若杉さんのこと

 

三澤洋史 

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子供オペラよ、永遠に!
 子供の反応って本当に面白い。毎回受けるところが違うし、大人が思いもつかないところで喜ぶんだ。逆に大人がうっとりとする愛の二重唱などは、どうも退屈なようだ。でも、そんなところは、あらかじめ同時進行で森の小鳥などがコミカルな動きをして子供達の注意を惹きつけている。だから大人も子供も楽しめるような作品に仕上がっているのだ。
 今年は、芝居と音楽とのタイミングをしっかり合わせて、音楽的ドラマとしての内容を深めた。その部分は確実に子供達に伝わっていて、とても集中してドラマの中に彼等が入っているのが感じられる。

 新国立劇場子供オペラ「ジークフリートの冒険」は今日が千秋楽。まさに千秋楽で、来年は子供のためのバレエが予定されているので、この次いつこれが国内で上演されるかメドはたっていない。当分は、「ジークフリートの冒険」を見たかったら、ウィーン国立歌劇場かチューリッヒ歌劇場に行くしかないという状態になる。

 今年はトヨタが協賛から抜けて、名物である冒頭のトヨタ・ロボットが登場しなくなった。そこで、ウィーンやチューリヒでもやっているように森の小鳥が案内役を務める。会場の子供達に、悪者がノートゥンクという大切な剣を奪いに来たら「大変だ~!」と叫んで、それを阻止するようにお願いしている。やはり生身の人間って凄いなと思ったのは、小鳥の案内がロボットと違ってインターラクティヴなので、子供達の反応が全く違うのだ。小鳥の言うことを良く聞いて、子供達は元気な声で立派に剣の見張りをしてくれる。あまり優秀なので、その声に威圧されてファフナーが剣を取れない。
「みんな、この剣を取らないと、このオペラが始まらないんだよ。だからお願いだから取らせてね。」
とファフナーが子供達にお願いするような状況に追い込まれている。
 ここで一気に子供達の心を掴んだものだから、今年の「ジークフリートの冒険」公演は例年にない盛り上がりを見せた。我々演じる方もヴァージョン・アップしているが、今年の一番の主役は、観客である子供達だ。
 素晴らしいな。子供達のエネルギーって!こうした活動から僕は離れるべきではないな。新国立劇場でやってくれなくても、僕は子供のための作品を作り続けていこう。さしあたって、来週は群馬でNOAHがあるしな。

さあ、これから千秋楽に行ってくるぜ!子供オペラよ、永遠に!

若杉さんのこと
 その時代を動かしてきた人が亡くなるごとに、ひとつの時代が終わったと思うが、今回くらいそれを痛切に感じたことはない。この人からは本当にいろんな事を教わった。僕の指揮の恩師は山田一雄先生であり、この先生なくしては僕は指揮者というものが何をするものなのかも分からなかったし、どう手を動かしたらいいかも分からなかった。でも、僕が指揮者として仕事をし始め、特に二期会を中心としてオペラの世界に入ってからの実践の場での先生といったら、若杉弘(わかすぎ ひろし)さんをおいて他にいない。

棒を見なくていい
 80年代後半、二期会「ワルキューレ」で若杉さんの元で副指揮者を務めた。そのオーケストラ練習に立ち会った時の印象は鮮烈だった。その頃の指揮者は桐朋学園系の人が多く、棒は確かに明快なのだが、「棒に合わせて下さい。」というばかりで、どこをどうしたらいいかという具体的指示を出せる人は少なかった。
 いわゆる斉藤メソードというものは、練習を止めたり言葉で説明したりという無駄な時間をなるべくはぶいて、棒で全てを表現することが出来るような、指揮法としては完璧なメソードなので無理もないのだ。
 その反対に若杉氏の練習は、オーケストラを止めることも厭わなかったし、必要とあらばしっかり時間をかけて楽員に言葉でいろいろ説明をしていた。それを喜ぶ楽員と嫌がる楽員とが半々くらいの割合でいた。合わせるのが困難な箇所にさしかかると、通常の指揮者だと、今こそバトン・テクニックの見せ所とばかりに華麗なる棒さばきを披露するのだが、若杉氏は平気で音楽を止めて、
「それではヴィオラ以下の弦楽器とホルンだけお願いします。」
と言って演奏させた後、こんな事を言う。
「ほら、これが伴奏形なのです。これらの人達は中でお互い合わせてね。それで、メロディーを演奏するヴァイオリンとフルートは、この伴奏の上に乗って自由に音楽的に演奏して下さいね。あまり真面目に棒なんか見なくていいから。」

