なんとも中途半端なGW

三澤洋史 

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なんとも中途半端なGW
 皆さんは、ゴールデン・ウィークはいかがお過ごしでしたか?僕の場合は「ムツェンスク郡のマクベス夫人」のゲネプロが4月28日、公演が5月1日、4日と入っていたので、もとより長期にわたってどこかに旅行というわけにもいかなかった。

 4月27日(月)から始まる週は比較的暇だった。まず27日がOFF。妻の車で府中のホームセンターの島忠に行く。僕がマウンテンバイクを買って家に自転車が3台になったので、置くところに困るため、平べったい煉瓦を買ってきて庭に自転車置き場を作ったのだ。普段はものぐさの僕だが、親父が大工だったせいか、何かやり出すと案外マメなのだよ。妻の手入れしている花壇の色とりどりの花達と相まって、我が家の庭がなかなかいい感じに仕上がってきたぜ。


知恵熱
 さて、喜んでいるのも束の間。28日(火)の「ムツェンスク郡」のゲネプロの後、急に体調が崩れた。その日は妻がゲネプロを観に来ていたので、行き帰り妻の車で通勤したのだけれど、帰りの車の中で、みるみる気分がすぐれなくなってきたのだ。
 家に帰ってきて熱を測ったら38度6分ある。ここのところ寒い日が続いていて昼夜の温度差も激しかった。それにパソコンの譜面作りの作業や、読書など、自分で勝手に忙しくしているだけなんだけど、頭の中を思考がめまぐるしく活動していたから、どうやら知恵熱を出したらしい。
 つまり過労でダウンというところなのだが、僕の場合、知恵熱といった方が近い感じがする。たまにこういう時がある。自分の限界は自分で知っているはずなのだけれど、時々夢中になると限界を忘れる。そうなるともう何を見るのも嫌。何を考えるのも嫌。すべての情報をシャットアウトしてただ暗闇で寝ていたいとなるのだ。さっきまで「ムツェンスク郡」の合唱を赤いペンライトで指揮していたけれど、緊張しているから感じなかった。でも、緊張が解けると突然やってくるのだ。
 で、そのままベッドに入ったらもう起きられなくなった。では熟睡したかというと、熱があるから体のふしぶしが痛くてそうもいかない。なんとも中途半端で寝苦しい一夜を過ごした。

 29日(水)は、午後から六本木男声合唱団倶楽部の集中練習だったけど、アシスタントの初谷敬史君に急遽代わってもらって、一日寝て寝て寝まくった。自分でよくこんなに眠れるなと思うほど。
 翌30日(木)は、本来はOFFだったので、一日くらいどこかにドライブに行こうかと妻と話していた。が、そんなわけで遠出は無理。熱は下がっていたけれど、神経や頭の疲れは取り切れていないので、パソコンに向かったり頭脳労働はまだやめておいた方が無難。それなので先日の庭作りをもう少しきちんとやろうと思った。そこで大きいホームセンターに行こうという話になって、三鷹のJマートに行くことになった。東八道路をずっと都心に向かって進んでいき、左側の道路沿いなので行き易い。

暖かいランプの光
 Jマートは大きくていろんな珍しいものが置いてある。特に今回は、以前から欲しかったものがあったので喜んで買ってきた。ランプ何かっていうとランプなのだ。ずっと探していたのだけれど、なかなかいいのがなかったのだ。
 僕は食事の時に本物の灯のともるランプが欲しかった。日本の家庭では、まるで夜というものの存在を認めたくないかのように、こうこうと蛍光灯をつけているが、ヨーロッパでは違う。夜は暗いもの。だからその暗さを味わい、夜ならではの雰囲気を味わうのだ。 我が家では、昔から蛍光灯を使うのは昼間だけ。晩になると電球スタンドを間接照明のようにあてて、ほの暗さの中の静けさと暖かさを味わっている。そこにプラスしてランプが登場した。僕はその灯を飽かずにながめる。いいなあ。ロマンチックだなあ。

