NHK・FMの「ローエングリン」

三澤洋史 

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痩せすぎ?
 最近になって、周りのみんなが、
「三澤さん、痩せすぎですよ。」
と言う。
そうやって言ってきてくれる人はまだいい。僕に会って、ギョッとし、なるべく目を合わせないようにしながら、向こうの方で僕の方をちらちら見ながらひそひそ話す人も少なくない。つまり、僕が何か深刻な病気にかかって、あるいは手術かなんかして、こんなに激ヤセしたのではと心配しているわけだ。特に僕が食事制限を始めた3月より後に一度も会っていない人は、ショックが大きいようだ。

 でも本人はいたって元気だ。先日も採血をし、その結果を聞きに大野誠先生という糖尿病専門医の検診に行った。
「ヘモグロビンA1cが5.3を維持していますね。素晴らしいですよ。中性脂肪40、体脂肪11ですか。ちょっと低すぎるくらいです。では、これまで2錠ずつ飲んでいた薬を1錠に減らします。これでしばらく経って様子を見て、どんどん成分を減らしていく方向で考えていきましょう。」
体重に関しては、確かにもう少し戻してもいいようだ。
「でも、周りの人がいろいろ言っても、体重に関しては今の状態で低すぎるということはないですよ。多少戻すのは結構ですがリバウンドにはくれぐれも気をつけて下さいね。運動は代謝能力を高めるため、必ず続けること。」
ということだ。食事は、以前と違って体重を減らす必要がないので、この体を維持するだけのエネルギーを摂取出来るため、ほぼ満腹感を得るまで食べられる。だから何も大変なことはない。お酒だけは控えめ。でも、今から考えてみるに、以前の生活が異常だったのだ。

合唱コンクールの審査員
 9月27日の日曜日は、朝10時半から東京都合唱連盟主催のコンクールの審査員をした。僕が審査したのは一般団体だけだったが、31団体を審査し結果を決めて表彰式をして文京シビック・ホールを出たら、もう9時を回っていた。ふうっ、めちゃめちゃ疲れた。このコンクールで金賞を取った団体から、全国大会に出場していくわけだ。
 
 しかしなんだね。日本の合唱のレベルといったら、これはもう異常だね。こんな国は他にないのではないか。でも、これをもって日本では「一般的に」合唱が盛んかというと、疑問が残る。盛んという意味では、明らかに昔の方が盛んだった。つまり、僕たちが高校生の頃。僕が一生懸命学生指揮者として高崎高校合唱部に在籍していた頃だ。

 世の中が変わってきている。人々の好みが細分化され、全ての人達に愛される国民的アイドルがいなくなって久しい。みんなが同じテレビ番組を見ていて、翌朝興奮して語り合うということもない。それにともなって、大衆的な大合唱もしだいに消えていった。
 代わって台頭してきたのが、高度に磨かれたコンクール向きの合唱団だ。この世界では、もの凄い過当競争が行われている。今回のコンクールでも、甲乙つけ難いほど、どの団体もハイレベルだ。だからちょっとのミスが敗因となる。特筆すべき長所があっても、あらが目立つと最後、減点につながり、トップの線から落ちる。

 今回、審査をして、僕が他の審査員達と評価が割れた団体について、終わってからいろいろ考えてみた。一番違っていた点は、やはり発声に関するものだった。高校や大学の合唱団のOBが集まって作っているような合唱団は、とても声がそろっている。しかし、発声として磨かれているかというと、そうとも言えない。年齢層が一緒だからたまたま声が揃っているだけということもあるのだ。
 ではオペラチックな発声をしたらいいかというと、その場合はとてもリスクが大きい。自分は良い声だと思っている人が、しばしば合唱団のアンサンブルを乱している最も大きな問題児であるということを、僕たちは日常茶飯事として目にするものね。
 でも、良い発声というものは、多彩な表現をするための武器なのだ。良い武器は使いこなすのが難しいが、それを駆使して表現を行ったならば、戦いには勝つのだ。僕が評価した団体の中には、多少のあらがあったが、その武器を使いこなして一生懸命「表現」をしようとしていた団体があった。僕はそうした団体を半ば意図的に評価した。
 では、その団体を全国大会に送り出したら一位を取れるのかといわれると、それはねえ、コンクール全体がどういう価値基準で動いているかという根本的なことにかかってくるから、なんとも言えない。まあ、複数の先生達が審査しているので、多面的な観点から見たそれぞれの審査員達が下した評価が多少分かれるということも、ある意味必要なのではないかとも思える。むしろ一つの方向性を持った人達のみが集まって、いつも全員一致という事態の方が怖いことなのではないか。とにかく、僕としては自分がありのままに感じたことを、採点ということで表現したまでだ。これ以上のことも、これ以外のことも出来ない。その意味では後悔はない。

