プロがうなるチョン・ミュンフンの「椿姫」

三澤洋史 

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眞木準さんの死
 ある朝、新聞を何気なく開いて、その片隅の記事に我が目を疑った。それは六本木男声合唱団倶楽部の副団長で事務局長でもある眞木準(まき じゅん)さんの死亡記事だった。

 ちょっと固まってから、僕は妻に力なく言った。
「ねえ・・・眞木さんねえ・・・・。」
「なあに?」
「死んじゃった・・・。」
「ええ?なんですって?」

 今、こういう風にパソコンで書いていても躊躇するのだ。
「いいのかな、書いちゃって?もし、これが何かの間違いであった場合、眞木さんにとても失礼なことになってしまうけど・・・・。」

 眞木さんは、「でっかいどう。北海道」などのキャッチ・コピーで有名なコピー・ライターだ。ダンディーなファッションとその甘いマスクで、これまで随分女の子を泣かしたのではないかと思うが、とても気配りのある優しい人で、大好きだった。
 三枝成彰ロクダン団長の一番の親友で、事務局長でもあることから、ロクダンの事務は眞木さんが一手に引き受けていた。僕も、ギャラの取り決めをはじめとして、他の団員達より接触はずっと密だったのだ。それだけに、もの凄くショックだ。当分立ち直れそうもない。

 僕が眞木さんに最後に会ったのは10日くらい前。でもロクダンの団員達は、日曜日に特別練習があって、元気な眞木さんと一緒に練習し、その夜中に心筋梗塞で急死したというから、僕よりもっとショックがダイレクトだろう。

 今は、こう祈るしかない。眞木さん、安らかに・・・・・って、ゆーか、まだこれはタチの悪い冗談にしか思えない。安らかに、なんて言葉を言う気持ちには・・・まだまだ当分なれそうもない・・・・・。眞木さーん!嘘だと言ってくれ!
 


プロがうなるチョン・ミュンフンの「椿姫」
 「椿姫」は何度もやっていて隅から隅まで知り尽くしているけれど、こんな新鮮な演奏は滅多に聴けるものではない。東フィルの6月の定期演奏会はチョン・ミュンフン指揮の演奏会形式「椿姫」。新国立劇場合唱団が頼まれていたので、僕が稽古をつけてマエストロに渡した。東京で3回、富山公演1回の演奏会。

 オーケストラ合わせでは、マエストロは省エネで、最小限の動きしかしないが、ここぞという時だけはもの凄いエネルギーを出す。でも、動きを大きくするとかではなく、あたかも太極拳や合気道でもするように内面的な圧力を高めることでオケからエネルギーを引き出すのだ。それを見ていると、凝縮されたアジア人的精神性を感じる。同じアジア人でも、日本人の指揮者はもっと合理的で、こういうタイプの人は僕の知っている限りいない。

 圧巻は、第2幕第2場の舞踏会の場面。恋敵の男爵との賭けに勝った大金を、アルフレードはヴィオレッタに投げつける。激昂して非難する合唱。このあたりから異常な高揚感があたりを包む。そこに現れる父親のジェルモン。この歌を支える弦楽器のピチカートは、楽譜上ではピアノの指定だが、マエストロ・チョンはあえてフォルテに変えて演奏させる。この処理はよくやられる方法で、勿論彼が始めてではない。でもマエストロ・チョンの手にかかると、まるで魔法がかかったみたいな緊張感となる。
 ヴィオレッタは、アルフレードの父親ジェルモンの説得によりアルフレードから身を引いたわけだが、それを彼女の心変わりだと誤解し、やけっぱちになっているアルフレードに真実を話すことが出来ない。その辛さ!こうしたヴィオレッタの心情をここまで見事に描き切った第2幕第2場を僕は知らない。マエストロ・チョンの心の中には、最初から最後までドラマの線が一本貫いている。所々、そのドラマが熱くたぎってくる。素晴らしい芸術家だ!