貧乏性
 というわけでOFFが何気に通り過ぎていった。だいたいね、僕の場合、どうやって過ごそうかなあなんて思うようなOFFの日は、こんな展開になることが多いんだ。以前にも忙しい最中に突然三日間だけ降って湧いたようなOFFの日があったんだ。でもそこで熱を出してしまって、ちょうどその三日間寝まくって四日目に全快したのさ。畜生!なんて貧乏性なんだ!
 今回もアナリーゼの原稿書くとか言ってたけど、頭脳労働は何も出来ずに5月1日(金)に「ムツェンスク郡」の初日となったわけよ。

 初日の次の日、5月2日(土)の晩は志木第九の会の練習。その足で久し振りに群馬の実家に帰る。群馬では、夏に新町歌劇団で子供のための「NOAH~ノアの方舟) の公演があるため、5月3日と5日の二日間に集中練習を入れた。中間の4日は、群馬宅から「ムツェンスク郡」の本番に通った。練習以外では、僕が自作したお袋のパソコンで、今年の夏の「ジークフリートの冒険」のための譜面作り。昨年のウィーン版アレンジの上演でいろいろ思うところあったスコアを徹底的に変更。パート譜も時間かけて丁寧にレイアウトして、決定版を作ったのだ。

NOAHと大森さん
 NOAHは順調に練習が進んでいる。5日にはノア役の大森一英(おおもり かずひで)さんも加わって一挙にテンションが上がる。大森さんは、これまで僕の作品ではチョイワルの役ばかり演じてきたけれど、ノアのような「いいひと」のストレート・プレイも悪くない。

「この頭、どうしましょう?」
「え?そのままでいいよ。」
大森さんはスキンヘッドなので、子供達の抱いているノアのイメージが損なわれないかという心配を彼はしていたのだ。信じられないけれど、彼は以前はなんと長髪だったのだ。新国立劇場合唱団の入団オーディションを受ける時に、試験場の前でバッタリ会ったのだが、スキンヘッドになっていた大森さんに僕は気づかないで通り過ぎようとした。
「おはようございます!」
「・・・・・・。」
「大森です。お久しぶりです。」
「え?・・・・・・ええええええええ?!」
というわけで感動の再会となったわけだ。

 先日の「ヨハネ受難曲」のソリストを決める時もちょっと悩んだ。最初はイエスが塩入功司(しおいり こうじ)君で、大森さんはバスのソリスト、つまりピラトなどを演じる役回りだった。
 大森さんが素晴らしく演じてくれた「愛はてしなく」のアリウスは、モデルとなっているのがピラトだし、一方、見た目はどことなくナヨッとしている塩入君の方がイエスという感じがしていたからね。でも、「ヨハネ受難曲」は別にオペラではないし、視覚的要素を除外して声だけで判断した場合、むしろ大森さんはイエスだろうと思って、後で相談して交換してもらった。
 バッハの場合、イエスはバスっぽい声で荘厳に歌うことを要求される。僕は、イエスの顔つきや骨格から、本当はイエスはテノールだろうと思っているのだけれどね。救世主というリスペクトから、バッハの表現したイエス像がそうなので、ここは音楽優先で考えるべきだろう。
「スキンヘッドのイエスってアリですかあ?」
その時もそんな話をしたっけ。

 大森さんの歌うノアは、のびやかで美声で、また彼の別の面を見る気がする。確かに、あのスキンヘッドで子供は一瞬引くかもしれないが、かえってその中からにじみ出る彼の優しい人間性が、物語が進んでくるにつれて子供達を惹きつけ、きっと最後にはスキンヘッドともども「愛されキャラ」として受け入れられること間違いない。
 エコロジーを訴えるこの作品は、テーマもトレンディだし、内容に関しても自分で言うのもなんだけど結構イイよ。
 


「ムツェンスク郡」は果たして傑作か?
 さて、この原稿がホームページに載る頃には、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」も千穐楽を迎えているだろうから、言ってもいいだろうが、この作品って20世紀前半を代表する大傑作だという声も聞こえている中で、簡単にそうだと言い切れないものがあるなあ。 公演は大成功で、沢山の方達から賛辞の声をいただいている。その一方で、特に年配の方達から、休憩前のアクシーニアの陵辱シーンやカテリーナとセルゲイのHシーンが嫌だという声も聞く。そういう人達も、休憩後の合唱が活躍する警察署の場面や結婚式の場面などは、動きもあって楽しいし、終幕も納得のいく終わり方なので、全体的にはとても楽しめたと一様にポジティブな感想を述べてくれる。

