衝撃作トスカ

三澤洋史 

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フランス語に寄り道
 イタリア語を勉強していると、フランス語とよく似ているため、
「これってフランス語では何ていうんだったっけ・・・・。」
と思ってフランス語を参照したくなる。で、気がつくとイタリア語を忘れてフランス語に没頭している。

 我が家では、長女の志保が帰国したが、今回3ヶ月半のフランス滞在の間に、彼女はリヨンの語学学校に通っていた。上級クラスに入って条件法、接続法などを勉強していたという。彼女は、もう何も問題ないくらいにしゃべるのだが、文法に関しては初めてのことも多かったらしい。
 逆に僕は、ろくにしゃべれもしないくせに、10年以上前、ソルボンヌ大学夏期特別コースに行った際、中級のクラスに紛れ込んでしまい、文法だけはガシガシやったので、条件法、接続法はそれなりにマスターしている。
 志保がパリに留学したての頃は、ちょうどダブリンからの帰りにパリに寄った僕が、彼女の語学学校の手続きをしてやったりして、
「おお!フランス語の出来るパパって、頼もしい!」
という羨望の目で見られたりもしていたのだが、今や、フランス語に関して、同じレベルで話が出来るのは、条件法、接続法くらいのものだ。さみしー・・・・。

接続法
 志保のような若者、特に学生が向こうで日常生活をしている場合、接続法など使えなくてもいっこうに差し支えない。現に僕も、ベルリン留学時代、学生同士の会話ではドイツ語の直説法だけで何の不自由もなかった。
 でも、バイロイト音楽祭で仕事した時、周りの人達も会話にさりげなく接続法を忍ばせているし、自分も使えた方がいいなと思う機会が出てきた。自分が年取ってきたこともあるけれど、職場というのは学生とは違って、いろんな身分の人がいるし、いわゆる社交辞令というものも必要な世界だ。
 で、バイロイトに行ってから、ちょっと本気出してドイツ語の接続法を勉強して、自分から使うように心がけてみた。すると、まるで日本語をしゃべっているみたいに、いろいろなニュアンスが出せるようになることが分かったし、相手の反応も明らかに違ってきた。
「お、この日本人は、私達の人情の機微ってものを知っているんだな。」
という目で見られるのだ。
 そんなわけだから、接続法などは覚えておいた方がいい。でもねえ、それは直説法が自由自在にしゃべれるようになってからだな。接続法だけ出来てもねえ・・・・。ということで、僕のフランス語はとても偏っている。志保の順序の方が正しい。

優れたフランス語教材
 先日、「椿姫」富山公演のために富山へ行ったが、行き帰りの電車の中はずっとフランス語の勉強をしていた。イタリア語をやっていたはずなのに、フランス語が気になって、中級用の教科書を買ったら、面白くて離れられなくなってしまったのだ。ではこの教科書をマスターするまで、ひとまずイタリア語は中断しようと、集中的に勉強した。
 このようにフランス語には優れた教科書が多い。本屋に行ってもイタリア語とは量が違う。ラジオ講座でも、イタリア語講座を聴くためにラジオを持ってタンタンの散歩に出ているのに、肝心のイタリア語講座は、特に月曜日から水曜日の初級などは、
「人をナメとんのか?」
と思うくらい超テキトー。それに引き替え、フランス語講座は、初級といえども中身がぎっしり詰まっているし、木金の中級に至っては、
「お見事!」
と褒めてやりたいほどカリキュラムがしっかりしている。なので、早い話、フランス語ばかり上達している。だめだこりゃ。

日本語~この甘えの構造
 言葉というのは、どれだけ物事を限定できるかという面と、どれだけ曖昧なものを残してニュアンスを伝えられるかという面との、相反する二つの要素がある。日本人は、
「日本語は、欧米の言語よりもニュアンスに富む言語だから、外国人には日本語の良さは分からないだろう。」
と思っているふしがあるが、全く甘ったれた考えだ。
 僕は、残念ながら日本語という言語を言語として決して高くは評価していない。欧米言語の接続法は、日本語のニュアンスより、ある意味ずっと優れている。つまりニュアンスはあるが曖昧ではないのだ。日本語は、“自分からは何も表現していないのに”聞き手に自分が言葉で言っていない事への理解を要求する、きわめて甘えた言語だと思う。言語というよりも言語文化と言った方がいいな。
 それでもみんなが常に共通認識を持ち、100%分かり合えていればそれでもいいのだろうが、実際には気持ちの行き違いがいつも起こっているではないか。「京都のぶぶ漬け」の例を出すまでもなく、
「あの人は察してくれない。」
と思う行き違いが多いというのは、言語文化としての欠陥だというのが僕の考え方だ。

