カサロヴァが来た!

三澤洋史 

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名古屋市民管弦楽団演奏会無事終了
 ブラームスの最後のフェルマータを切る瞬間、
「ああ、もう終わってしまうのだ。この至福の時間が・・・・。」
と思った。久し振りだなあ、この感覚。というのは、食事療法や運動をしているお陰で体が軽く、本番をエネルギッシュに振っても疲れないのだ。しんどいという気持ちではなく、楽しいと思うだけで本番が終わるなんて一体何年ぶりだろう。

 今回の演奏会は、年齢を重ねた分だけのスケール感を出そうなんて、3月に初回の練習をする前には思っていたのだよ。それがこの2か月くらいの間に、体だけではなく発想も若返ってきたようだ。で、演奏会では円熟どころか、かなり若い演奏になっていたなあ。
 アンコールのハンガリア舞曲では、あまりに楽しくてつい必要以上に体を動かしてしまった。このまま腰を振ったらコア・リズムだな、と思ったが、そんなことをしたら演奏会の格調を下げるのでやめておいた。でも、聴きに来ていた次女の杏奈が、
「パパ、腰動いていたよ。」
と言ったので、あちゃーっ!
「でも、アンコールねえ、お客さんとても喜んでいたよ。」
だって。

 前の晩の練習後、杏奈を連れて風来坊の手羽先唐揚げを食べに行こう思っていたら、コントラバスのヤバいおじさん二人と、ヴァイオリンとチェロのおにいさん?がスポンサーになってくれて、本番前だというのに午前0時近くまで妙な盛り上がりをした。
 たまにはこうして新国立劇場を離れて、オペラとは全然違う本番をやるのも楽しいな。こうした活動はいろいろな新しい発見を伴うので、オペラの活動にとっては、さまたげになるどころか大いに充電となるのだ。一方、演奏会で「マイスタージンガー前奏曲」などをやると、楽劇の内容に熟知している僕には、主題ごとに場面が蘇ってきて、演奏会だけやっている人よりはニュアンスをつけることが出来る。R・シュトラウスの交響詩だって、彼の「薔薇の騎士」をはじめとするオペラの世界を知っているのと知らないのとでは、作曲語法への理解が全く違うと思う。
 それにしても、ブラームスはいいな。i-Podからは、演奏会の曲目は全て消えたけれど、新たにブラームスの交響曲第2番と3番を入れて聴いている。このしみじみとした情感!くー、たまらん! 


カサロヴァが来た!
 5月27日(水)。「チェネレントラ」のオケ合わせ。来たぞ、来たぞ、ついにカサロヴァが来た!でもね、最初のひと声を聴いたときは、そんなに衝撃は受けなかったのだ。ガツンと威圧感のある声ではない。ちょっと声を抜いていたこともあるし、高いところでは1オクターヴ下げたりもしていた。
 僕は抜いている声でも彼女の声の品定めをする。appoggiareと言われる“支えのテクニック”についてだけれど、さっきから分かっていた。appogiareはほぼ完璧だ。息の供給は均等で、横隔膜の張り具合も良い。
 来日して気候も湿度も違う中に放り出された彼女は、自分の声を守りながら慎重に歌っている。声を口の中に含んで前に出さないようにして歌っているので、一見こもっているように聞こえる。でも決め手はこのしなやかな音色だ。この響きを持っているということが一流の証。
 で、次はgirare、つまり中音域から高音域に移る時のチェンジのテクニックだ。こればかりは高音を出してくれないと分からないなあ・・・・。と思っている内に、カサロヴァは、だんだん調子を上げてきた。そしてついに・・・・下の音域からコロラトゥーラで一気に駆け上がった。うわああああ!なんたるチェンジの安定感!girareも完璧だ!同時に、コロラトゥーラのテクニックにも脱帽!