 主役3人の外国人歌手は、3人とも大きな声ではないかもしれないが、主人公達の内面的な心情の発露に優れ、アンサンブル能力も抜群だった。加えてそれ以外の脇役には全て、新国立劇場合唱団員が起用された。お馴染み、大森一英君、塩入功司君などをはじめとするメンバーが、立派にソリストとしても第一線で通用することを証明してくれたし、なによりも、この演奏会の成功がソリストも含めてアンサンブルの勝利であることを物語っていた。

 マエストロ・チョンの棒は、親切とは言い難い。
「みなまで言わすな。」
というもので、分かり切ったことは一切説明的に振らない。純粋に音楽的な動きに専念する。その棒の下で演奏会として成立させる音楽を奏でるためには、この作品を隅々まで知り尽くしている、「オペラの」経験が不可欠だ。僕は断言するが、マエストロの要求するレベルに答えるためには、我が国では東フィルと新国立劇場合唱団のコンビ以外には考えられない。基本的なことが全部自分達で出来るからこそ、マエストロの振りかけるスパイスが生きてくるのだ。

 勿論、百戦錬磨のマエストロのこと。もっと慣れていないオケや合唱を相手にしたら、あきらめてもっと説明的な棒になるのだろう。そして、それはそれで演奏会は成立しただろう。もうちょっと月並みでつまらない演奏となってね。ふんだ。合わせるだけの棒なんて、何の価値もないのだ。
 僕たちの側からするとね。欲しいのは、すでに知り尽くしたプロを納得させ、興奮させ、新たな気持ちで感動させる指揮者。マエストロ・チョンは、それを与えてくれるんだ。長年音楽家をやっていればいるほど、あるいはこちらが深まってくればくるほど、こうした演奏に巡り会う機会は稀になってくるのだ。でもあるんだね。こういう体験。

ああ、音楽家やっててよかった!

ノルウェイの森
(今回はバリバリのネタバレです。それに露出度満点です。どういう意味かって?まあ、読んでみて下さい。ミステリーものや推理ものでないので、ネタバレでも別にいいのでは・・・・。)

 時々僕は、自分がこの時代の日本に生まれたのは間違いだったのではないかと思う。そこまで思わなくても、少なくとも、この社会の中でひとり場違いな印象を持つことはしょっちゅうだ。特に「ノルウェイの森」のような小説を読んだ場合は・・・・。
 この小説は、どうやら大勢の支持と賞賛を得ているようなのだ。どうして?って思うんだけれど、そういう社会なのだから仕方ない。それでもね、インターネットにみんなが書き込んでいることを読んでみると、やはり賛否両論のようだ。よかった。みんなが声を揃えて大絶賛していたらどうしようかと思ったぜ。中には「涙が止まりませんでした。」という意見もあったが、それはそれで構いませんし、僕がそれに対して何をか言わんや、ですけどね。

 先週、村上春樹著の1Q84をあれだけ褒めておいて、今更ナンですが、はっきり言います。僕にはこの小説は全く理解できない!・・・・いや、難しい小説ではないんだよ。本人が恋愛小説だと言っているように、まあ恋愛小説の形をとって始まる。でも、これをうっかり月並みなロマンスだと思って無防備に読むととんでもないことになるのだ。実は恋愛小説などではない。良く言って官能小説、あるいはちょっと上品なエロ小説だ。1Q84よりもっと電車の中で読むのが恥ずかしいのだ。
 うっかり若い女の子が題名の素敵さにつられて買って読んでいると、すでに読んだことのある僕くらいのおじさんが、
「おっ、あの子ノルウェイの森読んでるぜ。やらしい・・・。」
なんて目で見るかも知れないから気をつけた方が良いよ。

 エロチックな表現が悪いわけではない。でもね、
「彼が私の乳房やら性器やらをいじりたいんならそんなのいじったって全然かまわないし、彼が精液を出したいんならそれを手伝ってあげるのも全然かまわなかったのよ。」
なんて無神経に言う女の子がヒロインの恋愛小説ってどうよ。
 おお!これだけ自分のホームページ内に書くのだって、とっても恥ずかしいぜ。ちなみに、これはほんの一部ですからね。もっと過激な文章に満ちているからね。とにかく、この文章を声に出して読んでみてよ。いかにリアリティがないか分かるよ。性器とか精液とかいう単語をあえて口に出して言う女の子って、どういう子なんだ?真面目な女の子はまず言わないし、一方風俗嬢なども性器とはあらたまって言わないだろうなあ。