「行く?」
「行く!」

 何だ、この言語は!主語もないし、活用もしてねーぞ。誰が誰に訊いてるんだ?全て「文脈から判断」かよ。分かんねーよ。そこへいくと、ドイツ語、フランス語はいいな。主語も言うし活用もする。イタリア語は主語は言わないけれど、きちんと活用する。時制も細かい。実に論理的。
 僕は、こうした論理的な言語を、これからの日本人は日本語の他にひとつ持つべきだと主張したい。そうすれば、西洋人がどうしてこういう場合にこういうリアクションをするのかが、よく分かるようになる。

 よく遭遇するのだ。西洋人が思いもかけないような行動するので、あわてふためいて過剰な反応をしてしまう日本人達の姿を・・・・。放っておいたり無視したりするべきの時も沢山あるし、屁理屈を見抜いて、きちんとした理屈で対応すれば何の感情のもつれも生まないのに、最後には西洋人に馬鹿にされて終わる話し合いとかね。全て、日本語的思考法の中だけに留まっている事から生まれると思うよ。日本人は、語学が出来ないのではなくて、語学が発想の違いを生むということに無関心なのだ。

 まあ、そんなこと言っている間に、イタリア語を再開して、接続法などまだ使えなくていいから、直説法で、
「こんにちは。お元気ですか?」
の後にきちんと細かい会話が成立するように努力しなければ・・・・。 


衝撃作トスカ
 新国立劇場では、高校生のための鑑賞教室の練習が進んでいる。今年の演目はプッチーニの「トスカ」だ。指揮は沼尻竜典(ぬまじり りゅうすけ)さん。彼は僕よりずっと後にベルリンに渡り、ベルリン芸術大学で僕と同じラーベンシュタイン教授についている。今回いろいろ話して初めて知ったのだけれど、彼は中学、高校と合唱部に所属して合唱少年だったのだそうだ。
 さて、久し振りに「トスカ」というオペラに触れて衝撃に近いものを受けた。今日は「トスカ」の響きの新しさと、機能和声のことについてちょっと語ってみたい。

クラシック音楽を支える機能和声
 わずか4年しか離れていないにもかかわらず、1896年に初演された「ラ・ボエーム」と、1900年に初演された「トスカ」との間に横たわっているギャップは果てしなく大きい。どちらが傑作とかそういう問題ではない。音楽史的な意味においてだ。

 僕たちがクラシック音楽と呼んでいる分野の音楽が、ポップス音楽などと決定的に違う点がひとつある。それは、ただ単に洒落たメロディーや格好良い和声があればいいというものではなく、そもそも音楽を、ある種の建築物のように捉える考え方だ。その建築物は重力の影響を受けている。その重力の根源は・・・・長い間ドミナントの力が担ってきた。
 
 ある音が鳴る。それに対して完全5度上の音が鳴る。すると、そこに緊張感が生まれる。ドに対して、その上のソの関係だ。逆にソが鳴ってから、完全5度下のドが鳴った場合、ある種の安堵感が支配する。これは理屈ではなく、音というものが作り出す根本的な性質だ。
「俺はそう感じないぞ!」
と言われれば仕方ないが、クラシック音楽のプロになろうとする人は、まずこれを感じるようになってもらわないと話が先に進まない。この場合、ドはトニカと呼ばれ、ソはドミナントと呼ばれる。トニカはホームベース。ドミナントは、ある意味トニカにとって最大の敵。機能和声は全てこの二つの力学的関係を元に成り立っている。