 それからは、曲を追うごとに彼女は調子を上げていく。コロラトゥーラを歌う時は、まるで動物が獲物を狙うように、腰をかがめて動き回りながら歌っている。勿論舞台に行ったらこんな格好はしない。でも彼女が、どう体を使って全身でコロラトゥーラに立ち向かっているのか、手に取るように分かった。貴重な体験だ。 
 シラグーザとのコンビも最高。ただ、まだ合わせて間もないので、お互い探り合っている。でもどちらが引くわけでも、どちらが強引に押し切るわけでもなく、自然に二人で最もふさわしいアゴーギクやニュアンスを決めてゆく。それをニコニコ笑いながらサポートしていくのは、コヴェントガーデン歌劇場で長らく音楽ヘッド・コーチStudenleiterを務めているベテラン中のベテラン指揮者サイラス氏。こんな時は、自分を主張し過ぎるスター指揮者などよりも、こうした「叩き上げ」がふさわしい。

 それにしても、一流の人同士って、なんて分かり合えるのが早いのだろう。カサロヴァもシラグーザも双方、本当の意味でのプライドがあるからこそ、相手に心を開くことが出来る。揺るぎないイメージとこだわりがあるからこそ、合わせながらも自分を決して見失わないのだ。

 そしてある時、カサロヴァは全開状態で歌った。僕は「あっ!」と思った。そうか、そうだったのか・・・・。僕は初めて理解したのだ。何故ロッシーニは、自分のオペラの主人公を、ソプラノではなくメゾ・ソプラノかアルトに歌わせたのかということの理由を・・・・。
 カサロヴァが全開状態で歌った時の声は、ソプラノのコロラトゥーラの世界とは全く違うものだった。ロッシーニはシンデレラ役にどうしても欲しかったのだ。カサロヴァのようなメゾ・ソプラノの“メランコリックでロマンチックな音色”を。で、その音色を持っていながら、ソプラノ真っ青の超高音を楽々と出し、コロラトゥーラの超絶技巧を完璧にこなす。
 二者択一ではなく二兎を追う、こんな綱渡りのような、あり得ないような要求に答えられる歌手をロッシーニは求めていたわけだ。で、それが実現した時の驚くような効果を、僕たちは間近で味わう事が出来た。いやあ、ロッシーニは天才だ!そしてそれはオペラという芸術の行き着いたひとつの究極の姿なのだ。

ああ高崎!青春の街!
 オケ合わせが終わると、僕は国立の自宅には戻らずに群馬の実家に向かった。次の日の28日(木)は新国立劇場がOFFなので、前から気になっていた手続きを地元の群馬銀行でやってしまおうと思っていた。どうせ群馬に行くのだから、ついでに新町文化ホールで「NOAH~ノアの方舟」の照明打ち合わせをやろうとアレンジしたが、28日は担当者が不在だというので、29日の午前中に打ち合わせをし、そのまま新国立劇場に出勤ということになった。
 ということで群馬の実家に2泊することとなった。28日は午前中に銀行に行ったらその後はまるまる暇。まあ、僕の場合、暇といっても貧乏性なので、何もしないでボケーっとしている事はないんだな。キーボードど音源モジュールを持参し、母に作ってやった自作パソコンを使ってNOAHのオーケストレーションをしている。とはいえ、せっかく群馬に来たのだから、たまには高崎の街でも見てみようと、お昼を食べてから高崎線に乗った。

 高崎駅周辺の変わりようには驚いた。東口に大きなYAMADA電機が出来て、それまで独占企業だったビック・カメラが脅かされるようになったし、西口にはタワー・レコードが出来ていた。こうした大型量販店の進出が、駅周辺の概観を広々としたものにしているのは他の地方都市の駅周辺と一緒だ。
 あ、あれは何だ?駅の案内板を見ると、西口正面から遠くに見える高層ビルは、高崎市の新しい市役所だという。うわあ、スゲーな。

 さて、僕は駅を背にして歩き始めた。最初はよかった。だが間もなく僕は、まるで暗い穴蔵に入っていくような気分になっていった。T字路がぶち抜かれて市役所方面まで十字路になっているかつてのあらまち交番前。ここを右折し、連雀町まで来ると、穴蔵感はますます強くなっていった。
 どういうことかというと、つまり昔の商店街から活気が全く失せているのだ。ところどころシャッターが閉まっていたり、空き地になってしまった所もある。一番の繁華街である中央ぎんざ通りに入っていったら、その変わりように心が押しつぶされた。
 ここには僕の高校時代の思い出がいろいろ詰まっている。新町という田舎町に住んでいた僕にとって、この繁華街は夢のような場所だった。