 スターリンによる不当な弾圧については、これを正当化するいかなる理由もないと思うが、その一方で、このオペラの中で表現されているアナーキーな要素が、表向き品行方正を要求する当時の社会主義者の逆鱗に触れたことは理解できなくもないな。
 オペラの表現も、19世紀末から20世紀に入り、ヴェリズモ・オペラからベルクの「ヴォツェック」や「ルル」を通ってツィンマーマンの「軍人たち」に至る道のりの中で、しだいに殺伐とした題材が好んで選ばれるようになっていったのは、現代音楽に合うからなのか、それとも時代がそういう題材を求めたのか分からないが、僕はそれらの作品に触れて誇らしい気持ちにはならないんだな。

 「ムツェンスク郡」が書かれたのはショスタコーヴィチ20代前半だ。オペラを書くということの困難さを彼は感じなかったのだろうか。オペラを書く・・・・すなわち言葉やドラマとの音楽の関わり合いや、音楽で音楽以外のものを表現するという技法への精通などを考える時、あのリヒャルト・シュトラウスでさえ、全ての交響詩を書き上げた後に珠玉のオペラ群の創作に向かった慎重さが不可欠だったわけだ。それを、そんな若さで易々と乗り越えているなんてまさに天才だ。

 でも、なんていってもまだ若いあんちゃんだよ。エネルギーあまりまくって、思いのたけを作品にぶっつけたわけだな。音楽的な才能に関しては何の疑問もはさむ余地はないのだが、題材の選び方や展開の仕方に若気の至りを感じるといったら言い過ぎだろうか?
 Hシーンのポリフォニーをもじったポルノフォニーという音楽も、まあ、「トリスタンとイゾルデ」の濃厚さの代わりにイケイケのブラスバンドという感じだから、面白いには違いないんだが、「人間の真実」とか、そんなものに肉薄したわけではない。アクシーニアの陵辱シーンもねえ。年寄りには刺激が強すぎるよねえ。というより、それを表現して一体なんになるのという気がしてしまうのだ。
 うーん・・・・・分かるよ。きっと石原慎太郎が「太陽の季節」を書いたような気持ちっていうか、村上龍が「限りなく透明に近いブルー」を書いた気持ちっていうか、若者には若者の真実があるということだろう。そういう作品もあっていい。でも、その作品をあまり買いかぶりすぎるのもねえ・・・・。微妙だね。

現代音楽を見捨てた大衆
 前にも言ったと思うけれど、僕はストラヴィンスキーやバルトークは大好きだけれど、その後の音楽を積極的に追い求める情熱があまり湧かないのだ。扱っている題材も、創作に対する態度も・・・・・。何より鑑賞する者がそれの何に楽しみを見いだし、どう自分の人生に取り込んでいくかという、芸術との関わり方が分からなくなってしまったことが一番大きい。
 その時期とちょうどリンクするように、世の中にジャズという音楽が台頭してきて、それからビートルズが出現して、大衆はそれらに飛びつき、結果としてクラシック音楽が大衆から見捨てられていった。この現象は無視できないと思う。僕も20世紀後半の現代音楽を聴くのだったら、マイルス・デイビスを聴いていた方が充実感がある。ここには血があり、肉があり、人間が生きているのだ。
 大衆的だというだけで「キャッツ」や「オペラ座の怪人」といったミュージカルを馬鹿にするなかれ。現代オペラよりはずっと人間性が感じられる。だからあれだけの人達が惹きつけられるのだ。

 とまあ、いつもの年寄りの繰り言になってしまった。ここまで言っておいて今更だけれど、「ムツェンスク群のマクベス夫人」が傑作であることを僕は少しも否定しない。いくつかの場面をのぞけばむしろ好きな作品だ。終幕の音楽の美しさには素直に感動するしね。 それに、上演するなら、最初の衝動のままに書かれたこの初演版しかないと思っている。いつかね、今度こそショスタコーヴィチ風の音楽で、何か気の利いた短めのオペラを書いてみようと考えている。今回しっかり関わったことで、ショスタコーヴィチの語法にかなり精通したからね。



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