1Q84を読みました

三澤洋史 

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今の僕の日常~イタリア語
 今の僕の生活をちょっと紹介しよう。雨の日以外は毎朝7時起床。愛犬タンタンを連れて約1時間の散歩に出る。散歩時間が増えて、最初は僕より先にタンタンが痩せてしまい、獣医さんにもっとご飯をあげるように言われてしまった。でも今は充分に食事を採って彼はゴキゲン。ミニチュア・ダックスフントは、体の構造上椎間板ヘルニアになりやすいので、運動をたっぷりして筋肉をつけておくことが必要。なので散歩は僕にとっても彼にとっても良いことづくし。

 僕は散歩にヘッドフォン付きの小型ラジオを持っていく。7時30分からNHK第2でフランス語講座、7時45分からイタリア語講座を歩きながら聴いている。朝なので頭がすっきりしていて、結構頭に入ってくる。とても能率的!
 イタリア語の勉強は最近再開した。以前からちょこちょことやってはいたのだが、また集中的に勉強しようと決心した。イタリア人の歌手や指揮者達と話す時に、安易に英語とかに逃げてしまわないで、きちんとイタリア語でコミュニケーションがとりたいというのが一番の大きな理由。その他にも、もっとイタリア・オペラの世界を言語的にも極めたいというのがある。「ドイツものの三澤」という評価をいただいているのは光栄だが、僕という人間のメンタリティは、実はどう考えてもラテン系なのだ。イタリア・オペラも大好きだからね。
 秋になると、また宿敵?フリッツァ(オテロの指揮者、以前アイーダの時にペンライトをめぐって口論をした)がやって来るしね。彼ともなるべくイタリア語で話したい。まあ、喧嘩になったら英語になってしまうかも知れないけれど。あはははは。いやいや、なるべく喧嘩はしませんよ。いっとくけど、フリッツァのことは嫌いじゃないんだからね。きちんと指揮者としては評価しているし・・・。
 イタリア語は楽しい。以前フランス語を勉強してからイタリア語の勉強が急に楽になった。発音はだいぶ違うが、同じラテン語から派生した言葉同士、単語も同じなら文法も構文の作り方もほとんど同じ。それだけにこんがらがることもあるが、助けられることの方が多い。
でも、イタリア語を勉強しながらフランス語が気になってしまうのは、はっきりいって邪魔。
「これ、フランス語ではなんて言ったっけな?」
とつい思って、辞書や文法書や活用書を引っ張り出してきて調べている内に、何を勉強していたのか忘れてしまう。
 NHKのテキストも、イタリア語だけ買えばいいものを、気がついてみると、ドイツ語、フランス語も買ってしまう。しかもラジオだけでなく、テレビのテキストも買って例文を読んでしまう。残念なのは、朝の散歩の時にドイツ語だけ違う時間帯なので聞けない事。まあ、もうドイツ語は別にいいんだけどね。

 散歩から帰ってくると、妻が野菜ジュースをミキサーで作っておいてくれる。トマト、にんじん、セロリにリンゴが少々。これを飲むとシャキッとするのだ。それとパンと紅茶で朝食。
 8時半過ぎに勉強及び仕事に入る。散歩をたっぷりした後の方が能率が上がる。だから雨の日は頭がぼけてて駄目。目下の所はNOAHのオーケストレーションがメイン。その他にいろいろ平行してやっていることはあるけれど・・・・。
 10時半にいつもコーヒーを飲む。コーヒー豆をミルで挽いて、必ず僕が自分で納得のいくやり方で淹れる。その時にブラック・チョコレートをひとつだけ食べる。それから再びお昼まで仕事。午前中に用事があって家を出る時以外は、かなり厳格にこの生活を守っている。