 あの頃僕は、名曲喫茶「あすなろ」に足繁く通って、ちょっとオタッキーな曲をリクエストしたり、この界隈で一番大きい本屋の天華堂で立ち読みをしたり辞書を買ったり、中華料理屋の「らっちゃん」で太麺の焼きそばを食べたり、オリオン座で映画を観たり、問屋町に住んでいる親友の角皆君や、貝沢町に住んでいる高橋君などと自転車を飛ばして通り過ぎたり・・・・。僕のかけがえのない青春の思い出で溢れている。
 それが・・・・それがね・・・・ まるでゴースト・タウンなのだ。しかもつぶれてしまった店は、つぶれたまま放置されているので、余計みすぼらしく見える。幽霊屋敷のようなオリオン座の前に立った時は、本当に涙が出た。

 小さい店が集まってそれぞれの特徴を出しているという昔の商店街のあり方が、しだいに現代の人達に受け入れられなくなってしまったのだ。どうせ買い物に行くならば、何でも揃っている中から選んだ方がいいので、大きな店に人が流れていく。だから駅前だけ栄えて商店街はどんどん廃れていく。日本中どこの街でもそう。時代の流れと言ってしまえばそれまでなんだけれど・・・・・さみしい・・・・なんともさみしい・・・・・。

 駅前に戻った。かく言う僕も量販店に行く。お袋のパソコンのケースに付属していた電源ユニットの音がうるさいので、静音の電源ユニットを買おうと思ってビック・カメラに行った。でも自作パソコン・パーツのコーナーがない。おかしいな。どこのビック・カメラにも必ずあるのに・・・・。
 そうだ、YAMADA電機だったら絶対にある!国立の家の近くの東八道路沿いの店にもあるからな。そう思ってYAMADA電機に行ったが、意外や意外。あれだけ大きい店なのに自作コーナーがなく、それどころかみんなが買いそうな表面的な製品しか置いていない。 あーあ、地方の人達はナメられているなと無性に腹が立ってきた。それでは、地方でパソコンを自作する人は一体どこにパーツを買いに行くのだろう?そうしたオタク向けの店はあるのだろうか?でも、あったとしても、地方ではきっと経営が大変なのだろうな。

 地方で人と違った個性的な生き方をするのって、思いの外大変そうだ。みんな同じものを提供されて満足し、その他大勢になった方が楽ってことか。それでいながら大型量販店は人々から“地元との密着性”をも奪う。
 全国どこの街に行っても、同じ店が建ち並び、同じ風景しか見られない。高崎が高崎である証といったら、今や観音山にそびえる観音様と、赤城山、榛名山の景色くらいではないか。

おおい!僕の青春の街、高崎よ!頑張ってくれ!

麻生久美子という女優
 ある時、テレビで麻生久美子の密着取材をやっていた。それを見ながら僕は、
「なんてしなやかで、面白い子なんだ。」
と彼女の魅力に惹かれた。顔は正統的な美人なのだが、コメディでもなんでもこなせる演技の許容量を持っている。テレビでは、
「こういう風にやってと監督に言われて出来ませんと言った事がない。何にもこだわっていないように見えるけれど、演技すると全て彼女なりのものが出来上がる。」
と紹介されていた。
 先週から映画を観る癖がついている僕は、名古屋市民管弦楽団の演奏会が終わって心の余裕が出来たこともあって、暇ではないのだが時間を捻出して麻生久美子主演の映画を二本観た。

