コアリズムでセクシーボディ?
「もっとセクシーに!」
と言われて、腰をぐるぐる激しく動かす。うわあ、おじさんには大変だ!え?何のことかって?今、軽快なラテン音楽に乗って毎日励んでいるのだ。コアリズム!
連休中の新町歌劇団の「NOAH~ノアの方舟」集中練習の帰り道。高崎線の電車の中で、国立からわざわざ新町の練習に通っているSさんと、振り付け師のSHさんが何やらダイエットのための“踊り?”の話をしていた。どうやらSさんがSHさんにそのDVDを貸したらしくて、SHさんは試しにそのプログラムに沿ってそれを踊ってみたらしい。
「普段、人にやらせている立場だから分からなかったけれど、やらされる立場というのは『まだかあ~?』という感じで結構カッタルいもんなのね。振り付け師としては良い学習になったわ。シラフではやってらんないから、ビール飲みながらやってるわ。」
「ええ?ビール飲みながらですか?超余裕ですねえ。」
今から考えると、凡人の僕たちにはついていくのも大変な踊りなのに、振り付け師SHさんからすれば、やることは“どうってことない”のに繰り返しばかりで退屈という意味だったのだ。
さて、それが「コアリズム」に出遭ったきっかけだ。コアリズムとは何なのか知らない人のためにDVDジャケット裏表紙の文章をそのまま書く。
ウエストラインを効率的に絞り込み、セクシーなメリハリボディを手に入れるためのラテンダンスエクササイズプログラム、それがコアリズムです。「今度先生にもお貸ししますから、やられてみたらいかがですか?」
タンタンのああ勘違い!
おかしいのは愛犬タンタンの反応だ。最初は無関心に横目で、
「ご主人様は何やってんだ?」
と見ていたのだが、僕の踊り方の問題もあるとみえて、腰の動かし方が彼にとってはヤラしいらしい。だんだんタンタンも興奮してくる。その内ワンワンと吠えだして、あろうことか僕の横でマウンティングを始めたのだ。
「おい、違うったら!おい、恥ずかしいからヤメロ!」
この話を新国立劇場合唱団員達にしたら、劇場中に響き渡る声で彼らは笑った。でも数日するとタンタンもすぐ慣れてきて、今では、
「またやってるよ。よく飽きずに・・・・アホか・・・・。」
という目で見ている。
とにかく、これは楽しんでシェイプアップできる素晴らしいエクササイズだ。すでに心なしかウエストがくびれてきているような気がする。そのうち上手になったら動画にしてお見せしましょうか?え?見苦しいからいいって?ほっといてよ!
ブラームス交響曲第一番
いよいよ来週は名古屋市民管弦楽団の演奏会。今日はブラームスの譜面についてちょっと書いてみよう。あらたまってアナリーゼの論文を作ろうなどと思うと、どうしても構えてしまって最初の一行から筆が進まないが、こうして何気なく書き始めたら、かえってまとまった文章が出来た。これが僕にとっては一番良い方法かも知れない。
希有なる歌謡性
ブラームスという作曲家は二つに分裂している。僕は、ブラームスで最も好きな分野は何?と問われると、迷わず歌曲と答える。数々の大規模な楽曲が素晴らしいのは百も承知なのだが、好きな分野は歌曲なのだ。何故なら、歌曲でのブラームスは、決して気張らない素顔の姿を見せるからだ。そしてその素顔とは“天性の歌謡性”なのだ。
実は、ブラームスほど優れたメロディー・メーカーは音楽史上でも少ない。有名な「ブラームスの子守歌」や「日曜日」を聴いてみると分かるが、彼の歌曲は常に自然で覚えやすいメロディーに溢れている。その意味では、ブラームスはシューマンを通り越してシューベルトの後継者であるとも言える。シューマンのメロディーはもうちょっと屈折しているからね。繊細な叙情への耽溺に関しては、師であるシューマンへの接近も見られるけれど、凝っているのは主として伴奏部。メロディーは基本的にシューマンよりずっと健康的で人なつこい。こうした歌謡性がブラームスのひとつの原型なのだ。
プレッシャー
ところが二十歳の時にシューマン家を訪れ、クララ・シューマン等と共に古典を深く研究するブラームスは、バッハ、ベートーヴェン達が成したように音楽における構成力と構築性を身につけなければ真の偉大な作曲家になれないというプレッシャーに包まれるのだ。
