下げて、もう少し飲めるようになりたい。
ん・・・・でも・・・・どっちがいいんだろうな?どこかで誰かが、
「三澤先生、飲むと最低!」
なんて言ってないだろうな。
ショスタコーヴィチのキッチュな世界
「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の練習が進んでいる。この作品は「マクベス夫人」と名乗られているが、女主人公の名前はカテリーナ・リヴォーヴォナ・イズマイロフであって、マクベスという名前はどこにもないし、シェークスピアの「マクベス」のストーリーと直接には関係ない。しかしマクベスの妻が、夫をそそのかして殺人に走らせた悪女の典型であることから、比喩的に、ロシアのムツェンスク郡にいた「いわゆるマクベス夫人」という意味でこのタイトルがついたわけである。
ストーリーは単純だ。ジノーヴィーという頼りない夫を持つカテリーナは欲求不満の毎日を送っている。彼女は、新しく入ってきた使用人セルゲイと関係を持つ。しかし彼女の不倫は舅のボリスの知るところとなる。
ボリスは彼女をとがめるが、彼女は逆にボリスを毒殺する。さらに父親ボリスの急死に疑問を持つジノーヴィーを、彼女はセルゲイと二人で殺害する。セルゲイはまんまとカテリーナと結婚するが、その結婚式の最中、ジノーヴィーの死体が発見され、二人はシベリアに流刑となる。
その途中、浮気なセルゲイはカテリーナの目の前で別の女囚に手を出す。カテリーナは、裏切られた悔しさで女囚ソニェートカを道連れに極寒の川に身を投じる。
この作品は、1934年の初演時には、かなり評判も良く頻繁に上演されたが、時の独裁者スターリンがこの上演に接し難色を示したことから、突然不当な弾圧に遭い、長い間上演を禁じられていたという憂き目を見る。そして30年近く経った1963年、いわゆる「雪解け」の時代に「カテリーナ・イズマイロヴァ」という題名の改訂版で上演が許可されることとなる。この改訂版では主人公二人の情交シーンなどの強烈な場面がかなりやわらげられている。
さらにソヴィエト連邦崩壊後は、初演版の復活もさかんになり、現在に至っている。初演版のショッキングなシーンも、現代ではテレビ・ドラマで容易に茶の間で見れる程度のものなので、今更改訂版を用いることもないだろうということで、今回の上演も初演版を用いる。
ショスタコーヴィチの音楽は、現代音楽的テイストも感じられるが、シェーンベルクなどと決定的に違うのは、それぞれ調性的なフレーズを積み重ねることによって結果的に無調に近い色合いを作り出すことだ。つまりいろんな色を重ねることでそれぞれ相殺し合い、結果的に灰色に近い色を出すような方法である。その音の選び方は全く任意で、バルトークのような論理性に導かれているわけではない。
昔「鼻」というオペラを見た時に面白いなと思って、こういうやり方で何か作品を書いてみようと真似して書き始めたのだが、書く方に立ってみるとあまりに何でもアリなので、不安になってしまって中断してしまった。この音でなければという必然性を作る裏付けが得られないのだ。
機能和声の曲は、これは美しいメロディーとか、これは魅力的な和声とか、これは良い曲、悪い曲、この展開は趣味が悪いとか、理屈ではなく良し悪しがあるものだ。だからベートヴェンやブラームスの曲のように、どうしてもこの音でなければという最後の一音まで突き詰めて書くことが出来るわけだが、機能和声が崩壊した後は、そうした美の規範というものが失われてしまったので、それを自分で見つけ出さなければならない。だからシェーンベルクは音列というものに拠り所を置いたし、バルトークは音階や和声の作り方、あるいは音の展開の仕方に彼なりの理論を打ち立て、それを根拠に作曲を行った。
こうしたヨーロッパの論理的思考にショスタコーヴィチの音楽は対峙しているように見える。新国立劇場の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」のチラシには、光文社古典新訳文庫「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」の翻訳者として今話題の亀山郁夫がエッセイを載せているが、そこで亀山氏はこう書いている。
検閲の目を過剰に意識していた彼らは、自分たちの芸術が、西欧の価値基準に照らしていうなら、一種のキッチュ(まがいもの)たることを運命づけられていることを理解していた。と同時に、キッチュであることこそが、西欧音楽に対する優越性の証でもあることも。では、キッチュの意味するところは何であったか?それは、ほかでもない、西欧と歴史の否定である。ショスタコーヴィチの音選びのよりどころは、とどのつまりはキッチュとパロディである。ここがショスタコーヴィチのウリである。だからこのオペラでも、彼の音楽はいつもある種の軽さがある。
イエスの涙
妻が教会の信者さんから借りてきた本があった。何気なく「イエスの涙」というタイトルが目に入ったので、手にとってパラパラとめくった。たすきにはこう書いてある。
自らの意志に反して、十字架を見ると吐き気を催す修道女。その苦悩の中で、イエスは彼女に語りかけた。妻は、これを寝る前のベッドの中でのひととき読むのを楽しみにしている。でも僕は妻が読み終わるまで待てない。そこで、昼間は僕が仕事に持って行き、夜になると彼女に渡した。彼女は布の紐のしおり、僕は挟み込みの紙のしおりを使って、読み終わりの場所を区別した。ところが読み始めてみると、僕にとってはとてものんびり読んではいられないテーマだったので一気に読んでしまった。
世界中で起こりはじめた「十字架嫌悪シンドローム」に秘められた究極の誤解とは何か?!
『ダ・ヴィンチ・コード』よりもセンセーショナルなキリスト教のテーマを扱いながらも、一人ひとりの心に深く訴えかけてくる。
イエスは人類の罪をあがなうために、自ら進んで十字架にかかり犠牲の死を遂げた。ところが「十字架嫌悪シンドローム」の人達はそれに真っ向から反対する。彼らは時にイエスの幻を見、声を聞き、あるいは祈りの中でイエスの想いに到達し、こう結論づけるのだ。イエスが十字架にかかったのはイエスの本意ではなかった。だから十字架を肯定的なものとしていたずらに美化し、あがめないで欲しい。
すなわちイエスは「十字架にかかるために」この世に来た。
そして我々は「十字架にかかったイエス」を信じる事によって罪から「救われる」。