初台までサイクリング

三澤洋史 

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初台までサイクリング
 今週は毎日、昼間が「ヴォツェック」の合唱音楽稽古、夜が「オテロ」の立ち稽古が続いた。「ヴォツェック」は、勿論音は難しいが、合唱の分量はわずかなので、練習は一時間くらいで済んでしまう。2時から5時までの練習枠の中で、火曜日は3時半に開始したが、水曜日は4時開始、木曜日は4時15分開始、金曜日には4時20分開始にした。そんな風にやるんだったら、一日だけたっぷりやってあとを休みにすればよさそうなものだが、こういう現代曲は何度も繰り返して身体に覚えさせなくてはいけないので、毎日日課のようにやる方が効果的なのだ。女声合唱は、まるで冗談のように少なくて、わずか2ページ。歌ったと思ったらもう幕が閉まってしまい、最後は尻切れトンボ。なので、いつも最後の15分だけ練習に参加。

 練習は遅く始まるし、今週前半はまるで秋のように涼しい日が続いたので、僕は二日ばかり、国立から新国立劇場まで自転車で通勤した。片道25キロ。往復で50キロの距離だ。7月中に劇場に申請して駐輪場の許可証だけ取っておいた。それでまず試しに、8月前半の暑さの穏やかな日に勇気を出して一度だけ通勤してみた。案外楽だったけれど、汗だけは思ったよりかいたので、また秋にでも来ようと思っていたのだ。

 今、新国立劇場合唱団はバイクがブームで、男性団員のかなりの数がバイクで通勤している。ブームの火付け役は、先日ノアを演じてくれたスキンヘッドの大森いちえいさん。彼は新国立劇場合唱団のバスのパート・リーダだ。大森さんが飽きて新しいバイクを買うと、前のやつを別の団員がいつの間にか乗っている。こうして大森ファミリーが増えていく。
 練習の始まる前や後には、みんなが駐輪場にたむろして、バイクのエンジン音をブンブンさせながらダベッている。そこにいきなりチャリンコで僕が現れたものだから、みんなびっくりしている。
「ゲゲッ?三澤さん、まさか国立から来たんじゃあ・・・・。」
「そうだよ。」
「ウッソー!」
「マエストロが、こんな不良のたまり場に来てはいけませんよ!」
「あははははは!」
「カッコいいですね、そのマウンテン・バイク!」
「まあね。」
「その内、それにエンジンつけたくなりますよ。」
「うーん、そうだね・・・・おっとっとっと、それじゃ意味ないんだよ!」
「あははははは!」

 大森さんは、日野市から僕の家の前の道を通って毎日初台まで通っているので、以前僕が自転車で行きたいと言ったら道を教えてくれた。
「シンコクまでは東八道路を通って行くのがいいですよ。甲州街道はやめた方がいいです。」
 僕の家の前には甲州街道が走っていて、新国立劇場の前まで続いている。でも甲州街道は狭いし排気ガスで空気が悪いので、出来れば通りたくないと思っていた。
 
 走ってみると、大森さんの言った通り東八道路はいいなあ。両側にたっぷりと歩道がとってある。それに植え込みの緑のためか車の騒音も排気ガスも気にならない。武蔵野線のガードをくぐり、府中街道を越え、小金井街道を越え、多摩霊園を右に見てずんずん走る。気持ちが良いのでこのままずっと走りたいのだが、東八は途中で突然なくなってしまう。その後、久我山あたりの民家の間の狭い道を通り抜けて、高速道路の側道に出る。そこまで約一時間。
 それから環八を横切り、環七を横切り、初台目指して一気に走る。最後はやっぱり甲州街道に出てしまうのだが、僕は、環七を越えると一本北側の水道道路と呼ばれる道に入り、裏から新国立劇場に入る。自宅からちょうど一時間半の道のり。

 さて、このサイクリングには、実はとても楽しみなご褒美がついている。自転車で行く日は、いつもよりカロリーを消費するので、ちょっと余分に食べてもいいんだ。
「ミニストップのソフトクリームはおいしいですよ。」
という、またまた大森さんの忠告を素直に受け入れて、僕は東八道路の中程にあるミニストップに入って休憩。う、うまいぜ!ソフトクリーム!

 と、思っていたらまた暑い日が戻ってきた。その後は台風だ。またしばらくサイクリングはおあずけかな。ああ!ソフトクリーム!い、いや・・・・サイクリング!