 指揮者が棒を見なくていいとは一体どういうことだ?僕は驚いてしまった。でも次に音楽が始まると、伴奏に乗ってメロディーがとても表情豊かに歌っているではないか!一方、伴奏部を受け持っている声部は、メロディーの“ゆらぎ”にあわせて実に柔軟に伴奏をしている。
 なあるほど。万能に見える指揮者といえども、旋律と伴奏を同じ動きで振るなんて出来ないのだ。音楽の一番おいしい部分は、指揮者が作るのではなく、奏者同士が感じ合い、聴き合って演奏するしかない。過度な棒への依存は音楽を硬直させるだけなんだ!
「さて次はクラリネットが対旋律を吹いています。先ほどの伴奏とクラリネットだけお願いします。」
するとクラリネットも「指揮者に合わせて演奏させられる」のではなく、自主的にのびのびと音楽を奏でている。こうして、オーケストラのみんなが自分の役割を理解し、自分と合わせるべき奏者と直接合わせ合い、生き生きとして有機的な演奏を行うことが出来るようになった。

 僕は「目からうろこ」の想いだった。オーケストラといえどもアンサンブルなのだ。指揮者が指揮者であることを超えて、本当の音楽家であったなら、オーケストラが内部で極上のアンサンブルを作り上げるための手助けをするべきなのだ。でも、指揮者はどうしても自分が指揮してオーケストラを合わせることにこだわってしまう。それが指揮者の煩悩だ。その煩悩から解脱して初めて本当の指揮者となるのだ。僕は、ベルリン留学時代を思い出した。そうだ!カラヤンの棒こそ、そんな棒だった!そして、それこそがヨーロッパに脈々と伝わる本当の指揮法なのだ。振り返って国内を見渡してみると・・・・唯一このヨーロッパの伝統を受け継いでいる人がいる。若杉さんだ!若杉さんこそ、まさに指揮者を超える指揮者だ!

「すごく勉強になります。僕はああいうやり方がとても好きです。」
と僕は休憩時間に若杉さんに言いに行った。こんなチンピラ副指揮者の言うことなど鼻にもかけまいと思っていたけれど、僕はあまりに感動したので言わずにはいられなかったのだ。そうしたら意外と子供のように喜んでくれた。
「いやあ嬉しいなあ。同業者に言われると、ことの他嬉しい!」
 彼のヨーロッパ的アプローチは、当時まだ日本のオケの中に浸透しているとは言えなかった。人が向いている方向と逆のことを行う者は孤独だ。特に指揮者というのは孤独の代名詞みたいなものだ。だから若造の僕の言葉でも嬉しかったのかなと今では思っている。それからだ、若杉さんが好んで僕を副指揮者として使ってくれるようになったのは。

若杉塾
 若杉さんは努力の人だ。端で見ていていつも思っていたけれど、本当に良く勉強していた。スコアの勉強は指揮者だから勿論だけれど、それだけではなく、その作品の生まれた背景や、作曲家の心情、その作品に託した想いなどくまなく調べ上げ、歌手達や僕達アシスタントに分かり易く語ってくれた。だから僕たちは若杉さんの元に好んで集まった。端から見たら若杉塾という感じだったろう。
 二期会では、「ヴォツェック」やワーグナーの楽劇のような難しい作品になると、練習に半年はかけて、ゆっくりほつれた糸をほぐすように作品に向かっていった。まさにその未知の作品の勉強会という感じで、みんな若杉さんの導きによって、公演を迎える頃にはいっぱしのエキスパートになっていたものだ。こうした日々が今となってはなつかしい。良き時代だった。

最も近かったびわ湖時代
 大津にびわ湖ホールというオペラ劇場が出来るという話は聞いていたが、僕がそこの専任指揮者に選ばれるとは思ってもみなかった。芸術監督の若杉さんが僕を指名してくれたのだ。僕はまだホールが建つ前からアドヴァイザーの一人として関わり、ヘルメットをかぶって工事現場を視察し、控え室のレイアウトなどについてアドヴァイスをしたりした。