 お昼は玄米食。黒ごまを小さいすり鉢で挽いて玄米にかける。これが香ばしくて最高!それから自転車で府中駅に向かい、新国立劇場に出勤する。午後から夜にかけては新国立劇場で練習や本番のサポートなどが日課。
 立ち稽古が遅くから始まったりして時間がある時は、出勤時にわざと遠回りして多摩川縁の土手の上を自転車で爽快に走る。府中から初台までの京王線の中では読書かi-Podで音楽を聴く。目下の所は読書が多い。でもi-Podは、自転車に乗りながらは決して聴かない。危ないからというのと、運動に集中したいというのが理由だ。
 夜、新国立劇場から帰ってきて食事をすると、コアリズムをしたり、メールチェックをする。就寝は音楽家にしてはかなり早い。翌朝また7時に起きるため、12時前にはベッドに入るようにしている。ベッドで少し読書をして、本が顔の上に落ちてきたら、おやすみなさい。

 このように僕の生活はめちゃめちゃ規則的。僕は規則的でないと嫌なのだ。自分の精神がガサガサしてしまうのを最も嫌う。勿論、地方に出たり、イレギュラーな仕事の仕方をすることもあるが、そんな時は精神の均衡を保とうと人一倍努力する。良い仕事をするためには心の平安が最も大切。これが僕のモットー。

ひとりEPIの楽しみ
 19日金曜日は、チョン・ミュンフン指揮「椿姫」の合唱音楽練習が早く終わったので、恵比寿まで足を伸ばし、次女の杏奈がアルバイトしているLe Petit Restaurant Epiに行って、サラダとメイン・ディッシュだけ食べて帰ってきた。
 普段、お酒を控えているので、飲む時は良いお酒を少量でいいから飲みたい。もうダイエット・ビールはノー・サンキューだ。あんなもの酒といえるか。僕は目標を作るためにも、食事制限を続けている生活の中で、こうして時々プチ贅沢をしようと思う。別の店でもいいけれど、杏奈のいるEpiだったら、
「・・・・とかなんとか言っちゃって、誰かと二人で食べてるんじゃないの?」
なんて、妻に変な疑いをもたれなくて済むしね。

 Epiの料理はどれもおいしいけれど、先日食べた生ハム付きアンディーブ・サラダの味が忘れられなくて、これとパンだけでもいいなと思いながら店に入った。さりげない味なのだが、ドレッシングの味にひと工夫あるのだ。この味を出すのは簡単ではない。帰りがけにシェフにたずねたら、
「実は、トリュフとか使っています。さすが・・・違いを分かってもらえて嬉しい。」
と嬉しそうだった。
 その他にムール貝でも食べようと思っていたが、新鮮な鯛が入ったばかりだというのでメインをそれにした。網焼きしただけの鯛はシンプルそのもの。でも下に敷いた温野菜の味に工夫がしてあり、これとのコンビネーションが絶妙。レモンを搾ってかけ、fleur de sel(塩の花)という粒の大きい特別な塩をかけて食べる。塩気がやさしい。

 ワインは白ワインにした。グラスワインはシャルドネとボルドーの白が置いてある。順番に飲んだが、シャルドネが香り豊かでフルーティーなのに対して、ボルドーが超辛口できりりとしまっていたので、順番を逆にすればよかったと思った。

 食事というものは音楽と似ている。すぐ胃袋の中に消えてしまってはかないし、どんなおいしいものを高いお金を払って食べても、何時間か経つとすぐにお腹がすいてしまう。でもこれだけで精神を豊かにしてくれる。はかないものは、はかないだけにかけがえのないものを持っているのだ。
 もう随分血糖値も下がったし、一方では糖尿病との戦いは、これからゆるやかに一生続くだろうから、忙しく規則的な生活の中にあって、こうしたちょっとイレギュラーでうるおいのある食事を大切にしようと思う。だからまた時々Epiに行くんだ!