 小説の後半で主人公が惹かれていく緑という女性は、

「私、ポルノ映画って大好きなの。今度一緒に見に行かない?」
と言って主人公の男の子をポルノ映画に誘う。
「ポルノ見てからお酒飲むの」と緑は言った。「そしていつものように二人でいっぱいいやらしい話をするの」
京都の山奥の療養所でヒロイン直子の面倒を見ていたレイコさんは、直子が自殺した後に主人公の所にやってきて、
「ねえ、ワタナベ君、私とあれやろうよ」
とセックスに誘う。とにかく出てくる女性がみんなそんな風なんだ。

 Wikipediaの村上春樹の項では、小谷野敦氏が村上氏の小説についてこう感想を述べている。
「巷間あたかも春樹作品の主題であるかのように言われている「喪失」だの「孤独」だの、そんなことはどうでもいいのだ。(…)美人ばかり、あるいは主人公の好みの女ばかり出てきて、しかもそれが簡単に主人公と「寝て」くれて、かつ二十代の間に「何人かの女の子と寝た」なぞと言うやつに、どうして感情移入できるか」

全く同感!

 喪失感や孤独感はたしかに小説内に漂っている。しかし、登場人物の喪失感、孤独感は、他者の痛みに対する無関心と表裏一体となっている。小説の中では主人公ワタナベの知り合いがどんどん自殺を遂げる。その理由はみんな不可解だ。その日まで明るく、どこも変わったところもないのに、その後突然自ら命を絶つのだ。
 でもね、人は理由なく自殺したりしないし、逆に言えば最後まで生きようとするものだ。それを理解してあげられなかった事に対し、小説内の登場人物達は誰も悔やんではいない。きわめて淡々とそれらの死は受け入れられ、物語が運ばれていく。
 直子は元カレであるキズキの死を悔やんでいるように見えるが、彼女さえもキズキを理解しようとする努力を、実は生前も死後もしていないのだ。傷ついてはいるのだけれどね。むしろ彼女の関心は自分の体のこと。自分の体が「濡れなかった」ことを気にしているようだが、そんなもの、本当に分かり合える関係を築いていれば、どうにでもなるものだと僕は思うんだけどな。
 好意を寄せているキズキの親友だったワタナベに対し、
「もし私が一生濡れることがなくて、一生セックスができなくても、それでもあなたずっと私のこと好きでいられる?ずっとずっと手と唇だけで我慢できる?それともセックスの問題は他の女の人と寝て解決するの?」
 こんな言い方をもし自分の彼女がしたら、僕だったら張り倒すけどな。張り倒さなくても、少なくとも怒鳴るけどな。
「俺の愛をそんな濡れるとか濡れないとか小さい問題で計るな!お前は俺の愛がどうゆうものかちっとも分かってない!」
とね。
人間、時には怒ることも必要だ。本当に真剣だったらね。でも、この小説の中でワタナベはこんな返事しか出来ないんだ。
「僕は本質的に楽天的な人間なんだよ」

ワタナベを思いっきり張り倒したい。ついでに村上春樹も張り倒したい。

 その直子も自殺する。世の中には良い子と呼ばれる人間がいる。他人を心配させまいとして、自分から先に気を遣い、
「大丈夫だからね。」
とふるまってしまう人がいるねえ。それで他者は、
「世話のかからない人だ。」
と思って心配するのをやめてしまう。でも本人は、いろんなことを他の誰よりも敏感に感じ、傷つき、トラウマになっている。