インスタント沼
 まずは「インスタント沼」というコメディ。脚本、監督の三木聡の作品は、しょうもないオジン・ギャグを積み重ねて映画を作っていく。テンポもあるが、特徴はむしろ独特の間にある。
 主人公のジリ貧OL沈丁花ハナメを演じているのは勿論麻生久美子。母親役の松坂慶子がいい味を出しているし、怪しい父親役を演じる風間杜夫が楽しい。でも麻生久美子以外で一番気に入ったのは、ふせえりという役者。彼女のような脇役は映画界には貴重な存在。
 ハナメは加瀬亮の演じるパンクのガスに向かって、
「パンクならパンクらしくしろ!ざけんじゃねーよ!」
などと激しいセリフを飛ばすが、こんな瞬間でも、麻生久美子が演じると少しもイヤミがなく自然なのだ。
 ラストのサプライズは「ありえねー!」と思わせるが、まあいいんだよね。こういう映画では、なんでもアリなのだ。ということで楽しくテアトル新宿を出た。

おと な り
 次に見たのは「おと な り」という映画。これは正直言って、みんなに観てもらいたい。最初はラブ・ストーリーということでちょっと敬遠していた。もう五十もとうに過ぎたおっさんが、今更アラサーの恋物語もないだろうと思っていたのだ。でも「インスタント沼」の麻生久美子があまりに魅力的だったので、もう一本観たいと思い、首都圏で唯一やっている恵比寿ガーデンプレイスの中にあるガーデン・シネマに観に行った。

 これは普通のラブ・ストーリーではない。映画の最後の最後まで二人は顔を合わせることがないのだ。主人公の男女はアパートの隣同士。互いに相手の顔を知らない。でも相手の生活している音は、毎日聞いている。こうした設定で始まる映画は、二人の日常を交互に描き出していく。
 麻生久美子の演じる登川七緒は、フラワーデザイナーを目指して花屋で働きながら、フランス留学を目の前に控えている。一方、岡田准一の演じる野島聡はカメラマン。本当は風景写真を撮りたいのだが、親友の人気モデルのシンゴのカメラマンとして売れてしまっていて、その仕事ばかり来る。それから脱皮したい聡は、カナダ留学を決心していた。

 映画を観ながら、僕はむしろ聡の方に思い入れを感じた。彼を観ている内に、忘れてしまっていた自分のアラサーの頃の悩みや葛藤を思い出した。とりあえず仕事は来るようになって、生活はなんとかつながっている。でも、自分のやりたい事と、食うための仕事とが微妙にズレている。これでいいのか?と思い惑う自分・・・・・。岡田准一は内向的な雰囲気を持っていてこの役にピッタリ。

 この映画の中での二人共自分に前向きで、観ていてすがすがしさを感じさせる。監督の熊澤尚人の映し方もいいが、まなべゆきこの台本がいいな。それにしても麻生久美子は、このすがすがしい雰囲気に見事に溶け込んでいて、「インスタント沼」と同一人物とは思えないほど清楚で愛らしい存在感を出している。本当に何でも演じる事の出来る女優だなあ。いや、かなりの大物だ!

 七緒がある人に裏切られて落ち込んでアパートに帰ってくる。いつものフランス語のレッスンをするが、声が涙声だ。隣の部屋でそれに気づく聡は、じっと彼女の声に耳を澄ます。突然、声が止む。そして、すすり泣く声が聞こえる。その時の麻生久美子の泣き声があまりに真に迫っているので、僕はついもらい泣きしてしまった。

 こんな風に、ここでは隣人の出す、声も含めての“音”がテーマ。「おと な り」というタイトルも「おと~音」に引っかけている。恋愛って、普通相手の顔を見るところから始まるではないか。一目惚れという言葉もあるくらいだし。それをあえて拒否して、聴覚から始まっていく物語にしているところが、この映画の独創的なところだ。
 音楽家の僕は、生活音も含めて、周囲から聞こえてくる音に対して恐らく普通の人よりかなり敏感だと思うから、この映画で表現されていることは、とてもリアルに感じられる。ここだけの話、僕の場合、女性は(妻もそうだったが)声から好きになるのだ。しーっ、内緒だよ!

 声や音ではないが、メールの交換から顔も見たことのない人との愛が芽生える「ユー・ガット・メール」という映画もあったね。これも映画の最後の方になって初めて二人が出遭うんだ。「おと な り」も、もしかしたらこの映画からアイデアをパクッたかな?いずれにしても、こんな映画は、観客の方が想像力を刺激され、妙にトキメイてしまうよ。

と、麻生久美子から目が離せない今日この頃でございます!




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