シュニトケのオラトリオ「ナガサキ」
 バッハ・ターゲが終わってから、群馬に帰っていた時、唯一やっていた仕事がある。それは、読売日本交響楽団が11月の終わりに新国立劇場合唱団を使って演奏するシュニトケ作曲のオラトリオ「ナガサキ」の譜面作りだった。
 この曲は、1934年に生まれたロシア人の作曲家シュニトケが1958年に書いたというから、計算によると彼の弱冠24歳の頃の作品だ。実は、現存する譜面というのが、手書きのとても読みにくいスコアと、合唱のためのパート譜だけなのだ。
 合唱のパート譜というのは、見たことのない人も多いだろうが、伴奏も何も書いてなくて、まるでオケのパート譜のように合唱パートのみが書いてある。歌手の場合、自分の喉でひとつひとつ音程を取っていくし、全体の音楽像を把握出来ないとどう歌っていいか分からないので、伴奏譜がないと使い物にならない。
 そこで誰かにピアノ・ヴォーカル譜を書いてもらわなければならないね、という風に話が発展し、気がついてみたら僕が書くことになってしまったというわけだ。まあ、いつものことだけれど、貧乏性というかなんというか・・・・・。でも、自分が稽古をつける作品のスコアを知っている者としては、変なアレンジを施されるくらいなら、自分が苦労してもやりたいという思いもあるのだ。

 で、アレンジをしてみると・・・・これがね、実に良い曲なのだよ。シュニトケは、初期においてショスタコーヴィチなどから影響を受けていたが、この曲を書いた後に、ストラヴィンスキーなどをはじめとする西欧の現代音楽を知り、一時は12音技法の曲なども試みているが、どうも性に合わないと独自の道を歩んでいく。何故性に合わないと思ったのか、という理由が、この若い頃の作品を読み込んでいくと作品の中から読み取れる。
  シュニトケの感性ってね、尊大でおこがましいのを承知で言わしてもらうと、僕によく似ているのだ。それで「ナガサキ」も、まさに悔しいくらいに、僕がカンタータを書いたらきっとこんな風に書くだろうと思うことを全て先越されているような、僕の大好きな作り方なのだ。
 僕は、ナガサキだのヒロシマだの原爆だのというテーマを掲げることに、手放しで賛成する人間ではない。こうしたテーマは、その内包する重さから、安易に同情を得られそうだから、軽はずみな気持ちで取り組んで欲しくないのだ。でも、作者が真摯な態度でそのテーマと向かい合い、その重さを全身で受け止めようと決心している場合には、おのずと分かるものである。
 シュニトケの「ナガサキ」には、その作者の祈りが感じられる。現代音楽と呼ぶには平易な作風で、ショスタコーヴィチよりはむしろカール・オルフなどの作風に近いけれど、その中に、ロマン派とは違った形での生きた人間の感情や情熱が表現されている。
 僕が好きなのは、彼が自分の書いている音楽を「耳で聴いている」ところにある。自分が「聴きたい音楽」を彼は書いている。こういうと当たり前のようだけれど、現代音楽の場合、耳で聴いて書いていない場合が多すぎるのだ。だから僕は12音技法の音楽は(曲にもよるけれど)あまり好きではないし、シュニトケもきっとそうなのだ。
 アレンジをしながら、僕は何度か胸が熱くなる思いをした。まだまだ合唱練習も何も始まっていないけれど、僕は、早くもこの曲に関わって良かったと思っている。こうした体験はそうあるものでもないなあ。先日のヴィラ・ロボスといいシュニトケといい、まだまだ良い曲は世の中に埋もれているんじゃないか?

 ピアノ・ヴォーカル譜はもうすぐ出来上がる。これが出来上がると、2009年の僕の夏は本当に終わるんだ。

おくりびと
 家に帰ったら妻が「おくりびと」を見ていた。DVDを借りてきたのかなと思ったらWOWWOWでやっていた。実は以前から興味はあったのだが、親父の葬儀の印象がいろいろ生々しかったので、この映画だけはとても見る気になれなかったのだ。
「え、どうしようかな・・・・二階に上がろうかな。」
と思ったのだが、食事をしなければならないので仕方なしに一緒に見た。で、見始めたら惹きつけられ、結局食事が終わっても居間に残り、最後まで観てしまった。

 とてもいいなあ、この映画!死というものを通して、人が「生きる」ということを押しつけがましくなくやさしく、それでいて鮮やかに描き切っている。本木雅弘のいつもちょっと緊張して口を固く結んだ表情がいいし、なんといっても広末涼子の妻が可憐で可愛いな。
「もっとまともな職業に就いてよ。」
と言う気持ちもわからなくもないし、後半、しだいに夫のやっている仕事の価値を分かってくるところの描き方が最高。また山崎努、吉行和子、笹野高史などの脇役も、みんないい味を出していて手堅い。

 納棺師という人を、僕は親父の葬儀で初めて見た。二十数年前、祖母が亡くなった頃は、葬儀もお寺や自宅で行ったし、いろいろな準備は隣組で協力して行っていた。それがいつの間にか葬儀屋の仕事が素晴らしく発展し、葬儀場もお寺から離れ、それに伴って納棺師なる職業も一般的になってきた。
 親父の時は、まず来た納棺師が、志保や杏奈と変わらない若い女の子なので驚いた。その子が親父の顔や体を整えてくれてから、実際の納棺の時にはもっとベテランの男の人が務めてくれた。僕たちはその若い子の仕事ぶりを見て感心しながら、
「この子って、一体どんな人生を経て、こういう職業に就いているのだろう?」
と、いろいろ考えてしまった。なので「おくりびと」の映画はなおさら親父の葬儀とカブッてしまうのだ。