シューマンも、出発点はピアノ曲や歌曲といった小品だったが、しだいに交響曲などの大規模な楽曲に手をつけていった。そこでモチーフの発展や、対位法的処理など様々な作曲技法を元来の叙情性と共存させるべく努力した。ところが不幸にもシューマンはベートーヴェンを超えられなかったのだ。
うーん、本当は超える必要はなかったと僕は言いたい。シューマンの持ち味は、あの触れなば壊れそうな傷つきやすいリリシズムにあったので、ベートーヴェンと同じ土俵で争わなくても、すでに勝っている部分はいくらでもあったのだ。
このベートーヴェン・コンプレックスをブラームスも受け継いだ。シューマン亡き後、愛するクララの期待も彼には重かったに違いない。ベートーヴェンを超えなければと思い続けて、彼は作品を凝って凝って懲りまくる。その最も顕著な例が、彼が40歳を過ぎて初めて完成させた交響曲第一番だ。
メロディーのない第一楽章
「どうも第一楽章をどう捉えたらいいか分からないのですが。」
と、名古屋市民管弦楽団の半田での合宿の時、ひとりの女性団員が僕に訊いてきた。僕は答える。
「二番、三番の交響曲の第一楽章はどう?」
「それはよく分かります。大好きです。」
「美しいメロディーがあるしね。それがブラームスの素顔なのだよ。メロディーがあるということは風景が見えるだろう。」
「そうなんです。二番以降の曲では弾いていてイメージが湧くんです。でも一番の第一楽章では、そのイメージが・・・・。」
「一番の原因はメロディーがないんだ。」
と僕は問題発言をする。おおヤベエ。こんなこと言っちゃっていいのか。
ブラームスの交響曲第一番は、ベートーヴェンの第九との関連性について語られるが、この第一楽章は、第九よりもむしろ運命交響曲の第一楽章からの影響が強い。運命もメロディーがない!その代わり、あるのは短いモチーフだ。それが曲の中の至る所に細胞のように入り込み縦横に活躍する。作品にみなぎるあの異常な凝縮力の正体は、細胞化されたモチーフなのだ。
ブラームスもそれを追求した。彼はこの曲では、彼の武器とする歌謡的なメロディーを意図的に避け、ベートーヴェンが運命交響曲で獲得したモチーフによる凝縮性を求めたわけだ。
まず彼は半音階で上昇するモチーフを、この楽章を支配する基本モチーフと定めた(譜例①)。
やっとメロディーが・・・・
さて、この第一楽章を作り上げて、初めてブラームスは「ちょっとはベートーヴェンに迫れたかな?」と安心したのだろう。第二楽章以降は、やっと本来のブラームスの美しいメロディーが聴かれるようになる。特に第一楽章に対して長三度上のシャープ四つホ長調で始まる第二楽章は、その輝くような調性感と相まって、第一楽章の緊張感をやさしくほぐしてくれる。
いいなあ、こういう癒し系の音楽。それでいて後半は、そこはかとない哀愁が漂う。過ぎし日の思い出・・・・二度と帰らないあの美しい瞬間の数々・・・・来た来た来たあ、ブラームス節!ううう、おじさんにはたまりませんなあ。
でも、この楽章も結構凝っている。半音階モチーフAがすぐ出てくるし(譜例⑦)、気づかない人も多いだろうが、中間部のオーボエの旋律は下降形モチーフBの変形であり(譜例⑧)、それは第三楽章の主題と受け継がれ(譜例⑨)、さらに第四楽章で(後で述べるが)また大きな働きをする。
ブラームスの管弦楽法
後半でヴァイオリン・ソロが出てくるが、こんなのヴァイオリンだけにやらせればいいのに、ホルンとオーボエまで重なっているんだぜ。
作曲家はよく空白恐怖症だと言われる。何も書いてないと不安で、気がつくとスコアに音が埋まり過ぎてしまうんだ。“書かない勇気”というのも作曲家には必要なんだけど、ブラームスは空白恐怖症の典型的な例だ。夏に毛皮のコートを着て我慢大会をしているような厚ぼったさ。でも、このサウンドがブラームスの個性とも言えるので、まあ、一概に否定は出来ないんだな。
ブラームス・サウンドと言えば、トランペットやホルンの扱い方も特徴的。この時代は楽器も発達していて低音域で音階も吹けたのに、ベートーヴェン時代の制約の多い音符の使い方をわざとしているのだ。つまりドソドという基本倍音ばかり使っている。
同時代のワーグナーなどが管弦楽における色彩的可能性を広げて未来への道を開拓していったのとは裏腹に、あくまで時代錯誤的な地味なオーケストレーションをしていったのも意図的なもの。聴衆の興味を内面性に向かわせることに彼の意識は集中しているのだ。