 ちょっと待て!杏奈がいくらバイト代を稼いでも、親がこうして使っているんじゃ、杏奈に小遣いあげているのと一緒だな。でもおいしさを味わえる分だけやっぱり違うんだ。

1Q84を読みました
(注:多少のネタバレあり。先入観なしで小説を読みたいと思っている人には、読後にこれを読む事を奨めます。逆に、買って読もうかどうしようか迷っている人には、是非この感想文を読む事を奨めます。ネタバレは本質的なところで悪影響は与えていないと思います。) 

 久し振りに小説で本当にワクワクした。村上春樹氏は天才だと思った。読みながら、そして読み終わっていろんなことを考えさせられた。最新書き下ろし長編小説「1Q84」は書店が追いつかないほどのベストセラーになっているけれど、見かけ倒しとかではなく、内容的にも納得のいくものだった。
 とはいえ、この小説は、本来それだけ大勢の読者を獲得するような、いわゆる“大衆文学”などではない。この小説を理解するのは正直言って難しい。一番の原因はテーマの深さなのだが、それに関しては後で説明する。その前にまず立ちはだかっている要素がある。村上春樹氏の小説って、これまであまり読んだ事がないので分からないが、1Q84に関して言うと、いろんな要素が「全部乗せ」になっていて、ターゲットとする読者層をどの辺に定めているのか皆目見当がつかないという問題がまずある。

 実際この小説は、ハードボイルド的サスペンス風でありながら童話風。写実性に富んでいながら幻想文学。倒錯的なエロチシズムに満ちていながら純愛物語。ニヒリスティックでアナーキーでありながら宗教的って、なんのこっちゃ!
 認知症の父親との情愛や、自分の出生の秘密に触れるウエットな場面があるかと思うと、リトル・ピープルが「ほうほう」とはやしたてながら空気さなぎを作るディズニー的場面もある。「君の名は」的すれ違いに読者は胸を熱くする一方で、生涯この人だけという超純愛に胸を焦がす女主人公の青豆にもうひとつ共感を覚えられないのは、性欲を抑えきれず、男を漁りに街に繰り出す姿を見てしまうから。
 これだけのことを何もひとつの小説の中に無理矢理収めなくてもいいんでねえの?というのが正直な感想。

シュール・レアリスム文学
 まあ、こうしたとっちらかり方は、むしろ村上氏の意図するところのものかも知れないし、その意味では確信犯なのかも知れない。というのは、こんな支離滅裂なアイテムを共存させて不自然でなくいられるためには、もの凄い文章力が要求されるわけだが、村上氏の文章はそれを可能ならしめているのだ。しかも読み始めてから最後のページを閉じるまで、散漫な箇所は一カ所もない。もの凄い推進力をもって読者を惹きつけて離さないテクニックには驚くべきものがある。

 僕は、この小説は新しいシュール・レアリスム文学だと思った。先週僕は、映画「ウルトラミラクル・ラブストーリー」について語ったが、あの映画のラストシーンについて「シュールだ!」という意見を多く聞いた。でも、本当言うとあれは日本語で言うところのシュールかも知れないけれど、本来のsurrealismeとは遠く隔たっている。
 サルバドール・ダリのシュール・レアリスム絵画を成立ならしめているのは、あの鮮やかな写実性だ。surというフランス語は、単に「上に」という意味に過ぎない。その後のレアリスムという言葉があって初めてsurという言葉が意味を成すのだ。つまりダリの描写力ゆえに「現実と間違えてしまうほどリアルな世界」がそこに表現され、でもよく考えてみるとあり得ないという超・現実主義がsurrealismeの本質だ。いっとくけど変なものがシュールというわけではない。みんな勘違いしている。
 いやいや、シュールという言葉が単に“変なもの”を表現する日本語と化していることを今責めているのではない。これはこれで勝手に日本語になっていればいいさ。「ウルトラミラクル・ラブストーリー」のラストシーンは、その意味でシュールなんだ。奇妙そうで奇妙なのだから。
 それに反して、1Q84こそ本来的意味でのsurrealisme文学であると僕は言いたいわけだ。現実と間違えてしまうほどリアルで・・・・そしてあり得ない世界なのだから。