 びわ湖ホールは、16人の選び抜かれた歌手達による声楽アンサンブルを有している。ソリストとしても立派に歌え、16人で数々の演奏会やオペラ公演もこなす希有の団体だ。この声楽アンサンブルの創立には、オーディションから深く関わった。まず本審査が始まる前、驚くほどの数のMDが僕の自宅に届いた。二百個以上あったと思う。これを全部聴いて本審査を始めるのにふさわしいレベルの人達を選抜しなければならない。気が遠くなるような仕事だったが、反面、若杉さんが僕の判断力を全面的に信頼してくれていると思って限りなく誇らしかった。
 そしてまるでコンクールのようなレベルの高いオーディションを経て、声楽アンサンブルの初代のメンバーが確定した。そのメンバーと共に、びわ湖ホールが正式に開場する数ヶ月前から、レパートリー作りと称して、本番のあてのない練習が開始した。曲は若杉さんと僕が相談して決めて、練習は全て僕が任せられた。

 びわ湖ホール時代ほど僕が若杉さんと近かった時代はない。僕は若杉さんの片腕となって全力で彼をサポートしたし、若杉さんも僕のことを信頼してくれて、いろんなことを任せてくれた。
 思い出すのは、よく琵琶湖ホテルのバーに連れて行ってもらった事だ。若杉さんはウィスキーを好んで飲んでいた。僕がビールばかり飲んでいるので、
「三澤君、こちらに来たら山崎のウィスキーを飲まなくっちゃ。僕はね、ソーダ割りが好きなんだ。一緒に注文するから飲みなさい。」
 僕は、恥ずかしいんだけど、ウィスキーの味というのは今日に至るまでよく分からない。ビールよりも手っ取り早く酔っぱらえるので、酔いたい時には便利だなと思うだけだ。でも、若杉さんに勧められて飲んだ山崎のハイボールはうまいと思った。
 見ていると、若杉さんはどんどんお代わりしてどんどん飲む。うひゃあ、とてもついていけない。さらに、
「部屋にボトルが一本あるから、これから飲み直そう。」
と言う。
「す、すみません。もう寝ますので、今日のところは勘弁して下さい。」
と言って引き上げたものだ。

びわ湖を離れて
 2001年。僕は新国立劇場合唱団の指揮者になることをきっかけに、びわ湖ホールを離れることになった。新国立劇場には、僕ではなくむしろ若杉さんの方が関わりたかったに違いない。1997年の新国立劇場開場記念公演「ローエングリン」を指揮した若杉さんは、日本を代表するオペラ指揮者として芸術監督の依頼がいつ来ても不思議はなかった。そこへ僕が、若杉さんからあれだけ権限を任せられたびわ湖ホール専任指揮者の地位を放り出して、一足先に新国立劇場に乗り換えたわけだから、若杉さんは僕に裏切られたような気持ちになったのかも知れない。
 現に、新国立劇場の外で彼のアシスタントの仕事を何度もしたが、びわ湖ホールを離れてからは明らかに接し方がよそよそしく、びわ湖時代のような密接な信頼感を示してくれることはなかった。若杉さんと一緒に仕事すること自体は楽しかったが、僕には彼のよそよそしさが毎回悲しかった。勿論、悪いのは僕なのかも知れないが・・・・。でも、わざわざあやまるのも不自然だしねえ・・・・。これは後から聞いた話だが、僕がいなくなった後は、年に一度のびわ湖ホール・プロデュース・オペラでは、東京オペラ・シンガーズと声楽アンサンブルなどで構成する合唱に、あえて合唱指揮者を置かず、若杉さんが自分で面倒を見ていたそうだ。やはり僕が去って、彼にいろいろ負担をかけてしまったのだ。

 若杉さんと僕の、なんとなくわだかまりのある関係に再び変化が見られたのは、彼が新国立劇場芸術監督に就任することが決まった後のある日の事。劇場内のプロデューサー達を交えて、あらためて新芸術監督と音楽スタッフの顔合わせ会合が開かれた。僕の事に話題が及ぶと、彼は開口一番、
「この人がびわ湖からいなくなってしまって、僕は本当に迷惑を被ったんですよ。その後大変だったんだから。」
と真顔で言った。
「申し訳ありませんでした。」
と僕はあやまったが、そのやりとりを聞いていたチーフ・プロデューサーはあわてて、
「まあまあまあ。それでもこうして若杉さんも今は新国立劇場にいらっしゃることになったんですから、おあいこみたいなもので、もういいではありませんか。」
「それもそうだね。あっはっはっは!」
 その日をきっかけに、二人のわだかまりは徐々に解消されてきたように思う。お互い東京にいると、地方にいる時のように気楽に飲みに行くというわけにもいかないが、実際に若杉さんの下で働くようになって顔を合わせる機会も増えてくると、彼がまた僕を信頼して仕事を任せてくれているのが感じられて嬉しかった。