 見終わった時、すがすがしい感動を覚えながら、
「もっと早く観ればよかった。」
と思ったが、じゃあ映画館の大画面で観た方がよかったかと問われると、微妙かも知れない。僕は、初盆が過ぎた今でも、まだ親父のことをいろいろ引きずっているのかな。

悔悟するダヴィデ
 この原稿は、名古屋からの帰りの新幹線で書いている。今は8月30日日曜日の午後11時。今日は、一週間後に迫ったモーツァルト200合唱団定期演奏会のソリスト合わせと、オケ練習、オケ合わせがあって、朝の11時から夜の8時過ぎまで練習に明け暮れた。
 ファゴット協奏曲のソリスト、ブルガリア生まれのゲオルギ・シャシコフ君は、若いけれど素晴らしいファゴット吹きだ。現在名古屋フィルハーモニーの首席奏者ということだが、音がしっかりと立っていて輝かしく、フレージングも音楽的。
「ファゴット協奏曲って地味なんじゃないの?」
という心配を全く払拭してくれた。それどころか、モーツァルトがファゴットという楽器をいかに良く知っていて、愛情をもって協奏曲を書いたかということが彼の演奏を聴きながら分かって嬉しかった。彼のファゴットを聴くだけでも演奏会に来る甲斐があるというものだ。

 メイン・プログラムの「悔悟するダヴィデ」という曲は、実はモーツァルトの有名な「ハ短調ミサ曲」のパロディで、歌詞がイタリア語と、なにやらインチキ臭い曲に見えるが、さすがモーツァルト!この曲だけのために書いたソプラノとテノールのための二つのアリアが秀逸!まるでオペラ・セリアのアリアのようだが、独創的でしかも親しみやすい。ソプラノの飯田みち代さんと、テノールの高橋淳君の二人の歌も立派。アルトの三輪陽子さんを交えて、休憩時間にはいろいろ愉快な話題でお腹が痛くなるほど笑った。
 ハ短調ミサ曲からパクった合唱部分も、バッハのパロディのように絶対音楽としての堅固なたたずまいを失わず、聴き手を惹きつけてやまない。ハ短調ミサ曲は、モーツァルトが未完成のまま放り出してしまった曲だ。大変な傑作には違いないのだが、ひとつひとつの曲が素晴らしくても、未完成なので曲としてのまとまりは期待出来ない。だが「悔悟するダヴィデ」は、ひとつのまとまった完成作品だ。ハ短調ミサ曲のクレドから後の部分が採用されていない点は残念だが、少なくともモーツァルトの手によって「完成された」作品を通して聴けることは貴重ではないか。

 モーツァルトを振っていると、他の作曲を指揮している時には味わえない至福感を味わえる。やっぱり天才だな。こういう作品に触れているだけで、僕は自らの魂が磨かれてくる気がするよ。

演奏会まであと一週間。僕の魂はモーツァルトに向けて焦点を合わせていく。

どこへ行く日本
 一夜明けて、今日は8月31日月曜日の朝。昨夜午前0時頃に家に帰ってテレビをつけたら、民主党が圧勝していた。こうなるとは思っていたが、これほどとは思わなかった。いよいよ政権交代となるわけだ。
 ただこの選挙、民主党にみんなが本当に期待しているとか、民主党の中に強烈なカリスマ性を持った指導者がいて、その人にみんなが夢を託してこういう結果が出たわけではない。むしろ自民党に嫌気がさした人達が、さしあたって次の議席数を持つ民主党に一度やらせてみるかという気持ちで投票しただけ。民主党の政治手腕に関しては、まだまだ懐疑的。
 高速道路無料化とか、いろいろ口当たりの良いマニフェストが並んでいる民主党だが、本当に出来るんかいな、とは誰しも思うところ。たとえば僕なんかは、高速道路が無料化になったらETCの会社はつぶれるのかな、とかどうでもいいことを心配してしまったりして・・・・。改革をする時には、どこかに痛みを伴うわけだ。その痛みを味わう当事者になった時に、自分で投票した人は恨みを持つことなかれ。
 僕の立場で言えば、「天下りをなくせ!」というスローガンに賛同した自分だが、独立行政法人の真っ直中で働いているわけで、ある日突然、
「財団法人新国立劇場運営財団は解散します。じゃ、そういうわけで!」
と路頭に迷う可能性もあるわけだ。まあ、そうなったらそうなったで、レストランのピアノ弾きしたり、コンピューターでゲームの音楽でも作って食べていくか。

 とにかく、これから民主党がどこまでやれるか?外交とかどうするのか?日本はどうなっていくのか?しばらく政治から目が離せない今日この頃でございます。



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