それにしても、音楽を点数で評価することのなんという難しさよ!  


NHK・FMの「ローエングリン」
 10月11日(日曜日)の午後一時から、NHK・FMサンデークラシック・ワイド 海外オペラアワーという番組があるが、そこの案内をやる。NHK・FMの案内は、これまでにもバイロイト音楽祭など何本かやっているけれど、今回は久しぶりだ。演目はワーグナー作曲の歌劇「ローエングリン」で、2008年11月19日と23日にウィーン国立歌劇場で行われた公演のライブ録音。
 放送では、冒頭と「ローエングリン」 の第一幕の後、そして最後にトークが入る。冒頭のトークでは曲の説明、途中のトークで指揮者及びキャストの説明と感想、それから最後のトークで全体の感想を述べ、それにあらすじやキャストの紹介が加わる。あたかもそこで一緒に初めて曲を聴いているかのように話すわけだが、トークの部分だけあらかじめ録って予定時間に合わせて編集し、音楽と組み合わせて放送するのがむしろ一般的だ。トークの録音は10月2日金曜日の朝10時から行った。
「ホームページで宣伝したいのですが、こうして放送より前に録音することを書いてしまっていいですか?」
と念のためにNHKに訊いてみた。
「いいですよ。どんどん宣伝して下さい。」
と許可が下りたので、こうして書いているわけだ。

 あらかじめ音資料がCDで送られてきた。それをi-Podに入れて聴く。一日休日をとって最初から最後までノンストップで聴くべきなのかも知れないが、なかなかそういうわけにもいかない。しかし聴き始めて、これはなかなか良い演奏だなと思った。特に主役二人が良い。
 ローエングリン役のロバート・ディーン・スミスとエルザ役のカミラ・ニュルンドだ。ディーン・スミスは新国立劇場で「運命の力」のドン・アルヴァーロや「ワルキューレ」のジークムントで来日していて、我が国でもしだいに名前が知られつつある。
 彼がワーグナー歌手として有名になったきっかけはバイロイト音楽祭だ。最初彼はペーター・ザイフェルトが「マイスタージンガー」のワルター役を歌う時のカヴァー歌手としてスタンバイしていたが、1997年のザイフェルトは絶不調で、度重なるキャンセルを引き受けてディーン・スミスが舞台に立つこととなった。それが好評で、本役をゲットし今日に至っている。
 僕がバイロイトで働き出した頃、彼は僕が住んでいたアパートの斜め向かい側の電器屋の二階に住んでいたので、練習に出かける時とかによく顔を合わせ、いろいろ話をした。とても頭の切れる人で、有名なエピソードが残っている。
 ある年、ローエングリン役の歌手が体調不良で公演をキャンセルした。ディーン・スミスは「ローエングリン」のカヴァーとして入っているわけではなかったが、急遽代役として舞台に立つこととなった。ところが、その「ローエングリン」の前の日には「マイスタージンガー」があり、彼はワルター役として出演しているのである。ワルター役を歌い通すだけでも大変なのに、次の日に「ローエングリン」を歌うなんて信じられないので、僕はディーン・スミスに思わず訊いてしまった。
「ボブ、大丈夫なの?喉疲れない?」
ロバートの愛称はボブだ。すると彼は涼しい顔をして、
「大丈夫だよ。僕の場合、一晩寝れば回復するからね。」
そうなのだ。彼のように力まない発声法で歌っていれば、あの長大な「マイスタージンガー」の次の日に「ローエングリン」を歌うことだって可能なのだ。本当に良い発声だったら無駄に声帯を消費しない証拠だ。でも誰にでも出来る事じゃない。それに記憶力だって・・・・。