変化
 ところが僕は、しばらく間近で仕事をしていない間に、彼のまわりに起こっていた変化に気がついていた。勿論年齢を重ねたということもあるが、それだけではなかった。かつての若杉さんはもっと思考がポジティブだった。先ほども述べたように、歌手達や音楽スタッフ達を自分の周りに集めては、いろんな話を聞かせてくれた。そんな時の若杉さんはとても陽気で社交的だった。
 ところが今の彼は昔よりもずっと気むずかしくなり、練習が終わると自分の部屋に引きこもってしまい、なかなかコミュニケーションを取る機会が取れない。体調が思うようにいかないのでは?と誰しもが思った。でも口に出す勇気のある者はいなかった。

 そうした危惧は、「軍人たち」で現実のものとなった。端で見ていると、彼はまるで「夕鶴」のつうが、自分の体から羽根をむしって機を織るように、その身を削って練習に賭けているように見受けられた。練習前後の休憩時間の雑談タイムは二度となく、だたちに休憩室に引きこもってしまう。たまに喫煙室でたばこを吸っている姿を見かけたが、その姿は極度に憔悴していて、誰も話しかけることが出来なかった。
 「軍人たち」は大成功に終わった。若杉さんのこの公演に賭ける想いはみんなに伝わって稀に見る名演となった。本番中のモニターに映し出される若杉さんの指揮姿には凄絶なるものが感じられた。
 でも千秋楽の公演が終わった直後にカーテン・コールを受けるために舞台袖に現れた彼の姿が僕には忘れられない。舞台スタッフが用意した椅子によろめきながら座り、もうすぐ指揮者が舞台上に登場しなくてはいけないのに、
「腰が痛くて立てないんだ。」
と言いながら顔をしかめて痛みをこらえていた。その姿は本当に痛々しかった。
 それでも最後の力を振り絞って彼は舞台に出ていった。割れるような喝采とブラボー・コールを浴びて戻ってきた若杉さんは、もはや精根尽き果てたという感じだった。僕を初めみんなが、
「お疲れ様でした!」
と声をかけたが、若杉さんは、誰とも視線を合わせることなく、腰を不自然にかがめたまま、ゆっくりとひたすら楽屋をめざして歩いて行った。

午後のコンサート
 その後の「ペレアスとメリザンド」が指揮出来たのはまさに奇蹟という他はない。でも、その練習中に若杉さんは、その後の演奏会を軒並みキャンセルし、少なくとも九月までは腰痛の治療に専念すると宣言した。その演奏会の中には、僕が急遽代理で指揮した東フィル「午後のコンサート」も入っていた。

「午後のコンサート」は、一時はお話しも含めて全て僕が代理で行う事になっていたが、演奏会の4日前に、体調をやや取り戻した若杉さんが、お話しだけはやると言い始めて、僕は指揮に専念することが出来、正直ホッとした。
 本番では、オケのどまんなかに席が設けられ、若杉さんは曲の合間にそこからお話しをした。つまり僕の指揮は、まるでレッスンを受けるように真ん前から若杉さんに見られることになってしまう。
「うわあ、やりずらい!」
と思ったが仕方ない。
 でもそれは結果的には良かったと思う。というのは、僕の指揮について彼からいろいろアドヴァイスを得たのだ。今から考えると、それは最後のレッスンだったのだ。その日の若杉さんは、とてもやさしかった。演奏会が終わって、妻と二人であらためて挨拶に行くと、いろいろ細かいサジェスチョンをくれた後で、彼はこう言ってくれた。
「考えてみると、君がオーケストラを振っているのをこうしてあらためて見るのは初めてだね。君の棒はとても明快だ。無駄な動きがなく、それでいて表現したいことがきちんとあらわれているよ。とてもいい。」
 それが若杉さんの僕に対する最後の評価だった。僕は、その瞬間に若杉さんとの間のわだかまりの最後の一点が晴れたと思った。これからは、以前のように完全な信頼感に支えられて一緒に仕事出来ると思った。おそらく若杉さんもそう思ってくれていたに違いない。

 それが僕が若杉さんを見た最後だった。そしてこの訃報だ。本当にかけがえのない人を失った。この悲しさは言葉ではあらわせない。若杉さんが長年のキャリアの間に培った様々なノウハウを、もっと僕たちに伝えて欲しかった。僕も、もっともっといろんな事を教わりたかったし、反対に、微力ながらも自分の出来ることで最大限に彼をサポートして差し上げたかった。あのびわ湖時代のような熱い信頼関係の中で・・・・・・。

若杉さん、安らかに・・・・・。またいつか天国で山崎のハイボールを飲みましょうね。



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