村上氏の文章
 村上氏の文章は、とても平易で読みやすい。これは僕が文章を書く時に心がけている事でもある。僕は難しい文章は嫌いだ。同じ事を表現するなら、なるべく分かり易く書いた方が良い。その点で村上氏の文章は理想的だ。
 自分と偉そうに比べる気もないが、僕と発想が共通する要素がもうひとつある。それは、この人は、文章というものに対してとても外国語的発想を持っているという点だ。僕が文章を書く時、無意識の内にドイツ語とか英語の構文を考えている。つまり主語が何で、直接目的語と間接目的語がどう組み合わさっているか考えながら書いている。「いつ、どこで、誰が、誰に、何を、どう行ったか」という事をきっちり確かめてから文章を組み立てる。時制の一致や定冠詞、不定冠詞の区別も思考上では行っている。
 でもそのままだと日本語としてはガチガチになってしまう。そこで必要に応じて主語や述語を抜いていく。日本語の場合、時制も構造も適当で、主語もわからないままのいい加減な言語だから、何も考えないで文章を作ると、ひとりよがりのわけの分からない文章になってしまう。それに僕は耐えられないのだ。
 その文章の明晰さから推測するに、村上氏もきっとこうした思考経路を経て文章を書いていると思う。まあ、いちいち表面意識で考えているわけではないかも知れないけど。

テーマは宗教
 さて、この1Q84というsurrealisme文学のメインテーマは宗教だ。オウム真理教裁判に足繁く通い、宗教というものが社会にどのような影響を投げかけていくのかつぶさに見届けたという村上氏は、それを題材にこの小説を書いたという。
 ただ、その本人の言葉は、あまり文字通りに取らない方がいい。確かに、閉ざされたカルト宗教を外側から見た視点と、内側からのリアリティとが描かれていて、オウム事件がなかったならば、この小説は生まれなかっただろうなとは思う。でも、それに対して何か結論めいたものを気負って書こうとしたわけでもないし、ドストエフスキーのような形で、宗教的テーマを読者に投げかけて問うているわけでもない。
 にもかかかわらず、この小説はもの凄く宗教的であり、とても深いあるものを探り当てている。その理由は後で述べる。

優良図書に絶対に選ばれない1Q84
 でも・・・でもねえ、だからこそ、もうちっとターゲットをとっちらかせないで小説を書いて欲しかったよ。一番困ったのはHな描写だ。宗教的な事を真面目に考えている人は、村上氏の表現しているテーマには惹かれるものの、あの不必要とも思える詳細なH描写に激しく抵抗してしまうのだ。テーマにまで届かないうちに本を途中で閉じられてしまったらもったいないのだ。
 僕は・・・・といえば、歳取ってきて人間が適当になってきたから、最後まで読めたが、それでも最初の方で青豆という名の主人公の女性が高校時代の親友とレズビアンの真似をした回想場面がいきなり出てきた時は、電車の中でひとりでドキドキしてしまった。左右をそっと見ながら本の閉じ方を狭くし、周りを気にしてコソコソ読んでしまった。
「別にエロ小説を読んでる変なおじさんでもないのに何でこんな後ろめたい思いをさせるんだよう!」
と、その瞬間作者を恨んでしまったよ。そんな場面が何カ所も出てくる。

 断言するけど、30代前半までの自分だったら、絶対に最後まで読めなかったな。僕は、世界で最も好きなオペラはワーグナーの「パルジファル」だけれど、20代の時は、第二幕のクリングゾールの魔法の園の場面を聴くだけでドキドキしてしまったんだ。「タンホイザー」のヴェーヌスベルクは論外。激しい嫌悪感をもよおし、親友の角皆君にレコードをあげてしまった。代わりに角皆君がピンと来ないというドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」をもらってゴキゲンだったけどな。こんな風に、当時の僕は超過敏だったのだ。それでもワーグナーは大好きだったのだけれど・・・・。
 そんなわけで、この小説はとても真面目なテーマを扱っていながら、残念ながら高校生の優良図書には絶対に選ばれないのだ。宗教人や教会関係の人達にも自信を持って奨めることが出来ない。残念だ!リトル・ピープルの空気さなぎの話だけだったら、小学校の優良図書にだって選ばれるし、絵本にだってアニメにだってなるのに、小学生にも奨められない。重ねて残念だ!