 ディーン・スミスは、その発声法でどの役も軽々と歌う。しかしどの役も絶賛を浴びていたかというとそういうわけではなかった。それはパヴァロッティの場合と似ている。純粋に発声テクニックだけをみると、勿論タイプも違うが、ホセ・カレラスなどよりもパヴァロッティの方が優れているように思える。でも、だからこそというべきか、あまりにも楽々と歌われてしまうと観客としてはスリルがないというか面白みがない。その点、カレラスはギリギリのところで歌う。あるいは歌うふりをする。これに観客はシビれるのだ。
 バイロイトの評価では、「ペーター・ザイフェルトはリスキーな歌手だけれど華がある。ディーン・スミスは安定性では抜群だけれど、面白味に欠ける。」という評価が定着していた。決して無味乾燥な歌というわけではなかったのだけれど、彼の安定性がマイナスに評価されていたわけだ。
 しかし2000年以降、彼はバイロイトの常連として毎年登場するようになるとしだいに変わり始めた。フレージングの合間に様々なニュアンスが感じられるようになると、元来持っている持ち声の美しさが最大の武器となって、何ともいえない男の色気を醸し出す。そうなると彼の資質は、ローエングリンのような高貴な役に最もふさわしいものとなる。僕は2003年でバイロイトを離れたけれど、新国立劇場で聴くディーン・スミスの音楽的成熟には目を見張るものがあった。その成長の延長上にこの「ローエングリン」もあるわけだ。それを是非皆さんにも味わってもらいたい。今や、彼こそは当代一のローエングリンだと僕は信じている。

 一方、エルザを歌っているカミラ・ニュルンドだが、このエルザも文句がつけようがない。フィンランド生まれのニュルンドは、2007年の新国立劇場の「薔薇の騎士」で元帥夫人を歌っている。元来美人であるのだが、とにかく舞台でのたたずまいが美しいのだ。自分が舞台上に立つと客席から見てどのように映っているのか全て理解している天性の劇場人だ。
「薔薇の騎士」の第一幕の最後で、煙草をくゆらせながら、アンニュイな気分の中に浸っていた元帥夫人のそこはかとない哀しさの表現は、僕の脳裏に今でも鮮やかに浮かび上がっている。過ぎゆく時を惜しみながら、降りしきる雨の中で、愛人のオクタヴィアンが自分の元を去っていく日が近いことを予感していた。あの時のニュルンドの表現は、他に追従を許さないものがあった。

 この「ローエングリン」の録音では、勿論映像を見ることは出来ない。けれど、表現された歌の中に僕たちは彼女の描くエルザの像を感じ取ることが出来る。弟殺しを疑われている一方で、夢の中で輝く騎士の幻を見るというエルザを演じるのは、実はかなり難しい。気をつけないとただの夢想癖のあるイカれた娘になってしまうからだ。
 それに、オルトルートの誘惑に乗せられて疑惑を持ち、「決して素性を尋ねてはいけない。」と言ったローエングリンに対し、とうとう禁制を犯して素性を尋ねてしまうエルザは、とても愚かな女に感じられてしまう危険性がある。でもニュルンドのように透明感溢れて知性的に歌われると、観客は彼女にシンパシーを持ち続けることが出来るのだ。

 フィンランド人の指揮者レイフ・セーゲルスタムは、日本ではあまり知られていないかも知れない。いわゆるメジャーな商業ベースには乗っていない人だが、ヨーロッパでは堅実なベテラン指揮者として名が通っている。
 1990年に、二期会が大野和士の指揮、三谷礼二演出の「蝶々夫人」と、佐藤功太郎指揮の三木稔作曲「春琴抄」を持ってフィンランドのサヴォンリンナ音楽祭に出演した。その時に僕も副指揮者として同行したが、自分たちの公演の合間に音楽祭主催の「さまよえるオランダ人」公演があったので観た。それを指揮していたのがセーゲルスタムだった。 その時のセーゲルスタムの音楽作りは、特に変わった解釈というものは見られなかったけれど、こうあるべきところは全てこうあるという、職人的な演奏だった記憶がある。
この公演で僕にとって衝撃的なことがあった。それはサヴォンリンナ音楽祭合唱団の女声の美しさだった。ドイツあたりのヴィブラートのかかった、時に音程ぶら下がり気味のコーラスと違って、スエーデン放送合唱団などと共通する、透明な響きを持った声、安定したピッチ、のびやかなフレージング、そのどれをとっても素晴らしく、そのサウンドは現在でも僕のオペラの女声合唱の音楽作りをするひとつの指針となっている。