第三楽章は、良い意味で力が抜けていて僕は大好き。オケも厚すぎない。こういうインテルメッツォ的な曲が上手なのがブラームスの本当の強みなのだ。この曲はさっきの第二楽章のホ長調からさらに長三度上がって変イ長調。それでさらに長三度上がってもとのハ調に戻って第四楽章となる。古典派のソナタにはないユニークな調性の配置。
この楽章の中間部は、ベートーヴェンの第七交響曲第三楽章の中間部と同じくらい「よく分からなくて」、同じくらい不思議な魅力を持っている。
第四楽章は、第九の歓喜の歌に似たメロディーばかりが有名になってしまっているが、この曲の構成力は文句なく素晴らしい。まずこの歓喜の歌に似たメロディーであるが、ベートーヴェンのそれより微妙に渋く、「全世界の人々よ抱き合おう。」という理想主義よりも、むしろ個人の心情の発露という感じだ。で、その心情というのは、後でくわしく述べるが、まさに「人生における諦念」。
それとトロンボーンのファンファーレもたまりませんねえ。うーん・・・・渋い・・・・実に渋い・・・・。
この第四楽章の主部に入ると、第二番、第三番交響曲のフィナーレのように、元気いっぱいエネルギッシュに疾走する。ここで指揮者にとってはいつも問題が起こる。それはこうだ。歓喜の歌はゆったりと演奏したいが、主部は疾走したい。だからどこかでテンポを上げなければならない。
ブラームス自身は、テンポアップに関しては何も書いていない。ただ速くなった主部にはAnimatoと書いてある。アッチェレランドは通常、歓喜の歌が管楽器に受け継がれた時に行うが、気をつけないと不自然になってしまう。フルトヴェングラーのように不自然に「やるぞう!」とやってもいいのだけれど、普通の人がやるとただ野暮ったくなるだけ。
後半で下降形モチーフBが大活躍する箇所がある(Brahms-4Satz譜例)。こういうところはブラームスの独壇場。一拍ごとに重なり合うカノン!息詰まるような緊張感!スコアを読んでいると叫びたくなる。
名盤は?
いろいろ聴いているけれど、今回再発見をした指揮者はシャルル・ミュンシュだ。ミュンシュはフランス人だけれど、ドイツとの国境に近く、ドイツ文化が混ざり合っているアルザス地方のストラスブール出身ということもあって、ドイツ音楽のレパートリーを得意としている。
ミュンシュがパリ管弦楽団を指揮した演奏が秀逸。パリ管というオケは、一人一人の力量はあるし、特に管楽器奏者はフランスだから素晴らしいのだが、ドイツ音楽ということになると通常はちょっと難しい。弦楽器の重厚感などを期待すると失望する。
ところがミュンシュの棒の元では、よくぞここまでドイツ的にやってくれましたと賞賛したい気持ちになる。まあ、オーボエやクラリネットの音色は、ブラームスとは最後までなじめないかも知れないけれど、そこにこだわらなければ集中力と表情の両方に溢れた素晴らしい演奏だと思う。
あまりミュンシュが良かったので、ボストン交響楽団を指揮した旧盤を買ってきた。こっちの方がテンポも速く引き締まった演奏。これもいい。パリ管盤の第四楽章のホルンの名旋律の遅さが嫌だという人には、ボストン盤の方がお奨め。ちなみに僕はどっちも好き。
やっぱりなんだかんだと言ってもフルトヴェングラーはいい。みんな我を忘れて夢中になってブラームスの真実をつかみきろうとしている。プロがこうして熱く燃えているのが胸を打つ。
それに比べるとカラヤンはチンピラに見える。やっぱりフルトヴェングラーとは次元が違う。カラヤンの演奏って、何聴いてもフルトヴェングラーやミュンシュなどに見られる曲に対する“熱い想い”が感じられないんだ。でもサウンドは極上だからつい聴いてしまうのだけれど。
以前紹介したクルト・ザンデルリンク指揮、ドレスデン・シュターツカペレの演奏も、名演には違いないのだが、繰り返し聴いていると飽きてくる。カラヤンのように指揮者もオケも案外冷めているというのがその理由。
してみると、ブラームスの演奏には熱気が不可欠なんだな。バーンスタインはDVDで観ている。彼の“踊り”の素晴らしさに比べて、目をつぶって聴くと、出ている音楽は案外たいしたことない。ウィーン・フィルは素晴らしいけれど、バーンスタインの踊りに対して、ちょっと距離を置きながら冷めてない?