多層的な世界
 さて、さっき言いかけた、村上氏が探り当てているとても深いところのものとは何か?これから説明しようと思う。僕は、この世の中というものは、幾通りものステージがたまねぎのように重なり合っている多層的世界だと思っている。本当は、この言い方もちょっと違うのだけれど・・・・。分かり易く言うと、ゲームである目標をクリアするとそのステージが終了して一つ上のステージに移行するだろう。あんなようなものだと考えている。

たとえば僕が一生懸命努力して音楽に向かう。するとある時、これまでに分からなかった事が突然分かるようになる。分かってみると、今までどうしてこんな簡単なことが分からなかったのだろうと思うほどだ。僕たちは物理的には同じ音楽を聴いていながら、それぞれ全く違うものを知覚しているのだ。
 こうした体験を僕はこれまで数限りなくしてきた。音楽において最も顕著に表れてきたが、それだけではない。全てのことに関してだ。ある朝、目覚めてみると、これまでと違う世界を生きているのだ。自分はいつもの自分だし、自分を取り巻く人達も勿論同じ。ロケーションも全て同じ。でもステージが違う。まるで魂が脱皮したように、ひとつ上の知覚を得て、ひとつ上の感受性で全てのものを感じている自分がそこにいる。言っていること分かる?分かんないかもね。

 たとえば、僕は53歳で死ぬことになっていたけれど、本当はもう死んでいるのかも知れないのだ。別の世界では・・・・。でもその間にステージが変わったので、僕はもう以前の世界にはいない。だからもう、以前と同じ障害物は僕の前には現れないし、同じ問題は起きないし、同じ煩悩の中をぐるぐる回ってはいないのだ。これがお釈迦様が解脱と言っている事の本質だと僕は信じている。
 最近の話をすると、54歳の誕生日、すなわち3月3日以降の自分は、あきらかにそれまでとは別のステージを生きている。体も痩せて別人のようになったが、生活自体がそれまでと全く違うし、何より意識が違う。僕という個人の実体は存在の連続性を持っているが、僕に会って何かそれまでと違うと感じた人がいたら、恐らくその予感は正しい。同じ空間を共有していながら、僕だけ別のステージを生きているのだ。1Q84的に言うなら、僕にだけは月が二つ見えているのだ。

 こうした考えを持っている僕から見ると、1Q84の中で語られている事はもの凄くリアリティを持っている。1984年を生きていると思っていた主人公が、いつのまにか1Q84という別の世界に入り込んでしまったという設定は、僕にとっては100パーセント真実なのだ。ステージはそれぞれ違っても、みんな同じ世界に生きて同じ空気を呼吸している。でもある人には月が二つ見えていて、隣の人には見えない。
 月が二つ見えるというのは勿論比喩だ。こんな風に見え方が現実的に違ってくるならば分かり易いし、科学者も物理的に解明しようとするのだが、残念ながらそうはいかない。この世の中では、個人の覚醒は、本人にだけ分かるように隠されている。
「神が本当にいるならば、目の前に出して見せてみい!」
という人には永久に分からないようになっているのだ。

 この小説の真に画期的で独創的な点は、「不思議の国のアリス」のように全く違った世界に行くのではなく、同じ世界でそれが起こっているところにある。1Q84というタイトルがすでにそれを物語っている。僕は断言するが、村上春樹氏の意識はかなり高い悟りを得ている。それは、彼が音楽に造詣が深いということと無関係ではないような気がする。

 それにしても、疑問詞のつかない話し方をする不思議な美少女ふかえりにはめちゃめちゃ惹かれるね。こんな少女、どこかにいないかな。おお、ヤベエ!なんということを言っているのだろう。覚醒や解脱について真面目に語ったばかりというのに、その舌の根の乾かない内から・・・・。

これではまるで村上春樹ではないか・・・・・。



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