フリッツァと仲良し
今シーズンのオープニングを飾る「オテロ」公演の指揮者リッカルド・フリッツァとは、「マクベス」「アイーダ」と二度にわたって、僕が合唱団へのフォローとして行うペンライトの使用をめぐっていさかいを起こしている。特に「アイーダ」の時は、凱旋行進の場面で百人を越す合唱団が全員、オーケストラ・ピット内の指揮者を見ることなど不可能な状態なのに、彼が、
「ペンライトを使うな、俺だけを見ろ!」
と要求したことに僕がキレて、
「ふざけるな!お前の姿はおろかモニターも何も見えない状態で後ろに立たされている合唱団員の気持ちがお前に分かるか!彼らは怖くて歌い出すことも出来ないのだ。そんな状態でどうして良い音楽が出来るか?お前の言うことなど聞けないんだよ!」
と大げんかをしたことは、新国立劇場の内部の者なら誰でも知っている。
でもけんかの後、僕は彼との約束は忠実に守った。自分が彼に納得させた箇所はペンライトで振ったが、それ以外のところは隠れて振ったりせず、彼の意志は尊重した。また、彼の出すダメ出しに対しては、誠意を持って接したし、彼の音楽的意向は全力を通して実現するように努めた。そんな僕の姿勢を見ていて何か思うところがあったのか、尊大だった来日時とは打って変わって「アイーダ」公演の最後にはとても感じが良かった気がしたが、それを裏付けるように今回は初回から人が変わったように僕に対して親愛の情を示し、かつリスペクトしてくれている。
「こいつは、素晴らしい合唱指揮者なんだ。ちょっと変わっているけどね。」
と、フリッツァは周りのイタリア人に言って歩いている。僕にも、
「この合唱団、毎回来るごとにどんどん良くなっているね。響きが揃っていて音楽的にもとてもいい。」
なんて言うんだぜ。以前には考えられなかったことだ。
ちなみに、こうした会話を、今回は彼とイタリア語でしている。ここのところ集中的にイタリア語を勉強していたので、自分で言うのもなんだが、随分しゃべれるようになってきたし、周りのイタリア人達の会話もよく理解出来るようになってきた。
フリッツァも、片言ながらイタリア語で話している僕が嬉しいのか、いろいろ話しかけてくる。いつの間にか僕たちはtu(親しい人達だけで呼び合う「お前」とか「君」というような意味の言い方)で呼び合っている。前回は英語で話していたので、Youでしか呼び合っていなかった。
英語というのは、大統領に対してもYouと言えてしまうラフさがウリかも知れないけれど、誰に対してもYouしか呼ぶ方法がないというのでは人間関係の微妙さは表現出来ないな。やっぱり英語という言語の単純さは、ビジネスの世界でこそ威力を発揮するのであって、人生の機微はこの言語には期待出来ない。
とにかく、僕たちがtuで呼び合うようになった意味は大きい。ドイツ人に特に顕著なのだが、ヨーロッパ人は、tuで言い合うようになると「内側の人間」という意識をお互い持つようになり、会話の内容もガラリと変わる。フリッツァのような外に強く出るタイプの人間は、なおさら内側に入ると豹変する。実際、仲良くなってみると、すごくやさしくていい奴なのだ。キュートな奥さんも、前はなんだか生意気に見えたものだったが、今ではとても感じ良い。こう言う僕も全く現金なものだね。彼女は、日本に来てから一生懸命日本語を勉強している。僕もいろいろアドヴァイスしてあげる。
フリッツァは、来日してすぐに合唱団の音楽稽古をやった。僕の姿を見るなり、
「マグロ!」
と言ったのでびっくりした。でもフランス語で「痩せている」という意味のmaigre(メーグル)という単語を思い出し、
「痩せたね。」
と言っているのだと理解した。後で辞書を見たら、やはりイタリア語はmagro(マーグロ)だった。反対にフリッツァのお腹はちょっと可愛い感じに出っ張ってきた。何か言おうとしたら、
「俺のお腹ヤバイし・・・・。」
と自分で言っている。