 今回のウィーン国立歌劇場管弦楽団を指揮するセーゲルスタムも、とても堅実。とはいえ、随所に情熱的なほとばしりが見えて、単なるルーティン指揮者とは全く性格を異にする。それにしてもウィーン国立歌劇場管弦楽団はやはりうまいな。弦楽器などは時々うっとりとするくらい美しいよ。そうしたフレージングを引き出しているのもセーゲルスタムの腕だと言える。時々、ティンパニーなどを効果的に用いているバランス感覚もGood! 彼はこの録音の前の年、すなわち2007年に、久々にウィーン国立歌劇場に登場し、「トリスタンとイゾルデ」を指揮してセンセーショナルな大成功を収めたそうで、それを受けての起用ということだ。

 「ローエングリン」は、お伽噺の常套手段である「禁制」というものをテーマにした物語だ。「決して自分の素性を訊ねてはいけない。」というローエングリンのいいつけをエルザが破ったために起きる悲劇なのだが、ワーグナーはそれに、「人間を陥れていく悪の力」という要素を加え、この劇を内面的な幅の広いドラマとして仕立て上げている。「禁制」の原点、すなわち旧約聖書の失楽園の物語でいうと、アダムとエヴァを誘惑した蛇にあたる存在として、ブラバントの伯爵フリードリヒ・フォン・テルラムントと、その妻オルトルートという登場人物がいる。
 ワーグナーは「ローエングリン」第二幕冒頭で、闇の音楽を書いた。この第一場全体はとても革新的な音楽だ。音楽で「闇」ないしは「悪」というものが表現されている。こうした表現を行う時、ワーグナーの意識の中には、自分がドイツ・ロマン派の真の継承者だという自負があったに違いない。人間存在の内面を深く探る行為としてのドイツ・ロマン派では、潜在意識の中の闇の表現が不可欠なのだから。
 オペラの世界におけるロマン主義の萌芽は、光と闇の相克を描いたモーツァルトのジングシュピール「魔笛」にさかのぼれるかも知れないが、闇の表現に関しては充分とは言えなかった。それはウェーバーの「魔弾の射手」の出現まで待たなければならない。すなわち悪魔のザミエルと狼谷の表現だ。実際ワーグナーはウェーバーからとても影響を受けていると自分でも語っている。
 それが、苦悩するオランダ人に表現され、自らの内面に闇を抱えるタンホイザーに結晶し、そして「ローエングリン」では、テルラムントとオルトルートに結晶した。ここでは闇の主人公はむしろ妻であるオルトルートの方だ。彼女こそ魔法使いで、エルザの弟ゴットフリートを白鳥に変えてしまった張本人なのだから。
 この二人を、ベテラン・ワーグナーバリトンであるファルク・シュトルックマンと、輝かしいメッゾ・ソプラノのヤニナ・ベヒレが雄弁な語り口で見事に演じている。

 僕のお話については、この原稿を読んでしまった皆さんには、もう特に新しい情報はありません。でも、演奏は出来たら是非聴いて欲しい。「ローエングリン」は、「タンホイザー」ほど革新的ではないし、後期の楽劇群ほど独創的ではないかも知れない。でも、この作品全体にただよっている崇高で高貴な響きは、ワーグナーの全ての作品の中で独自の世界を持っている。僕は「ローエングリン」が大好きだ。って、ゆーか、ワーグナーの作品はみんな好きなのだけれど・・・・。

とにかく、これはとても良い公演です。



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