ところで皆さんに訊くけど、バーンスタインってさあ、マーラー以外で本当に良い演奏ってどれくらいあるの?またまた問題発言だけれど、彼って本当に良い指揮者?みんな視覚に欺されていない?
ブラームスを理解するということ
「苦悩を通って歓喜へ」というベートーヴェンの信条をそのままなぞったような曲の展開。それに短調から長調へ流れていく調性の解決。ブラームスは第一交響曲で運命交響曲や第九の理念をそのまま踏襲している。
でもブラームスの表現した世界はベートーヴェンとはかなり違う。これは意図的ではなく、ブラームスという人間の個性が自然にそうさせたのだ。
フィナーレは勝利の歌には違いないが、ベートーヴェンの方が理想主義的。悪く言うとノーテンキ。実際の人生、あんな運命交響曲の第四楽章のようなわけにはいかないからね。ブラームスはもっとリアリスト。彼の勝利の表現は単純なお祭り騒ぎではない。達成感よりも、人生に対する諦念から来る“悟りの境地”が支配している。
「諦念」。これがブラームスの音楽に通奏低音のように流れる基本テーマ。それが二十歳の僕にはうじうじしていて嫌だった。でもそれが若者の自然な反応だ。
もしある若者が今の僕に向かって安易に、
「ブラームスを完全に理解しました。」
と言ったら、
「嘘つけ!」
と言うに決まっている。
「分かるわけがない!」
と言うつもりもないが、分かり方の問題だな。安易に戦うことを放棄し、諦念といいながらあきらめムードの「偽りの悟り」に陥った、変に年寄りっぽい若者にブラームスが分かったと言って欲しくないのだ。若者は、自分の若さに素直でないとね。若気の至り大いに結構。戦え、若者!
ブラームス自身は、確かに若い時からある意味年寄りくさかったかも知れない。でもね、彼は戦うことから逃げていた弱虫でも、あきらめムードのしらけた人間でもなかった。彼が年寄りくさかったのには理由があるのだ。
シューマンもそうだったけれど、彼等の内面というのはとても繊細だったのだ。誰も到達し得ないような美しい世界を持っていて、それを命を賭けて守り抜こうとしていたのだ。そのため、外的世界とはしばしばうまく折り合いが付かなかった。デリカシーのない人達と付き合うと、とても傷つきやすい彼等の心は、しばしばずたずたに引き裂かれる。
そんなブラームスの心情を普通の人が理解するためには、ある程度歳を重ねた方がいいということだ。でも、歳を取りさえすれば分かるというものでもない。まず若い時からブラームスのように美しい心を求めなければならない。これが現代人にはとても難しい。全てが短絡的思考で動いている現代社会だからね。
女性を見て、すぐに口説いて寝てしまおうと思うような輩は無理。相手に直接向かおうとするのではなく、相手を夢想しようとする気持ち。メールよりもラブレターを書こうとする気持ち。騎士となって愛する女性を守り抜こうとする気持ち。サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」の歌詞を理解するような気持ち。こんなロマンチストであることが大事なのだ。誰だ!くすくすと笑っているのは?
そうした気持ちを持ち続けていると、それが長い年月の間にしだいに熟成して、まろやかなロマンチシズムとなってその人間を内面から輝かすようになるのだ。諦念とは、何かを手放したり、何かを求めることを放棄したりすることではなく、人生において足ることを知ることであり、単に欲望を抑えることではなく、もっと大切なものに目覚めることで、目先の欲望に惑わされないことなのだ。
そんなことが自然に理解出来るようになったら、ブラームスの音楽に耳を傾けてみるといい。音楽って不思議だ。身近に話が出来る人よりも、むしろ時代も民族も違う会ったこともない人間が、誰よりも分かり合える心の友となるのだから。今の僕にとってブラームスとはそんな存在なのだ。
断っておくが、若者はブラームスを聴いてはいけないという事ではない。むしろ、若者には若者なりのブラームスの理解の仕方があると思う。いいものはいい。若者であろうと老人であろうと、惹きつけられる音楽には素直に心を開けばいいのだ。
僕が東京交響楽団で「ドイツ・レクィエム」を指揮したのは50歳の5月だった。あの時、半世紀の節目に立った自分にとって、ブラームスはとても自分に近い存在となった。今、あの時からさらに四年経って54歳の5月。自分とブラームスを結びつけている糸がどんどん太くなってきているのを感じる。今の僕のブラームスはねえ、自分で言うのもなんだけど、とても良いと思うよ。
このブラームスの演奏が、54歳の今の僕の出す人生への“答え”です!