練習に入ると、フリッツァの周りには研ぎ澄まされた緊張感が漂い、一気に合唱団員達の心をつかんでしまった。僕は、彼の作り出す音楽の中に微妙な変化を感じ取る。相変わらずのキビキビとしたテンポ感は変わらないけれど、フレージングに空間性が出てきて、音楽のスケールが大きくなってきた。
僕は思った。もしかしたらコイツ、いろんなところで揉まれていく内に、自分の思いだけをゴリ押しするだけではうまくいかない場面に遭遇し、人間が丸くなってきたのかな。まわりの空気を読む力がついてきて、強引さに代わって自然な流れが彼の音楽を支配するようになってきたのだ。
フリッツァが、まれに見る大きな逸材だという僕の認識は、最初に会った時から変わらないが、こうなると本当に目が離せない存在になってきつつある。彼は巨匠への道を歩き始めている。僕の目に狂いはないと思うが、さらにその認識を確信に変えるためには、今回の「オテロ」で彼が最終的にどういう音楽を作り出すかにかかっている。
こういう風に人材を発掘し、評価を与えるのってワクワクするよね。まあ、僕だけが発掘しているわけでもないし、勝手にアレコレ思っているだけだけどね。でも、僕たちの世代の使命は、こうして良い人材を良いと評価し公平な判断をすること。これを怠ると、若くて才能のある音楽家達が必要のない苦労をすることになり、場合によっては失意の内にやめちゃったりする。純粋に才能の有無で動く世界でなく、変な家元制度やコネクション、あるいはヴィジュアル的にどう?という事ばかりで回っている音楽界だったから、これまでの日本が駄目だったのだからね。
フリッツァに関してはまた報告するよ。皆さんも注目していて下さいね。
モーツァルト200演奏会無事終了
久しぶりにモーツァルト200の演奏会後の打ち上げに出た。前回のメンデルスゾーン「パウロ」では、父親が危篤状態に陥っていて、演奏会終了と共に群馬に直行したし、その前は、演奏会の晩に成田空港からモナコに向けて旅立たなければならなかったので、やはりあわただしく失礼してしまった。考えてみると、いつもこんなギリギリ生活をしているなあ。
どの打ち上げも雰囲気は似ている。まあ、よかったね、よかったねの連続だ。にもかかわらず、打ち上げは大切だと僕は思っている。特に、演奏会を指揮しながら1人だけ打ち上げを出ないで帰途につく立場になってみると、なんか「やり逃げ」しているという感じで、納めるべきものを納まる所に納めないで放ったままの、いわゆる未完了の感覚なのだ。
打ち上げとは、演奏会を共に行った者同士が、その余韻の中で時間を共有するところに価値があると思う。だから、よかったね、よかったねで基本的にはいいのだ。僕たち指揮者は、打ち上げのスピーチで、演奏会の反省点を指摘してくれとお願いされることが少なくないけれど、それはしたくないのだ。第一、酒がまずくなるぞ。
とはいえ、ミスに気がつかないわけではない。それどころか、本番中の指揮者は通常の倍くらい感覚が鋭敏になっている。ちょっとのミスやタイミングのズレがもの凄く大きいものに感じられる。それに、演奏の最初から最後まで、どこで何が起こったか逐一覚えている。
「無我夢中で分かりませんでした。」
ということは、演奏者はともかく指揮者では起こり得ないし、起こってはいけない。
指揮者にとって、棒がきちんと振れる事は第一段階として大切なことだが、その先に求められることは三つの条件だ。
第一に、音楽のイデーを理解しこれを指し示す能力。それで演奏会に臨むわけだが、もし本番中に、
第二に、今鳴っている音楽を冷静に聴く能力。
第三に、何か起こった時の迅速な判断力。
ここまで自分が責任を取ると思える範囲が、自分が指導者として影響を及ぼすこ との出来る範囲であり、自分の人格のキャパシティだ。さて、このモーツァルト200の演奏会は実際の所どうだったのか、と知りたい読者はいるだろうね。よかった、よかったの打ち上げでの話しではないのだが、実際とても良かったのだよ。手前味噌を覚悟で言うと、聴衆がモーツァルトの魅力を大いに満喫出来た演奏会だったのではないか。