 機能和声というものは、ルネッサンスまでの「旋法を中心とした考え方」に代わって、バロック期に確立されたものだ。古典派のソナタ形式では、ドミナントの持つ力の可能性が徹底的に追求された。だからソナタ形式では、主題提示部の第二主題は5度調になるのだ。展開部では、ちょうどジェット・コースターが急上昇したかと思うと急降下するように、主題やモチーフは自由自在に転調を繰り返し、ドラマを盛り上げていく。そのモチーフを陰で操っているのは、和声であり、それは5度の重力の支配なしにはあり得ないのだ。
 ロマン派になると、5度そのものから、むしろ和音の連結が作り出す色彩感の変化に、作曲家も聴衆も興味が移ってくるようになるが、機能和声の枠組みは決して崩れてはいない。

トスカの新しさの秘密
 さて、前置きがとても長くなったが、プッチーニも「ラ・ボエーム」までは、この機能和声の中にいた。ところが、「トスカ」までの4年間に、彼は恐らくフランス近代音楽を知る。そして、それから後の「蝶々夫人」や「トゥーランドット」などで聴かれる新しい音楽は、発想として機能和声から離れているのだ。

 機能和声の崩壊は無調音楽につながるが、機能和声の崩壊イコール無調ではない。むしろ音楽史的には、シェーンベルクの12音技法と同じくらい革命的なのが、ドビュッシーに代表される“旋法による作曲法”なのだ。「トスカ」の音楽は、その意味ではオペラにおける新時代の到来を告げる。

 冒頭の変ロ長調、変イ長調、ホ長調の和声連結からして、これまでの機能和声とは全く違う音がする。第1幕が始まってからすぐにカヴァラドッシによって歌われるアリア「妙なる調和」の前奏には、ラベルが「ボレロ」などで響かせたようなさわやかな平行5度が聞こえる。ここまで来ると、和声学では初歩的禁則である連続5度なんて、もういっくらやっても構わなくなるのだ。つまりもう何でもアリになってくるのだ。
 きわめつけは、第1幕を締めくくるテ・デウムのオスティナート(同じ音型をしつこく繰り返すこと)だ。コードネームでいうところのFm7とBb7がこれでもかと繰り返される。こんなのブラームスが聴いたら、どう思うのだろう。和声は始まったら(ドミナントに向かって)発展しなければならぬ。主題は展開し変奏されなければならぬ、と言っていた彼のことだ。リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」結尾のロ長調とハ音の交差にすら違和感を覚えていたのだからな。
 ずっと後で、コードによるジャズに対して、マイルス・デイヴィスがモード・ジャズを打ち出したろう。あの発想の源泉がここにあるのだ。調性は依然としてある。けれども発展しない和声。もはや音楽はドミナントには向かわない。
 機能和声のがんじがらめになった法則から解放された音楽は、ここにおいて真の自由を獲得したとも言えるが、一方で、無調を含む混迷の時代の幕を開けたとも言える。でも12音技法と違って、旋法による音楽は、アルヴォ・ペルトやグレツキー以降再び蘇り、今日においてもまだまだ大きな意味を持っている。

プッチーニ最大の傑作
 ああ、それにしても「トスカ」というオペラは素晴らしいなあ。僕は「ラ・ボエーム」も「蝶々夫人」も好きだけど、一番の傑作はといったら、やっぱし「トスカ」で決まりだな。
 ナポレオンが束の間敗れた時の、ローマの民衆の喜びをうまくドラマに盛り込み、そこに残忍きわまりないスカルピアという人物が緊張感に満ちた愛憎劇を織りなす。プッチーニの天才的な腕の冴えが、圧倒的な音楽の力でもってそれを支える。どの幕も良いけど、特に第2幕が圧巻だなあ。
 全ての箇所について、その素晴らしさを指摘したいけれど、そんなことしたら何ページに渡るか想像もつかないし、第一そうまでしたって、音楽の素晴らしさを、こんな文章で伝えることなんて出来やしない。

そうなんだ。こんな音楽の前には、どんな言葉も無力なのだ。
だからもう黙ってます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

プハー!
ハア、ハア、ハア!
あー、苦しかった。
やっぱ、「トスカ」は凄いぞおおおおおおおおお!



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