 直子の自殺にリアリティを与えようとしたら、主人公ワタナベの生き方の甘さと、それがどう密かに直子を傷つけていくのか、そのプロセスを描くべきだ。ワタナベは直子と会ってきた直後に緑と会い、後半しだいに親密になっていく。永沢という友人と夜の街に女漁りに繰り出して行って、不特定多数の女性とゆきずりの関係を結ぶ。直子のような女の子だったら、そんなことは見なくても聞かされなくても女の勘で分かるのだ。
 ワタナベという男の子はどういう人間か?この人は自分だけをかけがえのない存在だと生涯思い続けてくれるのか?自分を究極的に幸せにしてくれるのか?それとも雰囲気だけで流されていくような男なのか?そうやって吟味した結果、直子はかなり早い時期に確信しているのだ。ノーと。駄目だこの人では・・・・と。
 ワタナベが、次に直子と会った時に、誰とも寝なかったと言ってみたって、何の慰めにもなりゃしない。人は幻滅や失望するだけで生きるエネルギーを奪われるものだ。可哀想な直子・・・・・。
 また、自分の相談相手になってくれているレイコも直子は信じていない。レイコが自分が死んだ後にワタナベと寝るようなことになるのでは、とすでに予感していたとすれば、これは直子にとっては辛いだろうな。誰のことも信じられないだろうな。

 こんな風に、直子は周囲に対してすでに深い失望感と喪失感を手にしている。その心の傷はもはや癒せるものではないどころか、生きていくだけでどんどん深くなっていくのだ。この彼女の心の闇を描かないのでは、軽薄な小説と言われても仕方ないなあ。
 ワタナベは、そうした直子の心情を全く理解出来ないだけではなく、緑にも、直子のことについて「複雑な事情なんだ。」と言うだけで、きちんと話そうともしない。一見、直子の事をおもんばかって・・・とも理解出来そうに思うが、実はとても卑怯で狡いと思う。つまり彼は、誰とでもきちんと向かい合っていないのだ。もう、腹立つな、こいつ。

小説中には、ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」やマイルス・デイヴィスの「カインド・オブ・ブルー」が出てくるけれど、これらの名盤が汚れるような気がしてならない。ムードで使うな!こんな名盤を。

 村上氏の小説には、必ずゆきずりの愛が出てくるが、こうした関係を結べば結ぶほど、人は自分の精神を傷つけるのだ。少なくとも一度ゆきずりの関係を結ぶごとに、人間不信が深くなるのだ。将来誰かと本当に愛し愛される関係になったとしても、自分の伴侶がこうしてゆきずりの欲望に身を任せるかも知れないと思うと、相手を信用出来ないよな。現に今の自分がそうしているわけだから。これこそ救いようのない絶望なのだよ。喪失感や孤独感は、こうした他人への不信感から生まれ出てくるものだろう。
 性は、人間を最高の幸福へと導くものであると同時に、強姦などの極端な例を出せば分かるが、人間の心の奥深くにもの凄いトラウマを与え得る恐ろしいものでもある。だから性の与える裏切りや嫉妬は激しいのだ。宗教が与える善悪の価値観に安易に従うことが全てではないけれど、何故善悪というものが生まれたのかというと、傷つく可能性からなるべく遠ざかろうという昔の人の知恵のような気がするのだ。

 こんな風に「ノルウェイの森」は、僕をこれほど怒らせる。別の言い方をすると、小説を読んだだけで、これだけ腹を立たせる事が出来るんだから、やはり村上春樹氏はたいしたものだと思う。これは冗談ではなくて本気で言っている。文体はきれいだし、先週も言ったように文章の構成は外国語っぽくて論理的だ。そこが村上氏の新しさであることは否定しない。
 小説中、一番感動した場面がある。それは病院のシーン。死期の近い緑の父親は、看病するワタナベがかじるキウリがあまりうまそうなので、キウリを欲しがる。この場面は何故かウルッとくるなあ。1Q84もそうだったけれど、こうした老人とか老いとか病気とか死に関わるシーンでは、村上氏の文章は独特の静けさと透明感に満ちている。こういう点に僕は、村上氏の死生観を感じる。というより“死への親近感”と言った方がいいかな。これが、彼の小説に深みを与えているのだ。
 でも「ノルウェイの森」で、緑の父親とのシーンしか胸を打ちませんでしたと感想を述べたら、村上氏はどう思うかな?



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